6.理由なんていらない
仁威はその名の一つに温忠の両肩をつかんだ。向かい合いその目を見れば、温忠は真正の恐れに支配されていた。まるで地獄の底でひどい拷問の場に立ちあっているかのように。
仁威は温忠の肩を強く揺さぶった。
「おい、楊珪己に何があったんだ!」
それでも温忠は目もうつろに、ぶつぶつと言葉を吐き出すだけだった。
「まだ……まだ何も起こっていない。けれど時間の問題なんです。いつ王子が珪己を奪いに行くか分からない……」
「……王子?」
「イムル王子……芯国の第七王子。彼が……彼が楊珪己を求めているんです」
「芯国の王子なんぞこの国には来ていないぞ」
まだ国交が開かれて間もないというのに、王子のような高位の者が入国しているわけがない。それにもしも国民の知らぬところで極秘裏に訪れていたとしても、近衛軍第一隊隊長の仁威の耳に入らないわけがない。たしかに芯国人は調印式のために長くこの開陽に滞在していた。しかし彼らのほとんどは昨日帰国の途についたのだ。残された者はわずか、そしてその面々にも当然のごとく王子はいない。
仁威は理性でもってそう結論づけた。しかし一方、頭の片隅では無視できない大きな警報が鳴り始めていた。
仁威の頭の中、迷走していたいくつもの情報のうちの二つがぱちんと一つに繋がった。
「まさか、楊珪己を気に入ったという芯国人というのは……」
「そうです、王子です。王子が楊珪己を欲しがっているんです……!」
一国の王子が楊珪己を求めている。
それは確かに衝撃的な事実であった。
だがそれにしてはこの目の前の官吏補は恐怖しすぎている。
「なぜそこまで怯える必要がある? 大丈夫だ。楊珪己はこの国の皇族が護ってくださることになっている。たとえ他国の王子であろうと手はだせまい」
事実、珪己は今夜にも華殿に入ることになっている。
だが仁威の告げたことはこの怯える男にとってなんの気休めにもならなかった。
「そんなことは関係ないんです。王子を止めることなんて誰にもできないから。だって……王子はずっと半身を探していたから……」
「……半身?」
仁威の発したその言葉に、温忠が大きく震えた。両腕で自分自身を抱きしめる。今も顔色は悪いままだ。
「そう……半身。運命の半身。僕たちはそれをずっと信じてきたんです。どこかにいる運命の半身、運命の片割れ。それを見つけることさえできれば幸せになれると」
「なんだそれは。祈祷の類か?」
「祈祷……そう、そうですね。それは僕たちにとって祈りのようなものでした。特に王子にとってはそうでした。……王子は自分の国に居場所がなくて、でも王子として生きなくてはいけなくて、その頃ひどく荒れていたんです。……王子が言っていました。なんで自分は生きているんだって。なんでこんな辛い思いをしてまで生きているんだって……」
ぎゅっと温忠の眉がひそめられた。
「そんなとき、セツカ様が僕たちに教えてくれたんです。どんな人にでも、どこかに必ずもう一人の自分、運命の半身がいるんだって。その人を見つけ出すことさえできれば幸せになれるんだって。この辛いだけの世界から抜け出すことができるんだって……」
まるで空想の物語を聞いているかのようだ。だが温忠の様子を見れば、少なくともその言葉、いや、その言葉が引き起こしている事実に偽りがないことは仁威にもはっきりと分かった。セツカとは誰のことを言っているのかは分からない。だが彼女の言葉が楊珪己を危険な世界へと導こうとしているというのだ。
「王子はずっと探していたんです。探さなければ生きていけないから、幸福を得るためにはもう一人の自分が必要だから……。僕はさっきまで王子と会っていました。呼び出されたんです。僕は王子には逆らうことができません。王子には逆らえないんです……。お、王子に、教えてしまったんです……」
はああっと温忠が深く息を継いだ。
「珪己の住まいを、教えてしまったんです……」
瞬間、かっとなった。
仁威は掴んだままの温忠の体を思いきり揺り動かした。
「なぜ教えたっ!」
答えはもう温忠自ら述べている。だが問わずにはいられなかった。
温忠の目から、どっと涙が溢れた。
「すみませんすみません、すみません……!」
完全に委縮している温忠に、仁威は己の行為を反省しこの青年の体から手を離した。すると温忠の体はその場に力なく崩れ落ちた。支えを亡くし、もう自力では立っていることもできなかったのだ。温忠はその状態から、震えながらもなんとか体を動かし、そして仁威に向かうや頭を下げた。
「お、お願いします、珪己を助けてください……」
床に頭をこすりつけ、背を丸め、ひくひくと泣きながら声を振り絞っていく。
「僕は王子に逆らえない。だ、だけど……だけど珪己のことは助けたいんです。僕たちは……王子は、セツカ様は、こんな未来のためにいままで運命を信じてきたわけじゃないんです。ただ幸せになりたかった、それだけだったんです。本当に、ただそれだけだったんです……。セツカ様はもう亡くなられました。でも僕は、僕は……これ以上セツカ様を穢したくない……。珪己が不幸になれば、セツカ様も穢れてしまう……。お願いです、お願いです。うう、ううう……」
もはや言葉も出なくなり温忠は泣くだけとなっている。
しかし、その姿を仁威が見ていたのはわずかな時間だった。
憐れみなど時間の無駄、なんの益にもならない。
思いはすぐに定まった。
迷うことなどなく、すぐに定まった。
(俺はもう後悔したくない……!)
仁威は棚に寄ると、紙と筆、それに墨壺を取り出し一気に文をしたためた。その文を折りたたみ簡単に油紙に包む。
次に寝室に行き、枕の下に隠していた懐剣を取り出した。鞘から抜き、刃に欠けがないことを確認するや懐にしまう。
準備ができると、仁威はいまだ戸の前でうずくまり嗚咽を漏らす温忠を強引に起こした。
「おい、今は泣いているときではないぞ」
「え……?」
温忠の目が仁威の姿をとらえ、するといままで焦点を合わせることのなかったその細く垂れた瞳が意志をもって見開かれた。
仁威がうなずいた。
「ああ、俺はこれから楊珪己のところへ行く」
「信じて……くれるんですか?」
「信じるも何もない。俺はあいつを護ると決めている」
「ですが相手は王子ですよ……?」
「王子だろうが何だろうが知ったことか。あいつが不幸になると聞いて放っておくことなどできない」
そのまっすぐな声音と表情に温忠はこのような時だというのに思わず問うていた。
「あなたは……もしかして珪己のことが好きなんですか?」
仁威はやや眉をひそめた。だがすぐに言い切った。
「好きも嫌いもない。俺はあいつを護ると決めている。それが俺にとってのすべてだ」
好きだとか嫌いだとか、誰もがすぐにそういう話にして物事を進めたがる。
異性に対して何か特別なことをしてみせれば、そこに恋愛感情を探したがる。
だが仁威にとって恋愛とは何の価値もないものだった。
好きも嫌いもどうでもいい。
それよりももっと大切なことが、今、仁威にははっきりと分かっていた。
俺はあいつを護りたい。
今、あいつを護りたい。
たとえこの身のすべてを捨てることになったとしても――それでもあいつを護りたい。
あいつが俺の部下だからか。
それとも楊家の娘だからか。
そんなことも、もはやどうでもいい。
理由なんていらない。
(俺はあいつを必ず護る――!)
そのとき、外で大きな音がした。すぐ近くで落雷したのだ。
何かが破裂したようなその爆音は、まるで仁威の内面そのもののようであった。うねるような地鳴りのごとき雷鳴の名残は、闘いを前にした仁威の咆哮そのもののようであった。
心はまっすぐに楊珪己へと向かっていた。




