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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第十六話 一年で六度の出陣

 ◇


 それから、同じことが何度も起きた。


 触れが回り、今浜の八幡宮へ兵が集まる。市が馬で来て、社に向かって同じことを言う。


「勝ったら、また来る」


 そこから境目へ出て、六角と当たる。市が陣へ入り、相手が崩れる。首を数え、浅井の兵は小谷へ帰った。


 城の前には久政が立っている。長政が片膝をついて報告し、久政が、そうか、と答える。市の周りには人が集まり、市は次がいつなのかを訊いた。


 答えられる者はいない。


 十日ほどすると、また触れが回った。


 赤尾清綱は、そのたびに同じ場所にいた。馬に乗り、市の一団の外側を走る。市の馬が右へ行けば右へ行き、戻れば戻った。前へ出すぎれば、後ろの者へ詰めよと叫ぶ。


 市が聞いているかどうかは分からない。聞いていなくても、周りの者が動いた。


 六角は毎度、数が揃っていなかった。あるときは右が空き、あるときは左に立つはずの旗がなかった。来てはいても、明らかに少ない兵しか連れていない隊もあった。


 初めのうちは、なぜ来ないのかという話が出た。道が悪かったのではないか。触れが遅れたのではないか。そう言う者はいても、確かめに行く者はいなかった。


 そのうち、話そのものが出なくなった。答えが出たのではない。訊いても分からないので、訊かなくなっただけである。


 赤尾も、それを不審には思っていた。


 だが、六角の家中が割れているなら、数が揃わなくても説明はつく。説明がつくので、それ以上は考えなかった。


 一度だけ、長政に訊こうとしたことがある。


 小谷へ戻ったあと、廊下の先に姿を見つけた。長政は書付を抱えた者を二人連れている。歩きながら一枚を受け取って読み、何かを言って返した。次の一枚を受け取る前に、別の者が横から声をかけた。


 赤尾は呼び止めなかった。次に会ったときには、何を訊こうとしたのか忘れていた。


 ◇


 夏になった。


 一年のうち、田植えと刈り入れの前後には、兵を出せない時期がある。その時期は出ない。出ないあいだに、長政が村を回っていた。


 朝に城を出て、夕方に帰る。二日戻らないこともあった。連れていくのは二人か三人で、兵は連れていかない。馬に袋を載せ、書付を持たせて出た。


 戻ってくると、袋の中身は減っている。代わりに、別の書付が増えていた。


 必要があれば、赤尾もそれを見る。どの村に何人いるか。誰が馬を出せるか。去年、誰が帰らなかったか。前の戦で市の近くを走っていた者の名もある。


 傷を負った者の名と、その家へ渡した米の数も書いてあった。


 何をしているのか分からない、というほど分からないわけではない。それでも、なぜ長政が自分で村を回るのかは訊かなかった。


 市も、城にいないことが多かった。馬を出せる日は馬に乗り、出せない日は薙刀を持って外へ出る。城の裏へ行ったまま、日が暮れるまで戻らないこともあった。


 戻れば、長政を見つけて訊く。


「次はいつじゃ」


「まだ決まっておりませぬ」


「早う決めよ」


 市はそれだけ言い、またどこかへ行く。


 長政は、市の背中が見えなくなるまで見ていた。見えなくなると、持っていた書付へ目を戻した。


 ◇


 秋に、二度出た。


 市が八幡宮へ来るのは、前より少し遅くなっていた。兵は市が鳥居を潜るまで、村ごとに座って待っている。


 姿が見えると、参道に近い者が立った。その後ろも立ち、一つの村が立てば隣も立つ。市が何も言わないうちに、野の端まで全員が立っていた。


「六角は、わしが蹴散らしてくれる」


 同じことを言うと、声が上がった。


 出る。相手は半分しか集まっていない。市が入り、崩れる。そして帰る。


 二度目の帰りに、赤尾は数え直した。一年で、六度出ている。


 市はそのうち五度、敵の大将がいるところまで届いていた。届かなかった一度は、相手が先に退いたからである。


 大将のところまで駆けた市が、首を持って戻ってきたことはない。首を持ってくるのは、後ろを走った者であった。


 市は先に陣へ戻り、傷を負った者を見ている。名を呼ばれた者は、次の戦でも市の近くにいた。近くに置けと命じられたのではない。


 気づけば、そこにいる。


 浅井の死人は多くなかった。だが、いないわけではない。帰りの列には空いた場所ができ、同じ村の者が、その者の槍を持って帰った。具足も、持てるものは持ち帰る。


 帰らなかった者の家へは、長政が人をやっていた。


 米が行く。銭が行く。子がいれば、その数も書付へ載る。


 赤尾は、誰にいくら渡したのかを見た。受け取ったという印がない家には、長政がもう一度人をやらせた。傷が残り、戦へ出られなくなった者は、城下の役へ回されている。


 蔵にいる。門にいる。馬を扱える者は、厩にいた。


 ◇


 雪が来た。北近江の冬は長い。


 夜のうちに降れば、朝には道が消えている。人が歩けば道になるが、また降れば消えた。街道が塞がり、村へ人を出しても集まらない。


 冬は動かない。動かないというより、動けなかった。


 兵を村へ帰す前に、具足を集めた。濡れたものは乾かし、泥を落として櫃へ戻す。初めに集めたときとは組み合わせが変わり、胴は戻ったが、籠手が片方ないものもあった。誰が使ったのか分からなくなっているものもある。


 折れた槍は柄を替えた。折れたところを切り、短くして使えるものは残す。矢を数え直すと、去年より減っていた。


 使ったからである。それだけのことであった。


 馬も休ませた。背に傷のあるものには、しばらく鞍を置かない。


 市が乗っていた黒い馬は、左の後ろ脚を痛めていた。立っているときは分からないが、歩かせると、その脚だけが遅れる。


 厩の者が言うには、走らせすぎたためであった。止め方も急で、向きを変えるときにも脚へ無理がかかっている。


 誰も、それを市には言わなかった。


 市が黒い馬を出せと言った日は、厩の者が別の馬を引いてきた。


「こちらの方が、雪の残る道には向いておりまする」


「そうか」


 市は、その馬へ乗った。黒い馬のことは訊かなかった。


 黒い馬は、厩の奥で休んでいた。


 冬のあいだ、市は城にいた。いたが、じっとはしていない。雪のない日は城の前で馬を走らせ、積もれば広間の隅で薙刀を振っていた。


 赤尾は、一度それを見た。


 廊下を歩いていると、風を切る音がした。戸が少し開いている。中を見ると、市が一人で薙刀を振っていた。


 上から下へ振る。止める。足を替える。また振る。


 外では雪が降っている。市は見ていなかった。


 赤尾は、しばらくそこに立っていた。それから、広間の隅の板が少し凹んでいるのを見つけた。薙刀の石突きが、同じところへ何度も当たっていた。


 赤尾は戸を閉めた。


 翌日、広間の隅には厚い板が一枚置かれていた。誰が置かせたのかは、訊かなかった。


 久政は、冬のあいだ、ほとんど部屋から出てこなかった。人が来れば会う。来なければ会わない。


 赤尾は二度、顔を出した。一度目は村へ帰した兵の数を報せ、二度目は直す具足の数を報せた。


 久政は二度とも、そうか、と答えた。六角の話にも、市の話にもならなかった。


 長政は、日がな書状を書いていた。昼に書く。夜にも書く。


 同じ部屋で、市が薙刀の柄を削っていることもある。削った木屑が畳へ落ちる。長政は、ときどきそちらを見た。


 書き終わったものは、海北が持って出ていく。一通の日もあれば、何通も括って持っていく日もあった。


 雪の日にも出る。


 どこへ持っていくのか、赤尾は訊かなかった。


 訊いたことがなかった。

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