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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第二章 若狭】

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【第二章 若狭】第二十話 子ができた

一五六一年 夏  近江 小谷



 夕暮れに、市が部屋へ入ってきた。


 声をかけてからではない。廊下を歩いてきて、そのまま敷居をまたいだ。


 長政は、机に向かっていた。開け放した襖の向こうでは、西日が縁の半分を照らしている。風はない。遠くで蝉が鳴いていた。


 近くで一匹が鳴くと、ほかの音が聞こえなくなるほど大きかった。市の背には庭からの日が当たり、顔の側は暗い。それでも、こちらを見ているのは分かった。


 市は机の前まで来た。座らずに、長政を見下ろす。


「長政、子ができた」


 長政は、筆を持ったまま顔を上げた。


「・・・」


 市の顔を見た。それから腹の辺りを見て、もう一度、顔へ戻った。


 筆の先から墨が落ち、書きかけの一行の横で丸く広がった。


「・・・は」


「なんじゃ、その顔は。めでたかろう」


 いつもの声であった。次の戦が決まったことを知らせるような言い方である。


 長政は筆を置いた。乳母を探す。産婆を決める。産所は、日の入る奥の棟がよい。雪の前に板を確かめ、必要なものを運び込む。清洲へも知らせる。


 城下に心当たりが二人いる。冬に道が塞がる前に、城へ上げた方がよい。清洲へ持たせる文は自分で書き、道を知る者に持たせる。急がせる必要はないが、ほかから話が届く前には知らせる。


 そこまでを頭の中で一度に並べながら、市の顔を見ていた。


 得意げである。


 庭で、蜩が鳴き始めた。


 長政は、市の左手を見た。何も持っていない。それから、縁の端に立てかけてある薙刀を見た。


「戦は、なりませぬ」


 子ができたと聞いて、初めに出た言葉であった。


「戦がいつあるかは、まだ聞いておらぬぞ」


「いつであっても、なりませぬ」


「鍛錬は続けるぞ。薙刀をもて」


 部屋の外に控えていた者は、誰も動かなかった。


「なりませぬ」


 長政は立ち上がった。膝が机へ当たり、紙が動いた。


「誰か、市の薙刀を倉へ入れて鍵をかけよ」


 縁の方で、二人の返事が重なった。


 薙刀は、この半年、同じ場所に置かれていた。柄が割れれば、次には新しい柄になっている。刃が使えなくなれば、別の薙刀が置かれる。市は誰が用意したのかを訊かず、それを取って使っていた。


 取りに来た者たちは、市と長政を交互に見た。市が止めないので、二人がかりで持ち上げる。長い柄が廊下の角でつかえ、戻した先が今度は梁へ当たりそうになった。


 市は、運ばれていく薙刀を見送った。


「なんじゃ・・・つまらぬのう」


 そう言って、長政の横へ座った。膝の上に置いた両手には、何もない。


 いつの間にか庭の日は消えていた。誰かが灯を置いて下がった。


 市は、しばらく同じところに座っていた。庭を見て、膝の上の手を見て、長政を見る。目が合うと、また庭へ戻した。


「市」


「なんじゃ」


「・・・めでたいことにございまする」


「初めから、そう申しておるではないか」


 長政は頭を下げた。


「おぬしの子でもあるのじゃぞ。なぜ、わしに頭を下げるのじゃ」


 長政が顔を上げたとき、市はもう立っていた。答えを待たずに出ていく。


 廊下を歩く音が、いつもより遅かった。


 長政は、その音を最後まで聞いていた。


 音が遠ざかると、奥の棟で人が動き始めた。女中頭が呼ばれ、次に蔵役が呼ばれた。蔵役は、薙刀を倉へ入れるためにも呼ばれている。庭の途中で、どちらへ行けばよいのか訊く声がした。


 今夜のうちに決まることなど、何もない。それでも、決まったつもりで動き出す者がいる。


 長政は止めなかった。机へ向き直る。墨の点は、書きかけの一行へ触れたまま乾いていた。


 新しい紙を出し、初めから同じ文を書いた。今度は墨を落とさなかった。書き終えて畳み、包んでから、宛名を書く。


 最初の一文字で手を止め、廊下の先を見た。


 市の足音は、もう聞こえなかった。


 長政は、止めていた手をまた動かした。



一五六一年 秋  近江 小谷



 縁に、市が横になっている。


 片腕を枕にし、もう片方の手を腹の前へ置いていた。


 朝から機嫌が悪い。水を一口飲んで下げさせ、運ばせた梅には手も伸ばさなかった。


「それを、遠くへ持っていけ」


 昼前には、台所から煮炊きの匂いが来た。市が鼻を袖で覆う。しばらくして火を使う場所が変わり、匂いは来なくなった。


 市は、誰が変えたのかを訊かなかった。


 長政は、部屋の中で若狭の絵図を広げていた。


 三枚の紙を継いだ絵図には、海沿いの道と山越えの道がある。荷馬が通れる道、泊まれる村、荷を積み替える場所まで書かれていた。長政は、そこへ城と国衆の名を書き足した。


 若狭には、小浜の港がある。北から来た荷はそこで馬へ積み替えられ、山を越えて京へ抜ける。


 浅井には湖がある。米も人も運べる。


 だが、海はない。塩も干した魚も、北から来る荷も、他所の手を通って入ってくる。


 荷を運ぶ者が見るのは、道の長さだけではない。誰が銭を取るか。どこなら奪われないか。どの家が道を開けているか。


 隣り合う国衆同士が、仲がよいとも限らない。道一本、山の木一本を巡る争いに、前の代からの貸し借りが絡んでいる。割れ方は、まだ掴めなかった。


 同じ者の名が二か所にある。飛び地である。昨日まで同じ側にいた者が、一つの村を巡って別れる。別れた者同士が、ほかの相手に対しては手を組む。所領の場所だけを見ても、誰がどちらへ動くかは分からない。


 長政が一つの名へ印をつけたとき、市が寝返りを打った。


 ◇


 昼過ぎ、若狭から人が来た。


 城の裏手から入れ、縁の外で待たせた。袴の膝から下には、山道の泥がついている。


 長政は絵図を伏せ、庭へ下りた。縁から離れたところで、三つだけ訊いた。最初の問いにはすぐ答えが返り、二つ目には間があった。三つ目を訊くと、その者は一度、城を見てから答えた。


 銭は渡さなかった。まだ、渡すものがない。


 男を帰し、長政は部屋へ戻った。伏せていた絵図を広げ、聞いたことを確かめる。


 宿は取らせなかった。城下に泊まれば顔を覚えられる。覚えられれば、次に来たとき、誰かが数える。一度目と二度目の間が何日であったかまで覚える者も出る。


「次は、若狭じゃな」


 市が、いつの間にか起き上がっていた。縁から膝で乗り出し、絵図を覗いている。顔色は悪いが、目は開いていた。


 長政は、絵図を畳んだ。急いだため、端が内側へ折れた。


「なんでもありませぬ」


「若狭と書いてあったぞ。次は若狭なんじゃろ」


 市は片膝を立てた。


「よし、いまから出る。支度せい」


「なりませぬ。お体に障りまする」


「・・・そうじゃが」


 立とうとした身体が、元の場所へ戻った。


 市は畳まれた絵図を見てから、花の落ちた庭へ顔を向けた。


「戦わずに取る算段にござりまする」


 市が振り返った。


「戦わずに、どうやって取るのじゃ」


「まだ、決まっておりませぬ」


「向こうから来させるのか。城へ入れば、取ったことになろうが」


「入る城も、まだ決まっておりませぬ」


 市は口を閉じた。


「なんじゃそれは。つまらぬではないか・・・」


 また薄縁へ横になり、こちらへ背を向けた。


 長政は、市の背中を見た。畳んだ絵図へ手を置いたままである。


 しばらくして、女を呼ぶ。


「水を」


 受け取った椀から一口飲んだ。止まり、もう一口飲む。今度は、半分ほどまで減った。


「もうよい」


 市は、また横になった。


 長政は絵図を開き直した。折れた端から紙が少し浮いている。


 書き足した名へ指を置き、山越えの道へ動かした。途中で止め、別の道へ移す。


 どちらを通っても、その者の地を避けることはできなかった。


 通れるかどうかは、まだ決まっていない。

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