【第二章 若狭】第二十五話 若狭の柵 引くぞ
一五六二年 夏 若狭
山を越えると、道が細くなった。
北近江から若狭へ入るには、峠を二つ越える。一つ目は、まだ道幅がある。二つ目から狭くなる。
片側は山、反対側は谷である。薙刀を括った駄は、柄が当たるたびに止まった。
人も二列がやっとであった。なぜ止まったのか、間にいる者には分からない。声だけが列の中を行き来した。
三田村国定は、市の左にいた。右には大野木、長政はその少し後ろである。
三田村の役は、敵の大将を探すことである。旗と伝令の集まる場所を見て、市に訊かれたら答える。それきりであった。
後ろの列は伸びていた。糧を積んだ駄には、まだ峠へ入っていないものもある。遅れている隊も追いついていない。
追って参ると聞いていた。昼は、もう過ぎている。
止まって待つ場所はない。長政は進ませた。
市は、後ろを見なかった。
谷が開け、田が見えた。若狭へ入って最初の村である。
田には誰もいない。家は戸を閉め、外から心張りをかったものもある。井戸端には桶だけが残っていた。
三田村は、その桶を見た。二日か三日前から、村の者はこちらが来ることを知っていた。家の中をまとめ、家畜を連れて逃げるだけの間があった。
その先に、柵があった。
道を横切り、水路から山の斜面まで続いている。田へ入れば馬の脚が沈む。回り込む場所はない。
柵の向こうには、二百か三百の人が並んでいた。
具足を着けた者は少ない。野良着に籠手だけの者。竹竿や鍬を持つ者。弓は後ろに数人いるだけである。
旗はなかった。
三田村は、大将を探した。床几も幕もない。誰かの周りに人が集まっている様子もなかった。
弦の音がした。
矢は浅井の列まで届かず、田の中へ落ちた。二本目も届かない。近づくなと知らせているだけである。
「なんじゃ、こやつら敵か」
市が言った。
三田村は答えず、長政を見た。
「殿。この地は通れると聞いておりましたが」
長政は、柵の向こうの顔を確かめるように見た。次に閉じた戸と、道の脇を見る。誰かを探しているようであった。
「・・・」
答えなかった。
市が、もう出ていた。いつ馬を出したのかを、三田村は見ていない。黒い馬が田の際へ出ている。柵へ向かっていた。
黒い馬が田の際を柵へ向かう。
「市、待たれよ」
市は止まらない。
柵の向こうで槍が上がった。弓を構えた者の腕を、隣の者が掴む。矢は放たれなかった。
右手の木立から、三十か四十の者が出た。
穂先を低くしている。
当てるつもりである。
「右じゃ!」
大野木が向きを変えた。長政も馬を回し、来た槍を刀の峰で落とした。次の者には馬をぶつけ、身体ごと押し返す。
二人を相手にして、どちらも斬っていない。
「三田村、市をたのむ」
三田村は、市を追った。
柵の端に近いところで、丸太が一本だけ沈んでいる。
市は、そこを選んでいた。
馬を斜めに寄せる。
最後の数歩だけ、まっすぐにする。
黒い馬が前脚を上げた。
地面を蹴る。
市は薙刀を頭の上へ上げていた。
柄を横にすれば柵へ当たる。
まっすぐ立てれば、馬と一緒に越えられる。
馬の身体が上がった。
市の腰が鞍から浮く。
腹の下を、丸太が通った。
向こう側へ落ちる。
前脚が土を掴んだ。
後ろ脚も越えた。
鞍へ腰が戻る。
馬は止まらなかった。
並んでいた者たちが左右へ逃げた。市の馬が来るところだけが空く。
三田村も同じところを跳んだ。後ろから、もう二頭が続く。
柵の中は、乱れているだけであった。槍を持つ者は人に押され、鍬を持つ者は捨てて走る。止まれという声と、退けという声が重なった。どちらも号令ではない。
ただ人がいる。市が入る。人が散る。それだけであった。
「大将はどこじゃ」
三田村は走りながら見回した。
旗も床几も幕もない。伝令もいない。大将がいれば、その周りだけ人の動きが変わる。その輪が、どこにもなかった。
「・・・おりませぬ」
「どういうことじゃ。戦には大将がおるじゃろう」
「おりませぬ」
市は逃げる者を見た。追えば届く。それでも追わなかった。
手綱を引き、馬を柵の方へ向ける。
「ならば、わしの出る幕ではないのう」
腹を立てた声ではなかった。大将がいない。ならば戦ではない。それだけであった。
「陣にもどるぞ。ついてまいれ」
「はっ」
市は、もう一度柵を跳んだ。並んでいた者たちは追ってこない。長政も木立から出た者を追わず、市が戻るのを見ると刀を下ろした。
三田村だけが振り返った。
柵の向こうでは、逃げた者が戻り始めている。槍を拾い、鍬を持ち直し、空いたところへ並ぶ。
市を避けて退き、市が戻れば自分たちも戻る。
旗も大将もない。それでも、道は塞がれたままであった。
◇
陣は、柵から田を二枚ぶん下がった谷の入口に張った。
道が狭いため、田の畦を一つ潰して幕を張った。兵は畦へ座らせ、馬は木の間へ繋いだ。
長政は、柵を押し通るか考えた。
押せば通れる。半日あれば、丸太を壊せる。だが、抜けた先でまた塞がれる。
柵の向こうの者たちは、この先の村とも縁がある。一つを押し通れば、浅井が村の者を斬ったという話が先へ行く。
向こうは攻めてこない。武田の旗も、朝倉の旗も立てていない。自分たちの村の前を塞いでいるだけである。
押せば、どちらでもない者を敵にする。
長政は、それをやらないことにした。
日が落ちると、野村が小さな袋を持ってきた。
「殿。糧が、もちませぬ」
袋の底の米は濡れ、指で崩すと固まりが掌へついた。
来るはずの駄が来ていない。峠で漏れた米もあり、山の雨で濡れたものは底まで水を吸っていた。
いま食える分。明日には食えなくなる分。初めから使えない分。帰りの分も残さねばならない。
「あとから来る駄は」
「まだ、峠を越えておりませぬ」
「いつ着く」
「分かりませぬ」
取次を呼ぶと、蔵から出た糧も割り当てより少なかった。
「誰が減らした」
「減らした者は、おりませぬ。傷んだものを除きましたゆえ」
「誰の指図で・・・」
長政は、そこで口を閉じた。
誰も減らしていない。数え直し、使えないものを除いた。それだけである。
「使えるものだけで、もう一度分けよ。帰りの分を先に取れ」
「はっ」
◇
「のう長政。いつもより人が少ない気がするのう」
市が、幕の外の床几に座っていた。膝へ薙刀を載せ、陣の火を見ている。
長政も火を見た。一つの火へ集まる人数が少なく、火と火の間には暗いところがあった。
三田村が谷の下まで確かめ、戻ってきた。
「殿。半分ほどにござります」
八幡宮に集まったときは、これより多かった。いつも通りに見えた。自分で数えなかった。
追って参ると言った隊は、一つも来ていない。出ぬと言った者もいなかった。
「そうか、少数精鋭というわけじゃな」
市は笑った。
「残った者が強ければ、それでよかろう」
見られた兵が背を伸ばした。隣の者も姿勢を直す。
「して、長政。どうなっておる」
長政は答えなかった。
道を塞いでいるのは、一年かけて話をした相手である。糧を減らした者はいない。来ない隊も、追って参ると言ったままである。
どれも誰かがやっている。だが、問いただす相手がいなかった。
「なんじゃ、つまらぬの」
市が立った。
膝の薙刀を持ち上げる。
刃を包んでいた布を外す。
床几へ置く。
周りの者が、市を見た。
「引くぞ」
市の声が響いた。
一息ほどの間があった。
最初に動いたのは野村である。米の袋を持ち直し、帰りに開ける俵を分けるため、駄の方へ走った。
三田村が後ろの隊へ走る。
「引くぞ。火を落とせ」
大野木は市の馬を引きに行った。
市が一言を出したあとで、それぞれが自分のすることを知っていた。市は誰へ何をせよとも言わない。薙刀を持ち、馬が来る方を待っている。
陣の火が、一つずつ消え始めた。
長政は、皆が動くのを見ていた。
しばらくして立ち、絵図を畳んだ。三枚の継ぎ目がずれないよう端を揃え、自分で持つ。
幕の外へ出て、潰した畦を見た。
土を戻す。水が漏れないよう踏み固める。傷めた稲を数える。村の者に頭を下げ、いくら返すかを決める。
その段取りだけが、はっきりしていた。




