【第一章 六角】第十三話 二度目の出陣 勝ったら、また来る
一五六〇年 晩春 近江 今浜
今浜の八幡宮は、浅井の兵で埋まっていた。小谷から南へ下ったところにある。
木々のあいだを抜けた風が、社の前を通り、鳥居の外へ流れていく。武神を祀る社であり、街道へ出る前に立ち寄れる。出陣の前に参るなら、ここになる。
浅井の兵がこの場所へ集められるのは、市が来てから初めてであった。
前の戦には、兵を集める間がなかった。市が出ると言い、その日のうちに出た。集まった者から街道を追い、途中で列へ加わったため、数を確かめたのは境目へ着いてからである。
今度は違った。ひと月かけて、触れを回してある。
赤尾清綱は、鳥居の外に立っていた。
人が多い。境内には入りきらず、参道の両側から、その先の野まで続いている。兵は村ごとにまとまって座っていた。
旗を立てている村と、立てていない村がある。立てている旗も同じではない。布へ家の印を入れたものもあれば、村の名を書いただけのものもあった。旗のないところは、初めて兵を出す村である。
槍を持つ者の隣に、鍬を担いだ者がいる。具足のある者と、袴へ紐を締めただけの者も、同じ列に並んでいた。
名を読み上げる者は、朝から声を出し続けている。村の名を呼び、人数を言わせて書き付ける。数が合えば次を呼び、足りなければもう一度数えた。それでも足りない村が、いくつかあった。
野の方では、飯を炊く煙が幾筋も上がっている。風が来ると、煙が横へ流れた。
握り飯は、一人に二つである。受け取った者は一つを懐へ入れ、もう一つをその場で食っていた。朝から配り始めているが、まだ終わっていない。
これを決めたのは長政である。
触れを出す日も、集める場所も、握り飯の数も決めた。どの村を、どの村の隣に置くかも書き付けてある。水のことで争った村は離し、道の近い村は、帰りも同じ方へ進めるように並べてあった。
長政は、その理由を誰にも説明しなかった。決めたことを書き付け、渡しただけである。赤尾は、その書付を見て知った。
その長政は、社の前にいた。
手水を使い、幣の前で二度頭を下げた。二度手を打ち、もう一度下げる。神主が脇につき、祝詞が終わるまで顔を上げなかった。
神酒を両手で受け、一口飲む。残りを返し、幣の前から退いたところで、馬の蹄が聞こえた。
鳥居の外にいた者が、音のする方を見る。座っていた者も顔を上げた。
黒い馬が来た。
乗っているのは市である。
長政がいつも乗る馬であった。まだ小さかった長政を、初めてあの馬へ乗せたのは赤尾である。鞍の上で背を丸めていた姿を覚えていた。
その馬が、いまは首を高く上げて鳥居を潜ってくる。脚の運びまで軽く見えた。乗せている者が違えば、同じ馬にも見えなかった。
誰も止めなかった。止めようとする者がいなかったのか、止める間がなかったのかは分からない。
市は神主の前を通り、社の前でようやく馬を止めた。手綱を引いて馬の首を上げさせ、自分も顔を上げる。
「ほお。浅井でも、出陣前は社に参るのじゃな」
分かったような顔をしていた。口の端が上がっている。
誰かに教えられたのではない。集まった兵と、幣の前にいた長政を見て、そう言っただけであった。
馬からは降りない。手水も使わず、幣の前へも行かなかった。
神主が口を開きかけ、長政を見た。
長政は何も言わない。市を見ている。
神主は、開きかけた口を閉じた。市は、その神主を見てもいなかった。
馬の向きを変える。蹄が境内の土を踏み、馬の首が参道へ向いた。市も身体をそちらへ向け、鳥居の外から野の端までを、ゆっくりと見回した。
人がいる。鳥居の内にも外にもいる。煙の向こうにも、旗の下にもいる。
市は、一番端まで見た。
参道に近いところで、一人が立った。誰かに言われたのではない。
市が見たので、立った。
その後ろの者が、それを見て立つ。さらに後ろの者が何ごとかと顔を上げ、市がいることに気づいた。
一つの村が立つと、隣の村も立った。少し遅れて、その後ろも立つ。座っていた者の頭が消え、代わりに槍の穂先が上がっていった。
野の端まで、順に伝わった。
旗を持つ者が立つと、風を受けて布が開いた。飯を配っていた者は籠を持ったまま立ち、名を読み上げていた者も書付から顔を上げた。
声が止んだ。
市は、馬上から全体を見た。
「みなの者、これより出陣じゃ」
声が境内を抜け、鳥居の外へ出た。参道の両側へ広がり、野の端まで届く。
「六角は、わしが蹴散らしてくれる」
どこかで、鍬を打ちつけるような音がした。槍の石突きを、地面へ突いた音である。
一つ鳴り、それへ答えるようにもう一つ鳴った。二つ、三つと増えていく。揃ってはいなかったが、少しのあいだ続いた。
市は、それを聞いていた。うなずきはしない。ただ、笑っている。
馬の首を社の方へ戻した。
「勝ったら、また来る」
人ではなく、社へ向けて言った。
勝たせてくれとも、守ってくれとも言わない。手を合わせず、頭も下げていなかった。願いではなく、約束をした言い方である。
神主が市を見た。次に長政を見る。
長政は、市を見ていた。
赤尾も、そちらを見た。
殿は、神主が口を開きかけたことに気づいておられぬ、と赤尾は思った。気づいておられぬのではない。見えておらぬのだ。
周りで声が上がった。
何に対して上がったのか、赤尾には分からなかった。六角を蹴散らすと言ったことか。勝って戻ると神へ告げたことか。それとも、市が馬上で笑っていることか。
分からないまま、周りの者が槍を持ち直すのを見た。
市が、兵の方へ向き直った。
「長政、行くぞ」
返事を待たず、馬の腹を蹴った。
黒い馬が走り出す。鳥居を潜り、参道を抜ける。立っていた者たちが左右へ分かれて道を空け、市はその間を抜けて街道へ出た。
先導する者はいなかった。
「みなも続け」
長政の声は、市ほど遠くまでは届かなかった。それでも、近くにいた者が動いた。その者を見て、後ろも動き始める。
長政は、控えていた馬へ走った。
「おおー」
声が上がった。今度は揃っていた。
赤尾も馬に乗った。すでに走り出していた長政へ追いつき、その横につく。
走りながら、一度だけ後ろを見た。
野の全体が動いている。村ごとの列がほどけ、街道へ寄っていく。旗が一本ずつ上がり、人の流れに乗って同じ方へ進み始めた。
前の戦より、ずっと多い。
赤尾は前へ向き直った。
「御方様・・・」
その先を、すぐには言わなかった。
「よい」
長政は、赤尾を見ずに答えた。先を行く市を見ている。
赤尾は、それ以上言わなかった。
言ったところで、市はもう街道へ出ている。後ろでは、長政がひと月かけて集めた兵が動いていた。
村の並びを決めた者が誰かも知らず、同じ声を上げ、市のあとを追っている。
誰も、それを不思議には思っていなかった。




