【第一章 六角】第十七話 決戦前夜 明日が仕上げじゃな
一五六一年 春 近江
市が輿入れして、一年になる。
雪が消えた。屋根から落ちた雪だけが、日陰に残っている。道が現れ、馬も通れるようになった。
春になり、また触れが回った。一年前と同じである。
今浜の八幡宮へ兵が集まり、市が来る。ただ、集まった数は去年より増えていた。
鳥居の外だけでは足りない。参道の両側を越え、その先の野まで人がいる。飯を炊く煙も、並んだ旗の数も増えていた。
去年は旗を立てていなかった村が、旗を立てている。十人しか出さなかった村が、二十人を連れてきた。
浅井のものではない旗も、いくつか混じっていた。
赤尾清綱には、見覚えのある旗印があった。六角の陣の向こう側で、見たような気がする。
誰の旗なのかは、訊けば分かる。
赤尾は訊かなかった。その日は、忙しかった。
◇
陣を置いたのは、低い丘の南の裾であった。
風が北から来る。裾に置けば丘が風を遮るので、張った幕は、ときどき下の方だけが揺れた。
飯の煙は、日が落ちてから上げさせた。陣のあちこちに火があり、その周りへ村ごとに兵が座っている。
飯を食い終わった者から、具足の紐を確かめていた。声はあるが、大きくはない。笑い声が上がると、別の火の周りから、何を笑っておる、と声が飛ぶ。
陣の外側には見張りが立っている。交代する時刻を知らせるため、ときどき人が走っていった。その足音が、火の明かりの外を通り過ぎる。
長政の幕は、陣の中ほどにあった。ほかの幕より少し大きいが、それでも中は狭い。
床几が二つと、板を渡しただけの台がある。二人が向かい合って座れば、それだけで場所がなくなった。薙刀を横へ置けば、柄の端が幕へ当たるほどである。
市が来るまでに、三度、人が来ていた。
一人目は、日が落ちる前に来た。二人目が来たのは、暗くなってからである。裾には泥がつき、息も乱れていたが、渡した書付には水も泥もついていなかった。
三人目は幕へ入らず、外から書付を差し入れた。返事は要らぬと告げると、すぐに戻っていった。
人が来るたび、台の上の紙が一枚ずつ増えた。
長政は、それを一枚ずつ見た。一度読んで初めへ戻り、もう一度ゆっくり読む。見終わったものは、裏返して重ねていった。
一枚ごとに、読むのにかかる間が違っている。読みながら、声は出さなかった。
最後の一枚を見た。その一枚だけは、二度目を読まなかった。
裏返して、ほかの二枚へ重ねる。端を揃え、初めから台に置いてあった書付も加えた。
長政は、その束を紐で括った。結び目を一度引き、解けないことを確かめてから、台の脇へ寄せた。
台の上には、灯が一つ残った。火が小さく揺れている。
長政は、何も載っていない台の真ん中を見ていた。
幕が上がった。
冷たい風が一度だけ入り、灯が揺れた。長政の影が、幕の上で動く。
市が入ってきた。薙刀を持ったままである。
柄が幕の縁へ当たりそうになったので、市は手首を返し、刃の方を先へ入れた。それから自分も中へ入り、幕が下りると風が止まった。
市は、すぐには座らなかった。立ったまま台の方を見て、脇へ寄せられた書付の束へ目をやる。
何が書いてあるのかは訊かなかった。
空いている床几へ腰を下ろし、薙刀を立てたまま持っている。刃が幕の上の方へ触れたので少し斜めにすると、今度は柄の端が地面を擦った。
長政が手を伸ばした。
市から薙刀を受け取り、二人のあいだへ横たえる。刃が市の方へ向かないよう、置いてから向きを変えた。
市は、それを見ていなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
外では、飯を入れた椀を配る声がしている。その声も、幕を一枚隔てると小さくなった。
「明日は、六角の本陣にござりまする」
市が少し首を傾けた。
「ほう。そうか」
ひとりごとのような言い方であった。驚いた様子はない。喜んだ様子も、すぐには見えなかった。
横たえられた薙刀へ手を置き、柄を一度、指で叩いた。
「本陣ならば、大将がおるのじゃな」
「おりまする」
「そうか」
市が笑った。今度は、はっきりと笑っていた。
「明日が仕上げじゃな」
薙刀を持ち上げ、膝の上へ横たえる。柄の根元を指で押さえた。
冬に替えた柄である。まだ割れていない。市は両手で持ち、少し力をかけた。軋む音はしなかった。
「六角を平らげてくれるわ」
市が顔を上げた。
灯が下から当たっている。目のあたりへ影が落ち、その分、笑っているのがよく見えた。
「明日が楽しみじゃ」
長政は、すぐには返さなかった。市の顔を見ている。
市は返事を待っているようには見えない。薙刀の柄を撫でていた。
「はっ」
長政は頭を下げ、それから上げた。
市は、もう薙刀の方を見ている。柄を回して刃の向きを変え、灯へ近づけた。角度を少しずつ変えると刃が光り、消え、また細い線だけが白く浮かんだ。
こぼれているところがある。小さいものであった。
市は親指の腹で、その近くをなぞった。もう一度なぞる。
長政が手を伸ばしかけたところで、市が刃から指を離した。長政の手も止まった。
市は、こぼれたところを灯へ向けたまま目を細める。
「これなら、まだ使えるの」
長政は口を開いた。だが、何も言わずに閉じた。
市は気づかない。
薙刀を肩へ担ぐと、刃が幕へ触れそうになった。長政が手で幕を押さえる。
市は立ち上がった。立つと、幕の中がさらに狭くなる。薙刀の柄を立て、入ってきたときと同じように刃を先へ向けて、幕の方へ歩いていった。
長政は、床几に座ったまま見ている。
市は幕へ手をかけた。上げる前に一度止まり、振り返る。
「早う寝よ。遅れるでないぞ」
「はっ」
市はそれだけ言い、幕を上げて出ていった。
また冷たい風が入った。灯の火が大きく傾く。
外から、お市様、と呼ぶ声がした。市が何かを返す。少しして笑い声が上がり、その中には市の声も混じっていた。
足音が遠ざかる。
幕が下りた。
長政は、床几に座ったままであった。二つある床几の片方が空いている。市が座っていたところである。
台の上の灯が揺れ、やがて止まった。
長政は、脇へ寄せていた束を見た。手を伸ばし、括った束をもう一度引き寄せる。
親指を紐の結び目へかけた。
紐は解かなかった。
外では、陣の火が一つずつ小さくなっている。見張りを替える声がした。
長政は、束から手を離した。




