【第一章 六角】第十八話 六角本陣 なぜ誰も来ぬのじゃ
◇
翌朝は、雲一つない晴れであった。夜のうちに湿った草が朝日を受けて光り、弱い風が、立てられた旗を垂れぬ程度に開かせている。
戦をするには、悪くない日であった。
六角義賢は、街道を見下ろす台地の上に本陣を置いていた。後ろには林があり、前は開けている。北から延びてきた街道も、その街道から台地へ上がる道も、床几のあるところから見渡すことができた。
上がり口は狭く、一度に多くの兵は通れない。本陣の前には槍を持つ者を二列に並べ、上がり口にも兵を置いた。後ろの林には馬を繋ぎ、使いの者を待たせてある。
幕を張り、旗を立て、床几を置いた。組み方に悪いところはなかった。
ただ、着到が揃わない。
来るはずの者の場所は、初めから空けてある。目印の杭を打ち、人が来ればすぐに入れるようにしていたが、そこには朝になっても杭だけが残っていた。
最初の報せは、日が上がりきる前に来た。使いの者は台地を走って上がり、本陣の前で膝をつくと、息を一度呑み込んだ。
「申し上げます。蒲生勢、参陣かないませぬ」
蒲生は日野である。夜のうちに出れば、朝には着く距離であった。
「病か」
「わかりませぬ」
「道が塞がったか」
「そのような報せは、ござりませぬ」
「では、なぜ来られぬ」
使いの者は頭を下げた。それ以上の答えは持っていなかった。
義賢は、もうよいと手を動かした。空けてある場所は、そのままにさせた。まだ来るかもしれない。
次の報せが来た。
「三雲、いまだ着到なく」
三雲は甲賀衆をまとめている。その三雲が来ないのであれば、その下の者たちも来ない。
「使いは出したのか」
「昨日、出しておりまする」
「戻ったか」
「戻っておりませぬ」
「もう一人出せ」
命じると、そばにいた者が立ち、林の方へ走っていった。
義賢は床几に座ったまま、北の街道を見た。兵の列も、近づいてくる土埃もない。蒲生の旗も、三雲の旗も現れなかった。
三度目の者は、走ってこなかった。足早に本陣へ入り、義賢の前で膝をついた。
「永原も、目賀田も、返答がござりませぬ」
返答がない。
断ってきたのであれば、断った理由が分かる。たとえ偽りであっても、何を言い訳に選んだかは分かる。だが、返答がなければ、使いが戻らないのか、門の前で追い返されたのか、それすら分からない。
「返答がないとは、どういうことじゃ」
「それが・・・」
報せに来た者は、そこで言葉を止めた。分からないことを別の言葉にしようとして、何も出てこなかった。
義賢が床几の上で座り直すと、組んだ木が小さく鳴った。
集まっているのは、直臣と近い郷の者ばかりである。朝になってから来た者もいたが、連れてきた兵は少ない。百を出すはずの者が三十しか連れてこず、五十と書き付けにある者が十二人で来ている。
来ただけ、まだよい。
誰に聞かせるでもなく、そう言った者がいた。
数は、書き付けにあるものの三割にも足りなかった。
空いた場所を埋めるため、兵を動かした。中央を薄くして前を広げ、林の前に置いていた者を、台地へ上がる道へ回す。回したところがまた空いたが、そこへ置く者はいなかった。
陣の形に悪いところはない。いるべきところに、人がいないだけであった。
六角の柱は、すでに二本とも失われている。後藤賢豊は一昨年、観音寺で義治に討たれた。それ以来、後藤に近かった者のうちには、国へ帰ったまま出てこない者がいる。
残っていた進藤も、去年、境目で討たれた。討ったのは、浅井へ嫁いだ織田の姫だという。
義賢は、その顔を知らなかった。
義治は観音寺に残してある。当主と嫡子が同じ戦で討たれぬよう、留守を預からせた。どちらかが残れば、六角の家も残る。
だが、いま義賢が考えているのは、そのことではなかった。
「なぜ誰も来ぬのじゃ」
脇に控えていた将が、頭を下げた。
「なぜ誰も来ぬのかと訊いておる」
「わかりませぬ」
嘘をついている顔ではなかった。訊かれたことに答えられず、困っているだけの顔である。
「蒲生もか」
「わかりませぬ」
「みなが同じ日に、来られぬことなどあるか」
将は、もう一度頭を下げた。
義賢は床几から立ち、幕の端まで歩いた。北から来る街道には、いまだ何も見えない。
揃わぬのではない。来ないのである。
一家だけなら、道中で何かが起きたとも思える。だが、三家も四家も、同じ日に同じことをしている。それならば、示し合わせていると考える方がよかった。
義賢は、空いている場所を順に見た。杭だけが並び、その向こうでは、残った兵が間を広く取って槍を持っている。少なさを隠すため、旗だけは多く立てさせてあった。
「おかしいではないか・・・」
誰も答えなかった。
「浅井の手引きか・・・」
義賢はもう一度、街道を見た。
「浅井め・・・」
浅井が誰に何を与えたのか。銭か、所領か。誰が話を運び、いつから仕掛けていたのか。
考えようとして、材料が一つもないことに気づいた。捕らえた使いはいない。見つけた書状もない。誰かが浅井の者と会ったという報せさえ届いていなかった。
浅井の手引きだと言ったのは、そう思いついたからにすぎない。そう思うだけのものを、義賢は何一つ持っていなかった。
◇
遠くから、女の声がした。
「六角の大将はどこじゃ」
義賢は顔を上げた。声がしたのは、北の街道ではない。台地の下である。
近い。
見張りの声は、まだ上がっていなかった。代わりに馬の音が聞こえた。一騎ではない。重なった蹄の音が、台地の下から一度に迫ってくる。
「構えよ」
義賢が言い終える前に、前の列が横へ動いた。上がり口を塞いでいた者たちが押され、槍が一本、地面へ落ちる。拾おうとした者も、後ろから来た兵にぶつかってよろめいた。
「止めよ!」
声は出たが、誰も止められなかった。
馬に乗る間はない。義賢の馬は林の側に繋いである。走れば十歩ほどのところだったが、その十歩を走るより、向こうが来る方が早かった。
先頭の馬が幕の端を踏んだ。張っていた縄が切れ、幕の片側が落ちる。
その幕を回り込んで、黒い馬が本陣へ入ってきた。
乗っているのは、若い女であった。具足も兜もつけていない。走ってきたためか、まとめた髪のうち何本かが頬にかかっている。左の袖には古い裂け目が縫ってあり、そこだけ糸の色が違っていた。
女は笑っていた。
後ろから、男の声が飛んだ。
「あそこにござりまする」
女はそちらを見なかった。初めからずっと、義賢だけを見ている。黒い馬の首も、まっすぐ義賢の方へ向いていた。
「覚悟せい」
義賢は腰の刀へ手をかけた。
名乗らねばならないと思った。六角の当主が討たれる場に、名がなくてよいはずはない。誰が義賢を討ったのか。それだけは残さねばならなかった。
「六角左京大夫、義賢・・・」
途中であった。
馬が来た。
女の薙刀が上がるのが見えた。
刃が、朝の光を返した。
それから、見えなくなった。
頬が土へ触れていた。
空が見えている。
青い。
朝から晴れていた。
なぜ倒れたのかは分からなかった。
右手は、まだ刀の柄を握っている。
抜こうとして、指に力を入れた。
指が動いたかどうかは分からなかった。
馬の脚が、幾つも横を通った。
蹄が土を蹴り、細かい砂が顔へかかった。
降りてくる者がいる。
女の声が、上の方でした。
何を言っているのかは、もう聞き取れなかった。
◇
大野木秀俊は馬から降り、幕の前まで走った。
六角の旗の下に男が倒れている。床几は横倒しになり、片側の落ちた幕が風を受けて、地面の上を動いていた。
周りにいた兵は、みな下がっている。林へ逃げる者と、台地を下りようとする者がぶつかり、互いを押し退けようとしていた。
倒れている男だけが残っていた。刀の柄は握っているが、刃はまだ鞘の中にある。
大野木が腕を押さえ、もう一人が肩を押さえた。二人で地面へ押さえつけ、そのまま仕留めると、男の手から力が抜けた。刀は最後まで、鞘に収まったままであった。
「首を」
誰かが言った。
大野木は刀を抜いた。初めて首を落としたときより、手は迷わず動いた。だが、男の首は太く、一度では落ちなかった。刃を抜いてもう一度入れ、ようやく胴から離した。
両手を首の下へ入れて持ち上げる。重かった。
大野木が顔を上げると、市は少し離れたところに馬を止め、こちらを見ていた。薙刀を片手で持ち、上へ向いた刃先が日の光を返している。
大野木は息を吸い、声を張った。
「お市様、敵が大将、六角左京大夫を討ち取ったり!」
言ってから、御方様と言わなかったことに気づいた。初陣の前に、赤尾からそう呼べと言われている。言われた通りにしていた。周りの者は、誰もそう呼んでいない。
長政が馬上で叫んでいたのも、こちらであった。言い直そうとしたが、誰も咎めなかった。
市も咎めなかった。大野木の持つ首を一度だけ見ると、薙刀を高く上げた。
「六角、討ち取ったり! 勝鬨をあげよ!」
「おおー!」
初めに応じたのは、市の周りにいた者たちであった。
「六角、討ち取ったり!」
誰かが繰り返す。声は台地の上から下へ伝わり、街道にいる兵のところまで広がっていった。
六角の兵が振り返った。旗の下を見る。そこに立っているはずの者はおらず、代わりに大野木が首を持っていた。
一人が走り出した。それを見た者も走り、さらに後ろの者まで動き始めた。
市は、すでに馬の向きを変えていた。大野木の抱えている首には、もう興味を失ったようであった。
大野木は首を布で包み、左腕に抱えたまま、片手で馬へ乗った。顔を上げると、市がこちらを見ている。
市は薙刀を上げた。
「長政、続け」
そのまま黒い馬を走らせる。
「みなもついてまいれ」
長政が続いて駆け出し、周りの者も後を追った。馬の一団は台地の縁を回り、街道へ向かって下りていく。
黒い馬が土を蹴った。市の姿は台地の縁で一度だけ高く見え、すぐに下へ消えた。
◇
その日のうちに、六角は総崩れとなった。
台地から逃れた者たちは、街道へ出たところでもう一度崩れた。隊ごとに退いたのではない。一人が走れば、その後ろを二人が追い、やがて十人、二十人となった。途中で旗を捨てる者もいた。
止める大将はいない。どこへ集まれと命じる者もいない。流れ着いた先には、本来いるはずの隊さえいなかった。
◇
報せが観音寺へ届いたのは、その日の夜であった。
戻った者は、初めに何を言えばよいのか分からなかった。本陣が落ちた。義賢が討たれた。兵が散った。どれも、同じことを告げていた。
義治は城を出た。連れていける者だけを連れ、そのまま甲賀へ落ちた。
落ちる先は、そこしかなかった。




