【第一章 六角】第十九話 ふたたび小谷の出迎え 次はどこじゃ
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小谷へ帰り着いたのは、四日後であった。
行きより二日多くかかったが、急ぐ必要はなかった。手負いの者に歩みを合わせ、歩けない者は馬へ乗せる。馬が足りなくなると、それまで乗っていた者が降りて歩いた。
途中の村で二度、夜を明かした。誰が伝えたのかは分からないが、どちらの村にも、浅井の兵が着くより先に、六角が敗れたという話が届いていた。
列が村へ入ると、人々が道の脇へ出てきた。市の姿を見ようと背を伸ばす者がいれば、六角の大将を討ったのはどの者かと兵に訊く者もいる。
訊かれた兵は、決まって列の先を指した。
市は、いつも先にいた。ときどき振り返り、後ろの者へ何かを言う。言われた者が笑うと、列の中から別の者が話を足し、また笑いが起きた。
帰るあいだに、戦の話は何度も語られた。市が六角の本陣へ入ったこと。薙刀に日の光が当たっていたこと。馬上の姿が勇ましかったこと。
話は、語る者によって少しずつ違った。市が一人で本陣へ入ったことになっているものもあれば、義賢が馬に乗って迎え撃ったことになっているものもある。市が薙刀を振ると、一度で首が飛んだという話まであった。
誰も直さなかった。直そうとした者も、途中から自分の見たことを話し始めた。
四日目の昼を過ぎて、小谷の麓へ着いた。荷を下ろし、傷の深い者は、あらかじめ用意されていた家へ入れた。
山へ上がる道の途中には、城下の者たちが並んでいた。子を抱いた女もいれば、杖をついて立っている者もいる。誰かを探している者は、列を進む兵の顔を一人ずつ確かめていた。
市は、馬上からその様子を見ていた。知っている顔があれば自分から名を呼んだので、呼ばれた者の方が驚いていた。
◇
城の前では、久政が待っていた。
赤尾清綱には、坂を上りきる前から、その姿が見えていた。道の出口の正面。去年と同じ場所である。供の者が二人、少し後ろに立っている。床几は出ておらず、いつからそこにいるのかは分からない。
去年も、赤尾には分からなかった。
城の前には、家中の者が出てきていた。去年より多い。留守を預かっていた者だけでなく、台所の者、蔵役、厩の者もいる。山へ上がる途中で列を見ていた城下の者まで、そのまま後ろについてきていた。
列の先頭が見えると、その声が一度に止んだ。
市が来た。馬に乗り、右手に薙刀を持っている。刃には布が巻かれ、左の袖には、古い裂け目を縫った跡が残っていた。
城の前まで来ると、市は集まった者たちを見回した。
「六角を平らげた。われらの勝ちじゃ」
城の前が揺れた。
初めに声を上げたのが誰かは分からない。一つの声へすぐに周りの声が重なり、腕を上げる者が現れた。槍を持っていた者は、石突きを地面へ打ちつけた。
歓声は、しばらくやまなかった。市は、その中で笑いながら馬を降りた。手綱を差し出すより先に、厩の者が受け取った。
去年は、台所の者が手綱を渡され、自分が何を持たされたのかも分からぬまま立っていた。今年は、替わる者まで後ろに控えている。馬が汗をかいているのを見ると、一人が水を用意するために走っていった。
市は、もう馬を見ていなかった。
人々がそちらへ寄っていく。台所の者も、蔵役も、女たちもいた。城下から上がってきた者まで、後ろから市の姿を覗き込んでいる。
輪ができ、市がその真ん中に立った。
「お市様、まことに六角を」
「うむ。わしが本陣へ入ってやった」
赤尾は馬を降り、手綱を厩の者へ渡しながら、久政を見た。
久政は、市の周りにできた輪から五間ほど離れたところに立っていた。その久政へ、長政が進んでいく。
市を囲む輪には入らず、その外側を回る。久政の正面まで行くと、片膝をついた。
「父上、六角、平らげましてございまする」
輪の中で、また笑いが起きた。
久政はそちらを一度見てから、長政へ目を戻した。
「そうか」
去年と同じ言葉であった。返し方も、声の大きさも変わらない。
去年と違うのは、長政と久政のやり取りを見ている者がいないことだった。久政の後ろに控えている供の二人まで、市を囲む輪へ顔を向けている。
討ち取った首は、麓に置いてきていた。箱が足りず、城まで運び上げるのは明日でよいと、途中で決まっている。
誰がどこで何を見たかという報せも、市を囲む輪の中で行き交っていた。書き付けにはまだ何も記されていないが、話の方はすでに出来上がっていた。
久政へ報せを上げる者は、誰もいなかった。書き付けを持っている者まで、輪の中にいる。
「長政、はよう来い。皆が待っておるぞ」
市の声がした。
市は、長政の方を見ていない。人に囲まれたまま、その辺りへ声を投げただけであった。それでも長政はすぐに顔を上げ、久政へもう一度頭を下げた。
「父上、御免」
長政が立ち上がる。
「長政」
もう一度呼ばれ、その歩みが速くなった。輪の外にいた者が場所を空け、長政はそのあいだから市のそばへ入った。
市が、ようやく長政へ顔を向けた。
「遅いぞ」
「申し訳ござりませぬ」
市は、それで済んだようであった。すぐに顔を戻し、別の者へ話しかけた。
久政は、まだ同じ場所に立っていた。
「今宵は宴じゃ。支度せい。祝いじゃ」
市は、誰へともなく言った。輪の中にいる全員へ命じたのであろうが、台所の者も蔵役も、まず長政を見た。
「みなの者、支度をせい」
長政が同じことを伝えると、今度は全員が動いた。
輪が崩れ、人が散っていく。酒がどれだけ残っているかを誰かが大声で訊き、足りなければ城下から上げよと別の者が答えた。厩の者は、市の馬を引いていった。
人がいなくなると、城の前は急に広くなった。踏まれた土や落ちた藁、誰かが置いていった桶だけが残っている。
赤尾も、そこに残っていた。
久政が立っている。供の者が二人後ろにいるのに、一人に見えた。
久政は、先ほどまで輪のあったところを見ていた。市が立っていた場所である。誰かを呼ぶこともなく、しばらくそこを見たあと、身体の向きを変えて城の中へ歩き始めた。
供の二人が、少し遅れて後へ続いた。
誰も、それに気づかなかった。
赤尾は、そちらへ足を向けようとした。右足を動かしたが、前へは出なかった。
去年も同じことがあった。あのときは、久政のところへ行けば、行かない者たちと自分を分けることになると思った。
今年は、それすら思わなかった。
行って、何を言うのか。
そう考えたわけでもない。ただ、足が出なかった。久政の姿が、戸の向こうへ消えた。
少し離れたところには、長政も一人で立っていた。父の方は見ていない。久政がいなくなったことにも、気づいていないようであった。
困った顔も、置いていかれたような顔もしていない。
長政が見ているのは、市の方だけであった。
市は、まだ喋っていた。散らずに残っている者が三人ほどいる。大野木と野村、もう一人は城下から上がってきた者であった。三人とも、宴の支度へ行くことを忘れている。
市は、その者たちを相手に、次はどこへ出るのかという話を、もう始めていた。
「六角の倅が、甲賀へ落ちたそうじゃな」
「さようにございまする」
「甲賀とは、どの辺りじゃ」
大野木と野村が互いの顔を見た。城下の者が、南東の方を指す。
「山を越えた先にございまする」
市は、指された方を見た。小谷の城前から甲賀は見えない。ただ、幾重にも重なった山があるだけであった。
「ほう、そうか。あっちか」
市はそう言って、笑った。




