【第一章 余話】第九話余話 見惚れる長政 市でよい
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市が、隣にいる。
二頭の馬は、近づいたり離れたりしながら、同じ速さで進んでいた。手を伸ばしても届かない。それでも、長政には近すぎるように思えた。
市は、先ほどから機嫌がよい。ときどき、鼻歌のような声が聞こえてくる。何の歌かは分からない。節になりかけたところで途切れ、しばらくすると、また違うところから始まった。
長政は市を見て、すぐに前へ向き直った。少しして、また見る。何度目なのかは、もう数えていなかった。
「お市様」
「市でよい。めおとになったのじゃ」
あまりにも簡単に言われた。市は当然のことを教えただけの顔をしている。
長政は、すぐに返事ができなかった。手綱を右手から左手へ移す。持ちにくくなって、また右手へ戻した。
夫婦である。分かっている。それでも、市の口から言われると、急に顔が熱くなった。
「・・・では、市」
「なんじゃ」
市がこちらを向いた。
顔が近い。
長政は息を吸った。市が返事を待っている。何か言わなければならないのに、吸った息を吐くこともできなかった。
頬に土がついている。額にも、髪の生え際に沿って埃が残っていた。束ねていた髪は半分ほど解け、何本かが頬へかかっている。袖には乾きかけた血が黒く散っていた。
市の血ではない。分かっていても、長政の目は袖へ行った。次に頬の土を見て、乱れた髪を見る。
拭ってやりたい。
長政の右手が、手綱から少し離れた。だが、市がこちらを見ていることに気づき、何もしていなかったように握り直した。
かわいい。
土がつき、髪も乱れている。血のついた袖を着たまま、馬に乗っている。
それなのに、かわいい。
何かを訊こうとしていたはずである。何を訊こうとしたのか、分からなくなった。
「いつも、このような戦い方を」
ようやく出たのは、それだけであった。
「いや、戦は初めてじゃ」
長政は、市の顔を見た。
「初めて・・・」
「いつも兄上に止められておった」
市はそう言って、前へ向き直った。
長政の手から力が抜けた。手綱が緩み、馬が半歩だけ市の馬へ寄る。慌てて引き戻すと、馬が首を振った。
市は気づかない。また前を見ている。
初めて戦へ出た。
その答えを聞いても、長政には信じられなかった。だが、嘘を言っている顔ではない。市にとっては、初めてかどうかなど、たいしたことではないらしい。
長政は、もう一度その横顔を見た。
「戦とは楽しいものじゃな。次もわしにまかせよ」
市は、こちらを見ていない。返事も求めていない。次の戦があることも、自分が出ることも、長政がついてくることも、市の中では決まっている。
勝手である。だが、嫌ではなかった。
市が笑っている。口元だけではない。目を細め、前を見ながら笑っている。
戦に勝ったことが、それほど嬉しいらしい。
次も、この顔を見たい。
長政は、そう思った。
市を戦へ出すべきではないのかもしれない。止める理由なら、いくらでもある。
だが、止めると口にしようとしても、唇が動かなかった。この笑顔が消える。そう考えると、それだけで言えなくなる。
湖の方から風が来た。
市の頬へかかっていた髪が離れ、後ろへ流れる。市は手をやらない。そのまま目を細め、風を受けていた。
長政は、また見惚れた。
市はこちらを見ていない。だから、見ていられる。
もし顔を向けられたら、すぐに前を向かなければならない。見ていたことを知られるのは困る。
市が急に振り返った。
長政は手綱を引いた。馬がもう一度、首を振る。
市が見たのは長政ではなかった。後ろから聞こえた兵の笑い声に振り返っただけである。
市も一緒になって笑った。何を言っているのか、聞こえているのかも分からない。ただ、皆が笑っているので、市も笑ったらしい。
それから何事もなかったように前へ向き直る。
鼻歌が、また始まった。
長政も前を向いた。耳まで熱い。夕日のせいにするには、まだ明るすぎる。
少しして、長政はまた市を見た。
頬に土をつけたまま、楽しそうに馬を進めている。
市。
声には出さず、その名を口の中で繰り返した。
夫婦である。市がそう言った。
長政の口元が、わずかに緩んだ。
市は気づかない。気づかないので、長政はいつまでもその横顔を見ていられた。




