4.命を懸けた闘い
古亥が片膝をたて腰を浮かした。
「その手を離せ……!」
言葉が通じるかどうかは分からなくても言わずにはいられなかった。
すると青年はさらにその手に力をこめてきた。
「くううう……!」
声が漏れるのはもうどうしようもない。
青年は痛みにうめく浩托をちらりと見て、それから古亥を見やった。
「先に剣を向けてきたのはこいつだ」
「……言葉が通じるのか?」
それに青年が目を細めてみせた。
「浩托う!」
残る最後の弟子が切なげに叫ぶ声が聞こえた。見れば、いつのまにやらその弟子も異国の男に捕獲されていた。もう一人の男はといえば、先ほど気絶させた少年二人をそれぞれ両脇にやすやすと抱えている。
「助けてえ……!」
乞うように手を伸ばした残る弟子もまた手刀を落とされ、がくりとその首を垂れた。人形のようにぶらぶらと揺れる細く小さな体に、浩托の両目が怒りに燃えてつり上がった。
「お前らいったい何なんだ!」
いまだ青年によって握りしめられている浩托の両手は、骨が砕かれてしまいそうなほどの激痛にある。それでも、恐怖以上の怒りが浩托を動かしている。
しかし青年はそんな浩托の激情を受け流し、ふざけているのかと思うほどの軽い口調で問うてきた。
「楊珪己はどこにいる?」
「はあ? 珪己?」
と、さらなる力で浩托の両手が絞めつけられた。
「うううっ……!」
崩れ落ちそうになる膝を、なんとか踏ん張って耐えしのぐ。
それを青年が冷めた目で見下ろし、再度問うてきた。
「質問に答えろ。楊珪己はどこにいる?」
「そんなもん答えるわけないだろうがあ!」
この状況で素直に語る馬鹿などいない。
当然の拒否に、青年がちらりと彼の二人の部下のほうを見やった。
二人の足元には気を失った三人の幼き弟子がまとめて寝かせられている。
「答えなければ、あいつらの指を一本ずつ折っていくぞ」
そのあまりにも物騒な発言に浩托が青年の顔を見ると、青年もまた浩托を見ていた。
ここでようやく浩托は気がついた。青年の虹彩が青い玉のように透き通っていることに。
ここ開陽の街では少なからぬ他国民が闊歩しているから、湖国民らしい黒の瞳との違いはそこまで驚くべきことではない。それどころかその深い青の瞳には、自然と魅入ってしまいそうな美しい力が宿っていた。だが、その瞳の奥に潜む光に、浩托は本能的に恐れを感じた。
(こいつはまじで危険なやつだ……!)
この男は言ったとおりのことを実現する。
間違いなくやってのける。
青年が芯国のものらしき言葉で何やら言うと、一人の従者が変わらぬ無表情さで足元の少年の手をとり、そして一本の指をつまんだ。
まるで小さなお菓子でもつまんだかのようなその仕草、しかし一瞬その男の腕がふくらんだ気配を感じ、浩托はとっさに叫んだ。
「珪己は俺の友だ! 友を売ることなんか俺にはできないっ!」
男の気配が静かなものに戻った。
従者二人の方は湖国の言葉を理解できないのだろうが、浩托が『答えた』という事実のみでその動作を止めたのだ。
ほっとすると、代わりに浩托の心臓がばくばくと暴れ出した。今もまだ男はその極太の指でいたいけな少年の指をつまんでいる。いつでも折り取ってその口に含んでしまいそうな、猟奇的な光景は変わらず続いている。
なぜか青年が不思議そうな面持ちで浩托を見た。
「友……か」
「そ、そうだ!」
「……ということは、お前は俺の友でもあるというわけか」
「はあ? 何を言っているんだ?」
意味不明な発言に耳を疑う間もなく、その青年は続けた。
「で、楊珪己はどこにいる?」
「え?」
青年が眉をひそめ、それに伴い少年の指をつまむ男の表情が動いた。だから浩托はあわてて答えた。
「あいつはっ、自分の家にいるはずだ!」
そこに迷う暇は一切なく、これ以上強情をはることなどできなかった。だがたとえ無限の時間が与えられたとしても、親しい友と幼い弟子、どちらをとるべきか決断できるわけがないのだが。
「いなかった。だからお前に訊いている」
やおら、古亥が立ち上がった。
「……お前ら、もしかして楊家に何かしたのか!」
今、古亥は浩托の比ではなく怒りに全身を包んでいる。
「え? どうなんだ!」
近づいてくる古亥の鬼の表情にも、やはり青年は動じることはなかった。何も答えない。答える必要がない、そう思っていることを隠そうともしない。ただ、ふっと笑った。
「何を笑っていやがる?」
「いや。お前は分かりやすいほど武官のくずだな」
青年は古亥をその青い瞳でちらりと見て、それから従者のほうを見た。それだけで理解したらしく、従者の一人が青年のそばに近寄ってきた。
「くずだと……?」
煮えたぎる怒りが古亥の老体からあふれんばかりである。
だが青年は余裕の笑みを浮かべたままだ。しかも無造作に浩托を突き飛ばした。
「うわっ……!」
よろけた体をすぐそばまで来ていた男にがっちりと掴まれる。首に片腕を回され、浩托もまたなすすべもない足手まといの弟子となってしまった。
完全に手の空いた青年は、足を止めた古亥のほうに自ら近づいていく。そしてお互い拳でぎりぎり攻撃できるかできないかの間合い、そのすぐ手前で立ち止まると、笑みを崩さぬまま繰り返した。
「そうだ、お前は武官のくずだ。人の生き死によりも己の守護するべきものにそうやって熱くなるのは、お前が中途半端な武芸者で、そして人としての心を失っているからだろう?」
それは先日、古亥が袁仁威に指摘されたことと同じであった。
だがそれ以上に辛辣だった。
「な、なにを……」
気色ばむ古亥を、上背のある青年は興味なさげに見下ろしている。
「どれだけ強くなろうとも、そのような心では折れて当然だ。くずはくずらしい一生を終えるしかない」
青年が楊武襲撃事変のことを知っているはずがない。しかし、その言い分は完全にこの老人の的をついていた。つまるところ、遅かれ早かれ古亥は心を折って武官を辞していた、そう言っているのだ。
今だってそうだ。弟子たちが次々とやられていく様子にはまだこの場を観察する冷静さがあった。しかし楊家を襲撃されたかもしれないと感じるや、一時も怒りを抑えることができなかったではないか――。
すうっと、古亥の体を取り巻いていた気が薄れていった。青年の言うとおり、折れたこの心には埋めることのできない空洞があるかのようだった。
すると青年が滑るように古亥の間合いに入ってきた。それは浩托のときと同じように、瞬きする間もないほどあっという間のことだった。
今、青年はその身にはっきりとした闘気をまとっている。面白そうに笑っていたその瞳も戦士のそれへと変貌している。彼の中のもう一つの人格が突如覚醒したかのようだった。
青年の気が古亥のぼやけた気を乱し、それによって古亥は染みついた習性によって瞬時に一歩下がった。間合いが広がった刹那、青年の拳が古亥の顔面すれすれを横切った。振りぬきざま、しゅん、と音が鳴った。
(いい音だ――)
こんなときにそんなことを思ったのは古亥に余裕があったわけではない。
(それはすなわち、こいつも相当の手練れだということだ)
この青年の従者二人のほうがよほど武芸者らしい風貌だが、一つ一つの動きから、この青年のほうこそもっともやっかいな敵だと判断できる。体は老いに逆らえずとも、頭はいまだしっかりと動いている。
(……わしがこいつを倒さなくてはならない)
それができるのは今、己しかいない。
動ける動けないは関係ない、これは己にしかできない務めだ。
(そのためにわしは今まで生きてきたんだ……!)
むくむくと気が立ち戻ってくる。自然と腰を落とし、両手で拳をつくり胸の前で構えていた。
古亥の変化に青年が目を細めた。嘲るような笑みは消え、代わりに面白い遊具を手に入れたかのように無邪気な表情に戻っている。
青年もまた、古亥にならうかのようにその両手を胸の前で構えた。
二人の動きがとまり、束の間静寂が生じた。
ばらばらと天井を打つ大粒の雨が、さらに天候が悪化していることを感じさせる。だが、外の様子などよりも、今、この二人の間で放たれる気の行方のほうがよほど重大なことだった。たとえるなら、一匹の龍と一匹の虎が双方にらみ合っているかのようだった。どちらがどちらかは分からない。だが、二人はそれぞれまったく別の気を放っていた。
――その時。
雷が空を走った。
どおん……!!
この季節の変わり目の、長雨の初日に雷が鳴るとは珍しい。よほど近くに落ちたのか、道場内であるにもかかわらず、その重低音が腹の奥底にまで響いた。
それでもにらみ合う二人に変化はない。お互いを見据え、構えたままの姿勢を維持している。その目、その動き、そのまとう気で、二人は対する相手が相当の強者であることを再認識している。そのため、初手によってこの勝負は決すると二人は考えている。それゆえ、今この時こそが最大の山場であった。
浩托は大男の腕にがっちりと拘束されながら、遠くにいまだ轟く雷鳴の残滓を感じながら――しかしこの二人から目をそらせないでいた。
(師匠が元武官だって……?)
(こんな強そうな奴らに師匠が勝てるのか?)
(こいつら一体何者なんだ……?)
頭の中は混乱している。先ほどから分からないことばかりが起こっている。いつもの休日、のんきな昼間の稽古だったはずなのに――。
つい先ほどまで、この道場にはちび達がいてわいわいと騒いでいた。誰もが穏やかに稽古を楽しんでいた。きちんと砥がれていないなまくらの長剣をぶんぶんと振り回して、しかし誰もが命を奪いあうことなど考えてはいなかった。
だが、今この場で始まってしまった闘いは、まごうことなき命を懸けた闘いであった。




