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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 余話】第九話余話 見惚れる長政 市でよい

 ◇


 市が、隣にいる。


 二頭の馬は、近づいたり離れたりしながら、同じ速さで進んでいた。手を伸ばしても届かない。それでも、長政には近すぎるように思えた。


 市は、先ほどから機嫌がよい。ときどき、鼻歌のような声が聞こえてくる。何の歌かは分からない。節になりかけたところで途切れ、しばらくすると、また違うところから始まった。


 長政は市を見て、すぐに前へ向き直った。少しして、また見る。何度目なのかは、もう数えていなかった。


「お市様」


「市でよい。めおとになったのじゃ」


 あまりにも簡単に言われた。市は当然のことを教えただけの顔をしている。


 長政は、すぐに返事ができなかった。手綱を右手から左手へ移す。持ちにくくなって、また右手へ戻した。


 夫婦である。分かっている。それでも、市の口から言われると、急に顔が熱くなった。


「・・・では、市」


「なんじゃ」


 市がこちらを向いた。


 顔が近い。


 長政は息を吸った。市が返事を待っている。何か言わなければならないのに、吸った息を吐くこともできなかった。


 頬に土がついている。額にも、髪の生え際に沿って埃が残っていた。束ねていた髪は半分ほど解け、何本かが頬へかかっている。袖には乾きかけた血が黒く散っていた。


 市の血ではない。分かっていても、長政の目は袖へ行った。次に頬の土を見て、乱れた髪を見る。


 拭ってやりたい。


 長政の右手が、手綱から少し離れた。だが、市がこちらを見ていることに気づき、何もしていなかったように握り直した。


 かわいい。


 土がつき、髪も乱れている。血のついた袖を着たまま、馬に乗っている。


 それなのに、かわいい。


 何かを訊こうとしていたはずである。何を訊こうとしたのか、分からなくなった。


「いつも、このような戦い方を」


 ようやく出たのは、それだけであった。


「いや、戦は初めてじゃ」


 長政は、市の顔を見た。


「初めて・・・」


「いつも兄上に止められておった」


 市はそう言って、前へ向き直った。


 長政の手から力が抜けた。手綱が緩み、馬が半歩だけ市の馬へ寄る。慌てて引き戻すと、馬が首を振った。


 市は気づかない。また前を見ている。


 初めて戦へ出た。


 その答えを聞いても、長政には信じられなかった。だが、嘘を言っている顔ではない。市にとっては、初めてかどうかなど、たいしたことではないらしい。


 長政は、もう一度その横顔を見た。


「戦とは楽しいものじゃな。次もわしにまかせよ」


 市は、こちらを見ていない。返事も求めていない。次の戦があることも、自分が出ることも、長政がついてくることも、市の中では決まっている。


 勝手である。だが、嫌ではなかった。


 市が笑っている。口元だけではない。目を細め、前を見ながら笑っている。


 戦に勝ったことが、それほど嬉しいらしい。


 次も、この顔を見たい。


 長政は、そう思った。


 市を戦へ出すべきではないのかもしれない。止める理由なら、いくらでもある。


 だが、止めると口にしようとしても、唇が動かなかった。この笑顔が消える。そう考えると、それだけで言えなくなる。


 湖の方から風が来た。


 市の頬へかかっていた髪が離れ、後ろへ流れる。市は手をやらない。そのまま目を細め、風を受けていた。


 長政は、また見惚れた。


 市はこちらを見ていない。だから、見ていられる。


 もし顔を向けられたら、すぐに前を向かなければならない。見ていたことを知られるのは困る。


 市が急に振り返った。


 長政は手綱を引いた。馬がもう一度、首を振る。


 市が見たのは長政ではなかった。後ろから聞こえた兵の笑い声に振り返っただけである。


 市も一緒になって笑った。何を言っているのか、聞こえているのかも分からない。ただ、皆が笑っているので、市も笑ったらしい。


 それから何事もなかったように前へ向き直る。


 鼻歌が、また始まった。


 長政も前を向いた。耳まで熱い。夕日のせいにするには、まだ明るすぎる。


 少しして、長政はまた市を見た。


 頬に土をつけたまま、楽しそうに馬を進めている。


 市。


 声には出さず、その名を口の中で繰り返した。


 夫婦である。市がそう言った。


 長政の口元が、わずかに緩んだ。


 市は気づかない。気づかないので、長政はいつまでもその横顔を見ていられた。

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