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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 余話】第八話余話 追いつけぬ長政 市の左

 ◇


「長政、ついてまいれ」


「はっ」


 顔を上げたときには、市の背が離れていた。長政は馬の腹を蹴る。


「みなの者、お市様に続け!」


 蹄の音が後ろから追ってくる。長政は振り返らず、さらに声を張った。


「大野木、お市様の右じゃ。わたしの真似をせい!」


「はっ!」


「三田村、大将を見つけよ!」


「はっ!」


「野村は替えの馬と薙刀を持ち、後ろにつけ!」


 市は一度も振り返らない。ついてくると、決めている。長政は唇を引き結んだ。緩みそうになったのだ。


 ほかの誰でもない。市が、長政についてこいと言った。その言葉をもう一度胸の中で聞いていたら、市との間がさらに開いた。


 追いつかなければ。


 長政は身体を前へ倒した。頬へ当たる風が強くなり、市の背が少しずつ近づいてくる。


 左へ入った。ようやく、市が手を伸ばせば届きそうなところにいる。それだけで、肩から力が抜けた。


 市が顔を上げた。つられて横を見ると、土煙の向こうに大きな旗が揺れている。市が見ているのは、あれであった。


 分かっているのに、長政は旗ではなく、市の横顔を見た。頬にかかった髪が揺れている。その奥で、市の目だけが真っすぐ旗を捉えていた。


 ドキッとした。


 指が勝手に手綱を締めた。長政の馬が首を振り、市の馬だけが半歩前へ出る。


 しまった。せっかく隣へ来たのに、また離される。


 長政が手を緩めたところへ、槍の穂先が飛び込んできた。身体が先に動く。槍を払い、もう一本を押し返すと、腕に重いものがぶつかり、手のひらが痺れた。


 目は、市を追ったままであった。市はまだ、すぐ右にいる。


 長政が押し退けた敵の向こうに、馬一頭が通れるほどの隙間ができた。市がそこへ入ってくる。


 近い。肩が触れそうなところを、市が駆け抜けた。束ねた髪の先が長政の腕をかすめ、長政は一瞬だけ目を見開いた。


 そう思ったときには、もう市の背が前にある。もう少し、ゆっくり走ってくれてもよいではないか。


 口には出せなかった。言ったところで、市が聞くはずもない。長政は馬を追わせた。


 薙刀が見えた。次に髪が広がった。市の馬が身を返したときには、それまで前にいた敵が横へ崩れていった。


 市は止まらない。長政は槍を払い、もう一人を押し退ける。そのたびに市の姿が敵の身体へ隠れ、また現れた。


 見えなくなるたび、喉が詰まる。見つけるたび、息が戻る。市を守るために追っているはずなのに、その市へ追いつくことで精いっぱいであった。


 格好よい。腹立たしいほどに、格好よい。


「あれじゃ!」


 三田村の声が飛んだ。


 市が顔を向ける。長政も同じほうを見ると、大きな旗の下に馬上の男がいた。


 すぐに市へ目を戻した。市の目が細くなり、薙刀を握る指が動く。馬の首も旗のほうへ向いた。


 行く。


 止める言葉より先に、どうすれば市の前から敵をどけられるかを考えていた。


「道を開けよ!」


 長政は馬を押し込んだ。市の前へ入ろうとした敵へぶつかり、槍を横へ弾く。


 市の馬がすぐそばまで来た。そのまま長政の横を抜ける。


 すれ違う寸前、市の口元が少し上がったように見えた。自分へ向けたものかもしれない。敵将を見つけたからかもしれない。


 確かめる間もなく、市は行ってしまった。長政は慌てて追った。


 二頭の馬が近づいていく。市、と呼びかけそうになった。


 危ない。あの男がどれほど強いのかも分からない。市の薙刀が届くより先に、相手の刃が市へ届くかもしれない。


 それでも、声が出なかった。市の左肩から目を離せない。


 その肩が沈んだ。長政の指が手綱へ食い込む。低く寝かされていた薙刀が上がり、市の身体が鞍の上で回った。


 束ねた髪が大きく広がる。二頭の馬がすれ違い、薙刀が返った。


 旗の下にいた男の身体が傾いた。片足が鐙から外れ、鞍から落ちていく。


 男が地面へぶつかってから、長政はようやく息を吐いた。落ちた男ではなく、市を見た。


 市だけが、馬上に残っていた。

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