【第一章 六角】第十五話 陣中の手当て 同じところを二度は、いかんぞ
◇
大野木秀俊が三度目の水桶を運び終えたところへ、市が来た。
左の袖が裂け、布の端は乾いた血で黒くなっている。傷そのものは袖に隠れて見えなかった。薙刀は持っていない。誰かへ渡してきたらしい。
陣は、街道から少し東へ入った野に置かれていた。端まで来ている細い流れと陣のあいだを、水を汲む者が途切れずに行き来している。飲むためのもの、馬にやるもの、飯を炊くもの、傷を洗うもの。同じ水であるが、運ぶ先は違っていた。
戦は、すでに終わっていた。敵を追った者も戻り、馬を降りて具足を外している。折れた槍を集める者もいれば、帰らなかった者の名を確かめる者もいた。
首は十九であった。
並べて数えた首を落としたのは、大野木である。前の戦で長政から命じられ、この戦で初めてやった。三つ目までは手が震えた。四つ目からは震えなくなったが、それが慣れたということなのかは分からない。
いまは、その手で空の桶を持っていた。
野村定元が、手当ての支度をしている。地面へ筵を敷き、その上に木の板を置いてあった。板の上では晒を裂いて丸め、端から積んでいる。塩を溶かした水と、針や糸も出してあった。
すでに何人かが、筵の周りに座っている。声を出す者はいなかった。
市の姿を見て、兵の一人が立とうとした。
「そのままでよい」
兵は腰を浮かせた形で止まり、それからまた座った。
長政が後ろから追いついてきた。走ってはいないが、市より歩みが速い。追いつくまで、ずっと裂けた袖を見ていた。
「市、腕を」
長政が、市の左腕へ手を伸ばした。
「かすり傷じゃと申したろう」
市は、その手を甲で押し退けた。強く払ったわけではない。そのまま長政を残し、兵の方へ歩いていった。
長政は手を出した形で立っていた。目だけが、市の後ろを追っている。やがて手を下ろしたが、まだその場からは動かなかった。
大野木は桶を置き、野村が裂いた晒を一抱え取った。市のあとを追う。ついていけと言われたのではない。ほかにすることがなかった。
市は、腿に槍を受けた兵の前で膝をついた。
傷は浅い。巻かれた布が緩み、結び目が腿の裏へ回っていた。端は地面についている。
市は布をほどいた。血で張りついたところへ塩水をつけて剥がし、傷を一度見てから、もう一度拭う。左手も使っているが、裂けた袖の下にある自分の傷は見なかった。
新しい晒を取ろうとして、市が手を出した。
大野木は少し遅れて気づき、抱えていた晒を一つ渡した。市はそれを腿へ二度回し、端を挟んだ。
「痛むか」
「いえ」
「そうか」
市が立ち上がって次へ行くと、兵は巻き直された布へ一度触れ、それから市の背中を見た。
次の兵は、馬から落ちたときに肩を打っていた。肩のあたりが赤く腫れている。
「腕を上げてみせよ」
兵が腕を上げた。途中で止まる。
「もっとじゃ」
「これより上は、少し」
「上がるではないか」
市は兵の手首を掴み、そのまま上へ持ち上げた。兵が顔を歪める。
「痛むではないか」
「・・・少しだけでございまする」
「では、折れてはおらぬ」
市は手を離し、それでよいと言った。兵は肩を押さえたまま頭を下げた。
その次は手のひらであった。刀を握ったまま滑らせたらしい。市はその手を取り、開かせて、閉じさせる。もう一度開かせ、それを見て笑った。
「握りが甘いのじゃ」
言われた兵も笑った。
「次は、しかと握りまする」
「うむ。離せば拾う手間がかかるからの」
市が手を出す。今度は、大野木がすぐに晒を渡した。
市は大野木を見なかった。礼も言わない。渡されたものを受け取り、兵の手へ巻いていく。巻き終われば立ち上がり、次へ行った。
大野木も後ろについていく。
二人のあいだで決めたことは何もない。市が手を出せば、大野木が晒を渡す。市が歩けば、大野木も歩いた。
次のところで、市が名を呼んだ。
「藤蔵」
呼ばれた兵が顔を上げ、目を見開いた。自分の後ろを振り返ったのは、そこに同じ名の者がいると思ったからであろう。
誰もいなかった。
「前も、そこを突かれておったな」
藤蔵は自分の脇腹を見た。前の戦で受けた傷の跡がまだ残っている。その少し上に、新しい傷があった。
「・・・へえ」
「同じところを二度は、いかんぞ。次は避けよ」
市は笑った。
藤蔵は、市を見たまま動かなかった。市が手を出したので、大野木が晒を渡す。
市は傷の上へ新しい布を巻き、少しきつく締めた。指で押して確かめる。
「これでよい」
市が立ち上がると、藤蔵が何か言おうとした。口は動いたが、声が出ない。もう一度開いても、言葉にはならなかった。
市は待たず、次の兵へ歩いていく。
藤蔵の頭が下がった。額が地面につくほど深く下がり、肩が震えている。傷が痛むためではないように見えた。
大野木は、その頭を見た。それから市の背中へ目を移した。市はもう、別の兵の腕を取っている。藤蔵が頭を下げたことには、気づいていないようであった。
赤尾清綱が、少し離れたところに立っていた。腕を組み、何も言わずに見ている。近づこうともしなかった。
市は、そのあとも兵のあいだを回った。傷を見て、汚れた布を外し、手を出す。大野木が新しい晒を取りに戻っているあいだには、近くにいた者が代わりに渡していた。
大野木が戻ると、その者は何も言わずに場所を空けた。大野木も何も言わず、市の後ろへ戻った。
日が傾いてきた。手当ての場所から離れたところでは、飯を炊く煙が上がっている。市はまだ兵のあいだを回っていた。
傷のある者を一通り見終えると、傷のない者の前でも足を止めるようになった。市が近づけば、兵は姿勢を正した。
「名は」
「小八郎にございまする」
「どこの者じゃ」
「今西村に」
「そうか」
市は次へ行った。小八郎はその背中を見送り、何か言おうとしたが、市はもう隣の者の前にいる。
「名は」
「助六でございまする」
「村は」
「速水にございまする」
「ふむ」
訊かれた者は名と村を答え、そのあとに続ける言葉を探す。だが、市はもう次へ行っているので、結局、何も言わなかった。
同じことが何度か続いた。
市が通り過ぎても、兵は背を伸ばしたまま、その後ろを見ていた。名を訊かれなかった者まで、市を見ている。
大野木は晒を抱え、その後ろを歩いた。もう使う者はいなかったが、そのまま持っていた。
「次はどこじゃ」
市が歩きながら、その辺りへ言った。
「六角はまだ残っておるのであろう。次はいつ出る」
答えられる者はいない。兵が何人か、互いの顔を見た。野村は針と糸を片づけ、赤尾は腕を組んだままである。
大野木も答えを知らなかった。次にいつ出るのかを決めるのは、自分ではない。
だが、出ると言われれば出る。
大野木は、そう思った。
市は答えを待っていなかった。手当ての場所を抜け、馬を洗っている者たちの方へ歩いていく。大野木も、晒を抱えたまま後ろについていった。
途中で一度、振り返る。
長政は、書付を持った者へ何かを言いつけていた。先ほどの場所からは、もう動いている。
それでも、市が馬の方へ歩くと、顔だけはこちらへ向いた。
見ているのは、裂けた左袖であった。




