【第二章 若狭】第二十二話 若狭の評定 それがどうしたというのじゃ
一五六二年 初夏 近江 小谷
評定の間の障子は外してある。巻き上げた簾の向こうに、庭の緑が見えた。風が入るたび、葉と簾の端が鳴った。
海北綱親は、下座に近いところへ座っていた。
人はよく集まっている。六角の話をした日とは違い、前の日から評定の日は決めてあった。遅れた者はなく、皆が身なりを整え、刀を置く向きまで揃えている。
去年の春に六角を平らげてから、一度も戦はなかった。
戦がないと、家中は落ち着く。触れも具足も要らない。帰らなかった者の名が、書き付けへ増えることもない。
落ち着いて、それから少しずつ元へ戻った。
初めのうち、書き付けは何でも長政のところへ運ばれた。半年を過ぎた頃から、途中で年長の家臣へ見せるようになった。久政へ先に話を持っていく者も増えた。
堰が壊れたという話。舟が足りないという話。年貢を待ってほしいという話。前は、持ってきた者が誰にも訊かず、長政の部屋へ向かった。いまは廊下の角で足を止め、これは殿へお見せしてよいものかと先に訊く。
誰かが命じたわけではない。その方がよいと、持っていく者が考えたのである。
久政がよいと言ったものを、あとから長政へ報せる。長政も、よいと答える。それが何度か続けば、次からは初めに久政へ持っていくようになる。
長政が国主であることは変わっていない。変わっていないまま、書き付けの通る道だけが、元へ戻っていた。
海北が預かる書状だけは違った。長政が自分で書き、直接渡す。誰にも見せずに出す。その流れは変わらなかった。
◇
久政が入ると、座の者が頭を下げた。久政は上座の脇へ座った。それでも、腰を下ろすまで誰も頭を上げなかった。
少しして長政が入り、上座へ座った。
評定が始まった。堰の普請、湖の舟の割り当て。久政は何も言わない。それでも話す者は、ときどき久政を見た。顔が変わらなければ続け、わずかに動けば言葉を切った。
一つの話が終わったところで、長政が言った。
「若狭を取る」
座が静かになった。
海北は膝の前の手を見た。
この一年、自分が運んだ文の宛先も、通数も、使わせた道も覚えている。小浜へ向かったもの。山側へ向かったもの。同じ家へ間を空けて三度出したもの。返事を求めなかったもの。
返事を求めたものもある。同じ使いが続けて同じ道を通らないよう、船と陸を替えたこともあった。何日空けて出したかまで、海北は覚えている。
中身は読んでいない。それでも、何のためであったのかは分かった。
久政の眉が寄った。
近くの者がそれを見る。その隣も見る。さらに下の者も、前の者の顔の向きを追った。
座の中の顔が、一人ずつ久政へ向いた。
長政を見ている者は、ほとんどいなかった。
「若狭は朝倉の勢力圏じゃ」
久政が言った。
浅井は、六角や京極との話を収めるため、何度も朝倉に仲立ちを頼んできた。その浅井が、朝倉の見ている国へ手を出すことになる。
若狭の守護は武田である。だが、その家中が割れるたび、越前の朝倉が口を出した。久政の言うことにも、筋はあった。
「旧主筋の京極を差し置いて、何を先に取るというのか。義を軽んじるわけにはいかぬ」
京極は、もと北近江の主である。名も人も残っているが、所領はほとんどない。いま誰と、どこにいるのかを、すぐに言える者も多くなかった。
久政は長政ではなく、座の者へ言った。
視線を受けた一人が頭を下げる。その隣も下げた。反対する者はいない。賛成すると口にする者もいなかった。
海北は長政を見た。
言えば済むことである。
誰に何通出したか。誰が返し、誰が返さなかったか。どの道が通れ、どの城が門を開けるか。若狭を取ることが、兵を入れることとは限らない。
それを並べればよい。
長政は、何も言わなかった。久政も海北も見ず、正面だけを見ている。
膝の上の手にも力は入っていない。顔は、若狭を取ると言ったときから変わっていなかった。言葉だけが、次に続かなかった。
「よし、決まりじゃ」
久政が言った。
「若狭の話は、これでしまいじゃ」
長政は、終わりではないと言わなかった。
久政も、長政へ確かめなかった。誰かが息を吐き、膝の位置を直した。
次の者が前へ出た。話は、湖の舟の割り当てへ戻った。
海北は、その数を聞いていなかった。
一年である。夏に宛先が増え、秋に返事が来た。冬には毎朝、空を見て使いを出した。二月には、長政が馬一頭で若狭へ行った。
海北は船と陸を替え、同じ顔が同じ道を通らないようにした。雪の朝には空を見て、出せる日と出せない日を分けた。そのすべてが、いまの一言の前に並んでいた。
それが、いまの一言で消えた。
海北は何も言わない。訊かれれば答える。訊かれていなければ、答えない。
簾が風で鳴った。
「巻き上げたままでは、日が入りまする」
誰かが立ち、紐を解いた。
簾が下りた。庭の緑が細い隙間の向こうへ隠れ、評定の間が暗くなった。
◇
長政が先に立った。
座の者にも久政にも何も言わず、そのまま出ていった。
湖の舟の数は、その日のうちには合わなかった。持ち帰って、数え直すことになった。それで評定は終わった。
残った者が、ようやく腰を上げ始める。若狭について話そうと口を開き、久政がまだいることに気づいてやめる者もいた。
長く座っていたため、すぐに立てない者もいる。膝を伸ばし、片手で押さえる。その間にもなお、久政は上座の脇から動かなかった。
海北は、あとで長政へ渡す三通の文を懐に入れたまま、書き付けを揃えていた。
廊下から声がした。
「長政、若狭はもう取ったのか」
市である。
座の者が、同時に廊下へ顔を向けた。
「それが・・・若狭は諦めまする」
先ほどより、小さな声であった。
「何を言うておるのじゃ。取ると言うたではないか。あれはわしに嘘をゆうたのか」
「・・・いや」
「では、なぜ取らぬのじゃ」
長政の返事は聞こえなかった。
誰も動かなかった。書き付けを束ねていた者は、紐を結ぶ前の形で手を止めている。立ち上がりかけた者も、腰を浮かせたままであった。
聞こうとしているのではない。襖一枚の向こうなので、聞こえているだけである。それでも、誰も音を立てなかった。
久政だけが、庭の方を見たままである。
市の足音が近づいた。
「市、お待ちくだされ」
襖が開いた。
市が立っていた。
髪を後ろでまとめ、袴を着けている。子を産む前と変わらぬ姿であった。長政は、その二歩ほど後ろで止まっている。
市は座の中を見て、久政を見つけた。そのまま敷居をまたいだ。
進む先にいた者が場所を空ける。隣の者も下がった。人の間に、細い道ができた。
市が通り過ぎると、初めに場所を空けた者は自分の手を見た。なぜ下がったのか、自分でも分からないような顔をしている。
市は、上座の脇まで歩いた。
久政を見下ろす。
「何故、若狭を取らぬのじゃ」
久政は、市と座の者を順に見た。
「若狭より先に、筋を通すのが先でござろう」
「なんの筋じゃ」
「浅井には、浅井の順というものがある」
「若狭を取るのに、何の関わりがあるんじゃ」
市は声を強くしなかった。ただ、久政の前に立って訊いている。
「若狭は朝倉の勢力圏じゃ。それに、浅井は京極の下にあった家ぞ」
「それがどうしたというのじゃ」
誰かが息を呑んだ。
久政の眉が動いた。
「おなごが口を挟むことではない」
久政が立ち上がった。
市は退かなかった。
久政の右手が上がる。袖が肘まで下がった。
開いた手のひらは、市の頬へ向いていた。




