【第二章 若狭】第二十三話 動かぬ家中 誰にも咎はない
◇
海北は、膝が浮くのを感じた。
考えて立とうとしたのではない。身体が先に動いた。だが、下座からでは間に合わない。
久政の手は、もう動き始めていた。
長政が市の脇を抜け、久政の手首を掴んだ。
音はしなかった。
上がった手が、市へ届く前に止まった。長政の指が手首へ回り、久政の袖が引かれて皺になっている。
「父上、なにをなされまする」
低い声であった。
座は音を立てなかった。海北の膝から書き付けが二通滑り、畳へ落ちた。拾うことができない。
当主が、父の腕を掴んでいる。これまで一度もなかったことである。
久政は、腕を掴まれたまま息子を見た。口は開いたが、言葉は出なかった。
市は退いていない。長政の背中の向こうから顔を出し、久政ではなく長政を見た。
「長政、ほんとうに若狭は取らぬのか」
長政が振り返った。
「おぬし、それでよいのか」
市が訊いたのは、それだけであった。
朝倉が何を言うか。京極が誰なのか。どの道を通り、どの城へ入るのか。何も訊かない。
取ると言ったものを、取らずに終わってよいのか。
長政は市を見た。市も見ている。
長政が久政の腕を離した。指を一本ずつ開く。袖には掴んだ跡が残った。
一歩下がり、座の全体へ身体を向けた。
「これより、若狭を取る」
声は、座の端まで届いた。
六角が境目へ入ったという報せを聞いた日にも、長政は同じ声を出した。あの日も、海北は下座にいた。座っている場所は変わらない。だが今は、座の者が見ている先が違っていた。
誰も返さなかった。反対も賛成もない。口を開ける者がいなかった。
上座に近いところでも、書き付けが一枚、畳へ落ちた。落とした者は、それに気づいていない。
久政は、上げた手をまだ下ろしていない。だが、誰もその手を見ていなかった。
長政を見ている。市を見ている。
久政は、いつの間にか手を下ろしていた。ゆっくり膝を曲げ、上座の脇へ座り直す。
「・・・かってにせい」
長政は返事をしなかった。
市は、もう出ていくところであった。久政が座るのも、長政が何を命じるのも待たない。人の間にできた道を通り、廊下へ消えた。
足音は、止まらずに遠ざかっていった。
何を決めたつもりもない顔であった。
海北は、ようやく書き付けを拾った。長政も上座へは戻らず、市と同じ襖から出ていった。
残った者たちは、互いを見た。久政を見る者はいなかった。
長政が消えた廊下を見る者。市が通った畳を見る者。落とした書き付けを拾う者。それぞれが別の場所へ目を向けていた。
誰からともなく腰を上げ、何も言わずにいなくなった。
◇
久政の部屋は、古い棟の一番奥にある。
もとは当主の部屋であった。長政が家督を継いだあとも、久政はそこを使っている。調度も文箱も、前から変わっていない。
赤尾清綱は、日が傾いてからその前を通った。
戸は開き、中にはすでに四人いた。蔵を預かる者。取次をする者。赤尾と同じ年頃の男。いずれも古参で、若い者はいない。
誰も呼ばれていなかった。
久政が集めたのでも、先に来た者が次の者へ声をかけたのでもない。それぞれが廊下を通り、開いた戸の中に久政がいるのを見て入ったらしい。
久政がいる。だから入る。
赤尾も頭を下げ、空いたところへ座った。
久政は、当主であった頃と同じ場所にいる。膝の上へ両手を置き、正面を見ていた。
評定のことには触れない。腕を掴まれたことも、市が入ってきたことも、若狭のことも口にしなかった。
誰かが庭の梅の話をした。今年は実が少ないという。
「そうか」
それだけで終わった。別の者が、六角の旧臣が寺へ入ったと話した。
「寺に」
「は」
「そうか」
誰も若狭の名を出さない。朝倉も京極も口にしなかった。
話が途切れた。誰も帰ろうとしない。
「筋が通らぬ戦じゃ」
久政が言った。誰にも答えを求めず、誰の方も見ていない。
否定する者はいなかった。その通りだと答える者もいない。
久政は、それきり何も言わなかった。誰かに何かを命じることもなかった。
命じることは、もともとしない。
部屋が暗くなり、灯が運ばれた。久政の顔だけが明るくなり、周りの者の顔は半分が影に残った。
供の者は、中に古参が集まっているのを見ても何も訊かなかった。久政の脇へ灯を置き、頭を下げて出ていった。
それから、一人ずつ帰っていった。
初めに立った者は、何も申し付けられていない。次の者も、明日また来るとは言わなかった。久政へ頭を下げ、それだけで部屋を出た。
赤尾が廊下へ出ると、久政の部屋の灯だけが足元へ伸びていた。数歩進めば、足元はまた暗くなった。
赤尾は、振り返らなかった。
◇
次の日から、若狭へ出る支度が始まった。
触れが回り、郷ごとの人数と馬の数が決められた。道を確かめ、泊まる村を選ぶ。長政から出た書き付けを受け取り、できぬと言う者はいなかった。
どれも、いつもと同じ手順であった。
赤尾は三つの郷を預かっている。一つ目と二つ目へ使いを出し、三つ目には自分で行った。
名主は田に出ていた。呼びにやれば、日が落ちる前には戻るという。
赤尾は待たなかった。
「明日、また来る」
翌日には会えた。だが、もう一人は隣村へ出ていた。待てば夕方には戻る。
赤尾は、また翌日に回した。
三日目には、全員へ触れが届いた。断った者はいない。ただ、いつもより一日遅れた。
赤尾は、ほかで何が起きているかを知らない。自分の触れは三つの郷すべてへ届いた。ならば、それでよいと思った。
名主が田にいたのは本当である。隣村へ出ていたのも本当であった。赤尾がその日のうちに会わず、翌日に回した。それだけのことである。
蔵でも、糧の割り当てを受け取った者が言った。
「承知いたしました」
ところが、書き付けの数と蔵役の覚えている数が違う。数え直すことになった。
一日目に手前の俵を出し、二日目に奥を数えた。三日目に虫と湿りのあるものを除く。残す分を決めると、出せる糧は割り当てより減った。
誰も、減らせとは言っていない。使えないものを除いただけである。
帳面と蔵の中が合わないまま出すことはできない。数え直して、使えるものだけを書き直した。その結果が、少なかったのである。
若狭へ送る文も止まった。
最初の一通は、その日のうちに出た。二通目を持つ者は城下にいなかった。翌日戻ると、別の使いを先に命じられていた。
「順に出す」
取次の者はそう言い、束を置いた。出すなと命じた者はいない。順に出すつもりで置いてある。
置いてあるうちに、日が過ぎた。
海北は、自分が束を渡したあとのことを知らない。使いが出ていないとも、取次のところへ残っているとも、誰からも報せはなかった。
久政は、何も命じていない。
赤尾へ、触れを遅らせよとは言っていない。
蔵役へ、糧を減らせとも言っていない。
取次へ、使いを止めよとも言わなかった。
若狭へ出るなと、誰にも言っていない。
だから、誰にも咎はない。
◇
出る日が近づいた。
集まった人数は、初めの割り当てより少ない。病が出た。馬が揃わない。触れを受けるのが遅かった。
どの隊も、追って参ると言ってきた。
糧も、まだ全部は出ていない。若狭からの返事も揃わない。
追って参ると言われれば、待つよりほかにない。
それでも、出る日は決まっていた。村を出る者も、途中で泊める家も、その日に合わせてある。
日を変えるという触れは出なかった。
長政も、日を延ばすとは言わなかった。
その日が来た。




