【第二章 若狭】第二十一話 茶々
一五六一年 冬 近江 小谷
雪が来て、街道が塞がった。
初めの雪は昼までに消えた。二度目は道の端に残った。三度目に降ったものは、その上へまた積もり、どこまでが道で、どこからが田なのか分からなくなった。
海北綱親は、その冬、小谷にいた。
使いを出せるかどうかは、朝の空で決まる。出せない日は、預かった文を束のまま置いた。戻ってきたものも加わり、包みは一つずつ増えた。
東の空が明るくても、山に雲がかかっていれば出せない。小谷で晴れていても、南へ下ったところで降っていることがある。前の晩から決めておくことはできなかった。
雪のあいだにも、長政は書いていた。宛名は、北へ向かうものが増えている。
年が明け、雪が緩んだ。庭も、日の当たるところから地面が見え始めた。
早春の朝、海北が長政の部屋へ来たとき、庭から声がした。
「えい」
一度ではない。少し間を置き、また同じ声と、風を切る音がした。
海北と長政は縁へ出た。
庭で、市が薙刀を振っている。
衣の上からでも、腹が出ているのが分かる。腹を避けるように柄を広く持ち、いつもの半分ほどの速さで振っていた。足元には雪が残り、踏んだところだけ土が出ている。
上げる。止める。振り下ろす。石突きが地面へつく前に、また上げる。足は大きく動かしていない。それでも、風を切る音は縁まで聞こえた。
薙刀は、去年の夏に倉へ入れたものである。海北が自分で運び、鍵をかけるところまで見ていた。
長政は草履も履かず、庭へ下りた。濡れた土を踏んだことにも気づかず、市の前へ回る。
「市、おやめくだされ」
「なぜ怒るのじゃ。体がなまるであろう」
市は、また薙刀を上げた。声は苦しそうではない。冬に入った頃より、顔色も戻っている。食べられないものも減った。
「なりませぬ。ややこに障りまする」
「これしきのこと、なんともないわ」
市が向きを変えるたび、長政も前へ回った。二人で庭を半分ほど回り、とうとう長政が柄を掴んだ。
市も離さない。
長政が引く。市も引く。薙刀が二人の間で横になった。
市が片手を離し、腹へ当てた。長政の顔が変わる。
「ほれ。なんともないじゃろ」
市はすぐに両手で柄を握り直した。
縁には、女や台所の者が集まっている。廊下の奥で、蔵役も止まっていた。
「誰じゃ、市に薙刀を渡した者は」
皆が目を逸らし、答えなかった。
長政の目が海北へ来た。海北は逸らさなかった。出した者を知らない。知っていたとして、ここで名を言ったかどうかは分からなかった。
「断じて、なりませぬ」
「しかたないのう」
市が急に手を離した。長政は薙刀を支え直し、柄の端を地面へ落とした。
市はそれを見ず、庭を横切った。歩みは去年より遅い。縁へ上がるときだけ女の肩を借り、すぐに離した。
長政は濡れた足袋のまま、市が廊下の奥へ消えるまで見ていた。
「倉へ」
「はっ」
海北は薙刀を運んだ。蔵役は、前より取り出しにくい木箱の後ろへ入れ、去年と同じ鍵をかけた。
◇
二月の末、長政が一人で城を出た。
持っていったのは、自分で書いた三通の文だけである。海北は行き先も、渡す相手も訊かなかった。
朝は暗く、門を開けた者と馬を引いた者だけが見送った。供はなく、馬も一頭である。荷は、鞍の後ろに括ったものが一つきりであった。
長政は、四日目の昼に戻った。馬の首は下がり、長政の裾にも泥がついていた。
「殿、お帰りなさいませ。若狭はいかがでござりましたか」
出迎えた家臣が声を上げた。長政は、その者へ寄った。
「大きい声を出すな。市に聞かれたら面倒じゃ」
家臣が頭を下げる。その向こうに、市がいた。
「なんじゃ長政、若狭に行っておったのか。戦は、いつじゃ」
「戦ではござりませぬ」
「では、何をしに行ったのじゃ」
「人に会いに」
「つまらぬのう」
誰に会ったのかは訊かなかった。市が奥へ向かうと、長政は身体をかばうように横についた。
海北は、鞍の後ろから荷を外した。三通の文はなく、代わりに持ち帰ったものもない。
鞍の革の端には、白いものが薄く残っていた。
鞍の下は濡れ、馬の腹には乾きかけた細かな泥がついている。厩の者は革の端へ指で触れたが、何も言わずに馬を引いていった。
海のあるところを通ってきた馬であった。
一五六二年 春 近江 小谷
生まれたのは、明け方であった。
夜の雨はやみ、軒から水の落ちる音だけが残っている。
産所の支度は、冬のうちに済んでいた。板を替え、隙間を塞ぎ、湯を沸かす場所も隣の間へ移した。すべて長政が見て、言いつけたことである。
前は台所から運び、廊下を三度折れていた。冬は、着くまでに湯気が消える。隣の間なら戸を一つ開ければよい。長政は自分で台所まで歩き、戻ると、移せとだけ言った。
乳母は、去年の秋に子を産んだ城下の者である。この正月から城へ上がっていた。湯を運ぶ者、布を替える者、火を絶やさぬよう見張る者も、前の晩から交替で詰めている。
産声が上がった。
姫であった。
産湯へ入れると、もう一度大きな声を上げた。手足が動く。指は、開いているのか握っているのか分からないほど小さかった。
知らせは朝のうちに清洲へ出した。久政のところへも人が走った。
清洲への文は前から用意してある。姫であったことと、母子ともに障りがないことだけを書き足した。
「そうか、と仰せでございました」
久政のところから戻った者は、それだけ言った。
昼を過ぎてから、長政が産所へ入った。
初めに市を見た。次に、乳母の腕から姫を受け取った。姫の小さな手が布の間から出て、長政の衣へ触れた。
市は褥に背を起こしていた。顔から色が落ち、額には乾いた汗が残っている。それでも、横になる様子はなかった。
「おのこではなかった」
声が低い。
「なにを申されます。愛らしいではありませぬか」
長政は姫を少し上げ、市に見せた。
「市に似ておりまする。でかしました」
「そうか」
市は姫を受け取った。ためらわず、右手を首の下へ入れ、左腕で身体を支えた。
姫が声を上げる。市は身体を少し傾け、戻した。それで泣きやんだ。
「よう声が出るの」
頬を指先で押す。姫が顔を横へ向けた。
「力もある」
長政が言った。
「まだ分からぬであろうが」
「分かりまする」
「そうか」
市は、それでよいようであった。
乳母は、教えることを探した。首の支え方にも、腕の入れ方にも、言うことはなかった。
姫が眠る。市はその顔を見つめ、長政は市と姫を交互に見ていた。
「ところで若狭はどうした。いつ攻めるのじゃ」
「攻めませぬ・・・もうすぐ取れまする」
「うむ。して、若狭の次はどこじゃ」
「まだ何も決まっておりませぬ」
「では、決めよ」
市は姫を乳母へ渡し、褥から足を下ろした。
「なりませぬ」
長政が立った。
「何を言うておる。もう出ておるではないか」
市は自分の腹を見た。産むものは産んだ。それで終わったらしい。
一歩歩く。二歩目も歩いた。屏風の端で身体が傾き、手をついた。屏風を元の位置へ押し戻すと、そのまま部屋を出ていった。
「市、お待ちくだされ」
長政が追った。
足音が二つ、廊下を遠ざかる。市の足音は遅い。長政の足音は、その後ろで止まっては、また進んだ。
「殿がついておられる」
「御方様を止められるか」
女たちは顔を見合わせ、それきり誰も追わなかった。
半刻ほどして、市が戻ってきた。
息が上がり、髪が少し乱れている。裾には土と、切れた草がついていた。長政は一緒ではない。
市は誰の手も借りず、褥まで歩いて腰を下ろした。一度だけ、長く息を吐く。
それから、乳母へ手を出した。
姫を受け取ると、先ほどと同じように抱いた。長政がどこにいるのかも訊かず、姫の顔だけを見ていた。
姫が動くと、それに合わせて腕を少し傾ける。市の息は、まだ整っていなかった。
夜は乳母が預かる手筈である。
市がいつまで抱いているつもりなのか、乳母には分からなかった。




