5.お願い、助けて
そのとき、袁仁威は自宅にいた。
昼日中にしてはめずらしく寝台に寝転がっている。
常であれば休日とはいえ仁威は休息をとらない。休日だけ平常とは異なる過ごし方をすると、翌日に調子がでないからだ。それは誰でも体験する普通の感覚ではあるが、仁威の性分はそれを良しとはできず、とはいえ上司の自分が休まずにいると部下もゆっくりと休めないので、休日は一人、室内で己の肉体をいじめ尽くすかのような単純な鍛練をすると決めている。
だが今日は寝転がり、そしてぼうっと天井を見つめていた。
一人暮らしの小さな古びた家だから、先ほどから降り始めた雨音も、そして次第に強くなっていく様も否応なく耳に入ってくる。
このような豪雨では外を出歩く者などいない。ただ打ちつける雨音だけが聞こえてくる。狭く無機質な室内は、うるさいほどの雨音だけに支配されていた。
(ああ……雨が降ってくれてよかった)
その思いがふっと胸に湧いた。
(このままずっと降り続けばいいんだ。そうすれば何も聞こえない。何も考えられない。……何も考えなくていい。ただ雨音だけがあればいい……)
楊珪己が今夜には華殿に入る。
それを知ったのは今日の昼過ぎのことだった。休日、この家に誰かが訪ねてくることなどめったにないのだが、今日はその珍しい事態が起こった。
突然の来訪者は、なんと枢密院事の呉隼平であった。隼平は昨夜の素行を詫びに来たのだった。
「すまなかった!」
そう言い、すぱっと頭を下げたのである。
高位の者からの真摯な謝罪は清々しくさえあった。だが隼平自身にそんなつもりはなくとも、昨夜の発言は仁威の内面をまさしく言い当てていた。なのでこうして謝罪されることで、仁威は逆に複雑な気分になった。そんな仁威に隼平は「ああそういえば」とその少女の近い未来を簡単に伝え、そして次の目的地へと去っていったのである。
単純明快に告げられたそれは、しかし仁威の内面をいっそう複雑にした。
だが、何を考えればいいのかが分からなかった。何から手を付ければいいのか、何に蓋をし何を真剣に考察すればいいのかが分からなくなった。それはあまりにも難解だった。
だから今、こうして無心で雨音を聞いている。そう、今は心から何もかもを失くす必要があった。重いままの心でいては週明けの任務に支障がでることは明白だ。
(こうやって何も考えないでいると……ひどく楽だ)
(こうして何も考えずにただ日々を過ごすことができればいいのにな……)
いつか自分のような人間にも、気楽で背負うもののない、安らかな日々を過ごせる時は来るのだろうか。
それともこうやって一生悩み苦しみながら生きていくしかないのだろうか。
どうしてこんな自分になってしまったのだろう……。
自分と他人、何がそこまで違うのだろうか……。
これまで自分の性質や生き方に疑問を持ったことはなかったというのに……。
(迷うということは……俺は弱くなってしまったのだろうか?)
と、仁威の耳が雨音以外のものを捉えた。一度気づけばそれは無視できるようなものではなかった。これだけの豪雨の中、激しくこの家の戸を叩く者がいるのだ。力任せに叩き続ける者が。
起き上がり、仁威は戸に向かった。近づけば、戸を打ち鳴らす者の存在を向こう側にはっきりと感じた。雨音以上の迫力には必死さも感じた。
この訪問者は明らかにここへ異常を告げにきている。
急ぎ仁威が戸を開けると、そこには濡れそぼった男が一人立っていた。
自分よりも幾分年下のその男は真っ青な顔で、その身を細かく震わせていた。一般的な庶民の服を着ているが、その手には黒玉の飾りが握られている。黒玉は――礼部所属であることの証だ。
それらすべての情報が一瞬にして仁威にこの男の正体を悟らせた。
昨日、礼部侍郎である馬祥歌が言っていた。礼部に勤めるその官吏補、芯国の言葉をよく理解しているのだという。その能力自体は海南州――芯国との境に位置する――の豪商の奉公人であった経歴からしておかしくはない。だが、男はその能力をわざと低く申請しているふしがあり、官吏補となってからもその態度を貫き通していたそうだ。
この男に疑いを持っていたと、昨日、祥歌は突如仁威に吐露したのだった。なぜ礼部に入ったのか、そこに何か深刻な意図はないのか、ずっと疑問に思っていたのだ、と。
この疑惑は中書令・柳公蘭にも報告済のことであるとも言っていた。だが問題として認識されることはなかったようだ。違和感はあるが、男の存在がこの国に何かしらの損益を与えるものでもなかったからだ。
実際、男は地道に淡々と官吏補の仕事をこなしていた。礼部の機密を探るようなまねも一切とらなかった。この春、海南州に縁の深い王美人が自死したが、その死後も休むことなく宮城に日参しているし、ためしに芯国の言葉を使う仕事を与えたところ、意趣替えしたのか、とたんにその能力を解放し嬉々として任を勤め上げた。
もはや疑い続ける必要性はどこにもない。
であればなぜ祥歌は男の素性をわざわざ仁威に話したのか。それは祥歌がまだ最後の一粒までこの男に対する疑惑の種を消しきれていないからである。
もはや直属の部下ではなくなったが、珪己を利用してこの男の本性を根本から暴こうとしていた負い目が祥歌にはあった。そう、祥歌の策によって珪己はこの官吏補との親交を深めてしまったのだ。だからせめて今後は仁威の手腕によって警戒してほしいという、あくまで念のため程度の進言だったのだ。
男は王家――王美人の生家――の推薦をもって官吏補となっている。
その男の名は――。
「……お前、張温忠か?」
名を呼ばれた途端、その男――温忠はその顔をより蒼白にし、しかし次の瞬間には、その瞳からぽろぽろと涙をこぼした。
温忠は珪己が第一隊隊長と朝夕を共にしていたことを知っていた。同じ時間帯に勤務する礼部だから、道すがら、幾度か二人が共にいる姿を見かけたことがあったのだ。やけに見目のいいその武官が第一隊隊長であることはちょっと訊きまわればすぐに分かった。
だが、二人がどのような関係なのか、どのくらい仲がいいのか、詳しいことは知らずにいた。仁威の素性を調べたのも単なる好奇心からきたものだったし、恋を知ったばかりの珪己のそばに常に特定の男がいるものだから知りたくなった。それだけのことだった。
しかし今、温忠は他に頼れる人間を思いつけなかった。珪己のために動いてくれて、しかもあの青年よりも腕の立ちそうな武芸者を――。
温忠は仁威に取りすがるや懇願した。
「助けて……助けてください」
「は?」
「お願いです、助けて……!」
そのただならぬ様子に、仁威はさっと周囲を見回し、誰の目もないことを確認するや温忠を強引に家の中へと引き入れた。
閉められた戸のそばで、温忠は口元に両手をあて嗚咽をこらえている。しかし体の震えまでは抑えることができないようで、がたがたと震えながら、かちかちと歯を鳴らしながら、視線を彷徨わせながら――それでも残る命を吐きだすかのようにその願いだけを口にし続けた。
「助けて、お願い、助けて。珪己を、王子を、セツカ様を……」




