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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第十四話 かすり傷

 ◇


 六角の陣は、朝のうちに組み終わっていた。


 街道を塞ぐように中央を厚くし、東の山裾へ右を置く。西の低いところには左を置き、後ろに備えを一つ残した。いつも通りの組み方である。


 ただ、右の端に空きがあった。


 そこへ入るはずの隊が来ていない。旗を立てる場所だけを残してあるため、前後の隊も詰められず、人のいない場所を挟んで陣が二つに分かれて見えた。


 将は三度、人をやった。三度とも、まだ見えぬと戻ってきた。


「隣は、まだ来ぬのか」


 そばの者は答えなかった。答えられないのではない。答えがなかった。


 それ以上訊けば、観音寺の話になる。この陣で、その話をする者はいない。


 数を確かめさせると、揃っているのは書付にある数の六割ほどであった。空いた右には柵を動かし、槍を持つ者を横へ広げた。広げた分だけ人と人との間が空いたが、それでも形だけは陣になった。


 進藤が討たれた話は、ここまで届いている。誰も口には出さないが、朝から声が少なく、指図への返事も短かった。座っている兵は、何度も街道の先を見た。


 ◇


 昼前、街道の先に土埃が上がった。見張りが声を出すより先に、兵が立ち始めた。


 浅井である。


 街道の幅いっぱいに広がり、両側の田へも続いている。先頭が見えてからも、後ろはまだ土埃の中にあった。


 将は右を見た。空いた場所には、まだ誰も来ていない。


 浅井の先頭に、数十騎ほどの一団がある。そこだけが速く、後ろとの間が開いていた。待とうとはせず、まっすぐこちらへ来る。


 先頭は、黒い馬に乗った女であった。


 具足も兜もない。袴にたすき掛けで、束ねた髪を後ろへ流している。持っているのは薙刀だけであった。


 遠くても、女であることは分かった。


 将の周りで声が止んだ。女だけが何も被っていない。こちらから見られることを、気にしていないようであった。


「構えよ」


 思ったほど声が通らなかった。


 前の兵が槍を下げ、二列目も続く。穂先が並び、少し遅れて左右も同じ形になった。


 蹄の音が近づいてくる。一つに聞こえていた音が、いくつもの音へ分かれ、地を打って重なり、また一つになった。


 女が薙刀を下ろした。


 馬と人と槍が、同じところへ入った。前の列が押され、二列目が支える。重なった兵の足が土へ沈み、そこで止まった。


 将は左へ人をやった。横から押し返し、囲めばよい。馬は止まれば、歩く兵より大きいだけである。


 押し返すより先に、右が開いた。朝から空いていたところであった。


 薄く広げた兵が横へ押され、一人が下がると隣も下がった。空いたところへ騎馬が入り、左右の者が槍を払う。その間を女が抜けてきた。


 薙刀が動き、槍が二本落ちた。黒い馬が、その上を越える。


 速い。止まらない。


 倒された者より、避けた者の方が多かった。避けた者が隣へぶつかり、ぶつかられた者の槍が上がる。その下へ、次の馬が入った。


「右を閉じよ!」


 声は出た。だが、どこからどこまでが右なのか、もう分からなかった。


「大将はどれじゃ」


 女の声が聞こえた。走りながら訊いている。名も家も訊かず、どれじゃ、と言っただけである。


 近くの兵が、一斉に将を見た。


 将は旗を前へ出し、槍を集めさせた。女を止めるためではない。女がこちらを見るまでに、陣を戻すためであった。


 旗が人の上で揺れ、そのうちの一本が倒れた。


 女は、止まって斬り合わない。前が塞がれば横へ向き、槍が出れば馬を寄せる。薙刀が動くのは、その後であった。


 その横から、若い兵が槍を突き出した。女の馬が通るところへ穂先を向ける。


 左腕の布が裂けた。白い腕に、赤い筋が出た。


 兵は、当たったという顔をした。


 女は振り向かなかった。傷も見ず、そのまま先へ行った。


「市!」


 女の左を走っていた男が声を上げた。


 若い男である。朝から騎馬の中で名を呼び、行き先を告げ、空いた場所へ兵を入れていた。女だけを追っているようで、その周りをすべて見ていた男である。


「かすり傷じゃ。捨て置け」


 女は前を向いたまま言った。


 男の顔が変わった。声は上げない。女の腕にある裂けた布と、そこから流れる血を見た。


 次に、槍を突いた兵を見た。


「三田村、代われ」


 声は、それまでと同じであった。


 別の騎馬が、返事より先に女の左へ入った。男は入れ替わりに馬を返し、途中にいる兵を斬った。前から向けられた槍も、柄ごと押し込んで進んでくる。


 一人が倒れ、その後ろの者が退いた。男は空いた場所へ入り、次を斬った。


 先ほどまで、この男は周りをすべて見ていた。いまは、一人しか見ていない。


「市に傷をつけたのは、おのれか」


 若い兵は槍を落とし、後ろを向いた。だが、前へ出る者と下がる者の間に挟まり、逃げる場所がない。


 将はその先を見ていたが、あとで思い出せなかった。誰が先に倒れたのかも、男がいつ馬を降りたのかも分からない。気づいたときには、兵は地面にいた。


 男が、そのそばに立っている。刀には血がつき、周りの兵は離れていた。


「よいか」


 声は静かであった。


「市に傷を負わせた者は、こうする」


 誰に聞かせているのかは分からない。


「みなの者、一人も逃がすな」


 こちらの兵が下がった。一人が下がると、その隣も下がった。男は追わず、その場に立っているだけなのに、誰も近づかなかった。


 将は、下がるなと言おうとした。だが、口が動かなかった。


 女が馬を寄せてきた。


「なんじゃ、騒々しい」


 左腕から血を流したままである。倒れた兵を一度見てから、男を見た。


「そんなところで油を売るな。はよう馬に乗れ」


 男は、そこで初めて自分が降りていることに気づいたようであった。足元を見て、女を見上げる。


 顔が元へ戻った。


 刀の血を払い、鞘へ納める。垂れていた手綱を取ると、すぐに馬へ乗った。


「行くぞ、長政。遅れるでないぞ」


「はっ」


 先ほどまで人を斬っていた男と、同じ者には見えなかった。


 長政が馬の首を右へ振る。女も、それに合わせて馬を右へ向けた。


 その先に、将がいた。


 女がこちらを見る。遠くからは分からなかった顔が、いまは見えた。


 笑っている。


 陣は、すでに内側から割れていた。右から入られ、中央を横から突かれている。留まる隊と下がる隊の境で、味方同士が押し合っていた。


「左を下げよ」


 誰かが振り返った。


「後ろの備えを中央へ入れよ」


 返事はない。


「右は捨てよ。旗の下へ集まれ」


 声が届いた先でも、動く者と動かない者がいた。動いた者も、どちらへ行けばよいのか分からずに止まる。


 それでも、将は指図を出し続けた。


 女が来る。その左右を騎馬が走っている。


 長政は、もうこちらを見ていなかった。女の少し後ろへつき、元の顔に戻って、周りへ指図を出している。


 女だけが、まっすぐ将を見ていた。


 崩れながら、兵が後ろを振り返った。女が笑っているのを見て、さらに下がった。


 間合いは、すぐになくなった。


 薙刀が上がる。


 将は腰の刀へ手をかけた。柄を握ったところで、薙刀が下りた。


 音はしなかった。


 女の顔が下へ消え、代わりに空が見えた。次に地面が見えたが、何が起きたのかは分からなかった。刀の柄は、まだ握っている。


 将の身体が地へ倒れるより先に、女はもうその横を駆け抜けていた。

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