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長政は、お市に勝てない ―敵陣へ駆ける妻を、浅井長政は裏で勝たせる―  作者: 島村 巡
【第一部 北近江編|第一章 六角】

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【第一章 六角】第十二話 六角方に届いた書状 わしは、何もしておらぬぞ

一五六〇年 春  南近江



 その家に書状が届いたのは、進藤が討たれたという話が届いてから三日後、昼を少し過ぎた頃であった。


 使者は一人で来た。馬ではない。旅装束で、腰に刀を差している。笠を被っていたので、門を開けた者には顔がよく見えなかった。


 屋敷には上がらなかった。門のところで、取り次ぎの者へ包みを渡した。


「返事は要らぬ」


 それだけ言った。


 取り次ぎの者が、どちらから参られたと訊いたときには、もう背を向けていた。呼び止めるほどのことでもない。後になって訊かれても、若い男であったとしか答えられなかった。


 包みには、主の名が書いてある。


 主は部屋へ持ってこさせた。人を下がらせ、一人で開けた。


 中は一通である。


 薄い料紙で、折りは丁寧であった。紙に香は移っていない。家の印も入っていない。最後に、浅井備前守の花押がある。


 主は、まず花押を見た。それから初めへ戻った。


 書いてあることは、一つだけであった。


 このたびの争いについて、貴殿が兵を出されぬのであれば、浅井が勝ったのちも、貴殿の所領は今のままとする。


 それだけである。


 銭の話はない。人質の話もない。日限も切っていない。返事を寄越せとも書いていなかった。


 主は、二度読んだ。


 一度目は、書いてあるものを読んだ。


 二度目は、書いていないものを探した。


 読み終わってからも、しばらく書状を持っていた。薄い紙を透かして、持っている指が見える。


 断る文句を考えていた。


 こちらへ付けと言われていれば、付かぬと返せばよい。兵を引けと言われれば、引かぬと返せる。人質を寄越せと言われれば、それも断れる。


 何かを求められていれば、それを断ればよい。


 何も求められていなかった。


 使者は、返事は要らぬと言って帰った。


 主は書状を畳んだ。初めからある折り目に合わせると、もとの大きさへ戻った。包み直し、文箱へ入れた。


 蓋を閉める。


 その上へ、しばらく手を置いていた。


 やがて蓋を開けた。書状を取り出し、もう一度読んだ。


 書いてあることは、変わっていなかった。


 ◇


 書状が届いてから三日後の夕方、人が集まった。


 この家の弟と、隣の郷に所領を持つ者と、古くからいる家人の三人である。皆、進藤の話をしに来た。


 呼び集めたのではない。初めに弟が来た。その話をしているところへ、隣の郷の者が来た。最後に家人が入った。


 誰も、書状のことを知らない。


 四人は、庭に面した部屋へ座った。障子は開けてある。日は、まだ庭の端に残っていた。風はなく、庭木の葉も動いていない。


 誰も酒を出させなかった。出させれば、長く座ることになる。


 主は、文箱を膝の脇へ置いた。


 すぐには開けなかった。


 田へ水を入れるのが遅いという話をした。川上の村が、まだ堰を直していない。去年の年貢が残っている家もある。


 どれも、四人がすでに知っていることであった。


 弟が同じ話を二度した。隣の郷の者も、それを指摘しなかった。


 やがて話すことがなくなった。庭を見た者がいる。膝の位置を直した者がいる。


 誰も立たなかった。


 主は文箱を開けた。包みを取り出し、膝の前で紐を解いた。


 三人の目が、書状へ集まる。


「浅井が勝ったら、所領はそのままでよいと申しておる」


 書状を弟へ渡した。


 弟は両手で受け取った。すぐに読み終わった。短いからである。そのまま、隣の郷の者へ渡した。


 最後に家人へ回った。家人は一度読み、花押のところへ目を戻した。


 偽物ではないかと訊く者はいなかった。


「・・・ほかにも配られておるのか」


 隣の郷の者が顔を上げた。


 誰も答えられない。


 誰に届いたかを知るには、訊いて回るしかない。訊けば、自分が受け取ったことを明かすことになる。


 受け取ったかと訊き、届いていないと言われれば、今度はこちらが、なぜそのようなことを訊いたのか答えねばならない。


 隣の郷の者が膝を動かした。


 手を懐へ入れる。何かを探すように、一度止まった。


 三人が、その手を見た。


 男は、懐から一通の書状を出した。


 同じ包み紙であった。


 誰も動かなかった。


 男が自分の前へ置く。主も、こちらの一通を置いた。


 二通を並べた。


 紙の大きさも、包み方も、紐も同じである。


 文面は同じではなかった。


 書いてあることは同じである。兵を出さなければ、所領はそのまま。しかし、書き出しが違う。


 一方には、この者の父の代のことに触れた一行がある。もう一方にはない。「このたびの争い」と書かれたものと、「このたびの境目の一件」と書かれたものがあった。


 主が、二通を入れ替えた。


 弟が読み比べる。隣の郷の者は、主の書状を見ている。家人は、二通の間へ顔を寄せた。


 誰も口をきかなくなった。


 同じ日に来たのでもない。この家に届いたのは三日前である。隣の郷へ届いたのは、昨日であった。


「三日前か」


 隣の郷の者が訊いた。


 主は答えなかった。


 答えなかったことが、答えになった。


 弟が二通を見た。それから、兄の顔を見る。


「殿に、申し上げるか」


 誰も、すぐには返さなかった。


 家人が書状を畳んだ。もとの折り目に合わせ、主の方へ戻す。手を離す前に、もう一度だけ花押を見た。


「・・・受け取ったと、申し上げるのか」


 弟は黙った。


 申し上げれば、受け取ったことを明かすことになる。そのうえで、なぜ今まで黙っていたのかと訊かれる。


 三日である。


 三日、黙っていた。


 隣の郷の者も、昨日から黙っている。


 ほかにも届いているとして、その者たちが黙っているのなら、最初に申し上げた者の名だけが出る。


 若殿は、後藤を討った当人である。


 誰も、そのことを口にしなかった。


 庭へ鳥が下りた。


 土の上を二歩進み、首を傾ける。部屋の中から四人が見ていることにも気づかず、もう一歩進んだ。


 それから飛んだ。


 羽音だけが残った。


 主は二通を重ねた。どちらを上にするかで、一度手が止まる。


 自分の書状を上に置いた。


 二通を文箱へ戻し、蓋を閉める。


「わしは、何もしておらぬぞ」


 三人とも、何も言わなかった。


 兵を出すとは言っていない。出さぬとも言っていない。浅井へ返事もしていない。


 書状を受け取り、三日、文箱へ入れていただけである。


 何もしていない。


 四人は、言わないまま座っていた。


 庭から日がなくなった。部屋の中が暗くなったが、誰も灯りを持ってこさせなかった。


 やがて、家人が立った。頭を下げ、部屋を出た。


 次に、隣の郷の者が立った。自分の書状を文箱から取り出し、懐へ戻す。紐を結び直す音がした。


 弟が最後まで残った。


 何かを言いかけた。言わずに立った。


 一人ずつ帰っていった。


 次にいつ集まるかという話は、出なかった。

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