【第一章 余話】第八話余話 追いつけぬ長政 市の左
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「長政、ついてまいれ」
「はっ」
顔を上げたときには、市の背が離れていた。長政は馬の腹を蹴る。
「みなの者、お市様に続け!」
蹄の音が後ろから追ってくる。長政は振り返らず、さらに声を張った。
「大野木、お市様の右じゃ。わたしの真似をせい!」
「はっ!」
「三田村、大将を見つけよ!」
「はっ!」
「野村は替えの馬と薙刀を持ち、後ろにつけ!」
市は一度も振り返らない。ついてくると、決めている。長政は唇を引き結んだ。緩みそうになったのだ。
ほかの誰でもない。市が、長政についてこいと言った。その言葉をもう一度胸の中で聞いていたら、市との間がさらに開いた。
追いつかなければ。
長政は身体を前へ倒した。頬へ当たる風が強くなり、市の背が少しずつ近づいてくる。
左へ入った。ようやく、市が手を伸ばせば届きそうなところにいる。それだけで、肩から力が抜けた。
市が顔を上げた。つられて横を見ると、土煙の向こうに大きな旗が揺れている。市が見ているのは、あれであった。
分かっているのに、長政は旗ではなく、市の横顔を見た。頬にかかった髪が揺れている。その奥で、市の目だけが真っすぐ旗を捉えていた。
ドキッとした。
指が勝手に手綱を締めた。長政の馬が首を振り、市の馬だけが半歩前へ出る。
しまった。せっかく隣へ来たのに、また離される。
長政が手を緩めたところへ、槍の穂先が飛び込んできた。身体が先に動く。槍を払い、もう一本を押し返すと、腕に重いものがぶつかり、手のひらが痺れた。
目は、市を追ったままであった。市はまだ、すぐ右にいる。
長政が押し退けた敵の向こうに、馬一頭が通れるほどの隙間ができた。市がそこへ入ってくる。
近い。肩が触れそうなところを、市が駆け抜けた。束ねた髪の先が長政の腕をかすめ、長政は一瞬だけ目を見開いた。
そう思ったときには、もう市の背が前にある。もう少し、ゆっくり走ってくれてもよいではないか。
口には出せなかった。言ったところで、市が聞くはずもない。長政は馬を追わせた。
薙刀が見えた。次に髪が広がった。市の馬が身を返したときには、それまで前にいた敵が横へ崩れていった。
市は止まらない。長政は槍を払い、もう一人を押し退ける。そのたびに市の姿が敵の身体へ隠れ、また現れた。
見えなくなるたび、喉が詰まる。見つけるたび、息が戻る。市を守るために追っているはずなのに、その市へ追いつくことで精いっぱいであった。
格好よい。腹立たしいほどに、格好よい。
「あれじゃ!」
三田村の声が飛んだ。
市が顔を向ける。長政も同じほうを見ると、大きな旗の下に馬上の男がいた。
すぐに市へ目を戻した。市の目が細くなり、薙刀を握る指が動く。馬の首も旗のほうへ向いた。
行く。
止める言葉より先に、どうすれば市の前から敵をどけられるかを考えていた。
「道を開けよ!」
長政は馬を押し込んだ。市の前へ入ろうとした敵へぶつかり、槍を横へ弾く。
市の馬がすぐそばまで来た。そのまま長政の横を抜ける。
すれ違う寸前、市の口元が少し上がったように見えた。自分へ向けたものかもしれない。敵将を見つけたからかもしれない。
確かめる間もなく、市は行ってしまった。長政は慌てて追った。
二頭の馬が近づいていく。市、と呼びかけそうになった。
危ない。あの男がどれほど強いのかも分からない。市の薙刀が届くより先に、相手の刃が市へ届くかもしれない。
それでも、声が出なかった。市の左肩から目を離せない。
その肩が沈んだ。長政の指が手綱へ食い込む。低く寝かされていた薙刀が上がり、市の身体が鞍の上で回った。
束ねた髪が大きく広がる。二頭の馬がすれ違い、薙刀が返った。
旗の下にいた男の身体が傾いた。片足が鐙から外れ、鞍から落ちていく。
男が地面へぶつかってから、長政はようやく息を吐いた。落ちた男ではなく、市を見た。
市だけが、馬上に残っていた。




