3.悪夢のはじまり
寝転がり上を向いている半身側にあまり熱を感じなくなってきた。いつも以上に湿り気を帯びた空気が、匂いが、これから雨が降ることを予測させる。最近、だいぶ陽気がよかった。このようなときに半月ほどの長雨が続くと、季節は春から夏に移る。そのきっかけとなる雨が、これから降ろうとしているようだ。
生徒らも天候の変化に気づいたようだ。
「やばい、雨が降るぞ」
「俺もう帰る!」
そんな声があがり、稽古が一時中断される。
「そんじゃ、帰りたいやつは帰って、まだやれるやつはもうちょっと続けるぞ!」
浩托の言葉に、各々が好きな選択をしていった。しかし声の大きい一人が「雨が本格的に降る前に帰ろうぜ」と言ったのを皮きりに、残ろうとした生徒の大半もまた帰ってしまった。まだ年若い彼らは根が単純なのだ。
(……ふん。これが武官であれば、雨が降ろうと何があろうと稽古をやめるなんぞ口が裂けても言わんぞ)
心の中で毒づきながら、古亥は重たくなってきた瞼に逆らうことをしなかった。このまま寝て、愛弟子が来るまでの退屈な時間をつぶすとしよう、と。
*
しとしとと降る雨の気配ではなく、雨粒が軒に跳ねる清らかな高い音ではなく、古亥は久方ぶりに感じた戦慄によってその両目をかっと見開いた。
やおら起き上がり振り向くと、その気配にそばにいた少年が「うわっ」と声をあげて後方によろけた。
「もう! 驚かさないでくださいよ! ……って、師匠?」
稽古場にはまだ三人の少年と浩托がいた。少年らは床を掃き清めていたようで、古亥に驚いた少年もその手に雑巾を握りしめている。
「師匠? どうかしましたか?」
浩托がははっと笑い声をあげた。
「お、師匠。ようやく起きましたんですね。もう外はすっかり雨ですよ」
と、浩托が背を向けていた開けっ放しの扉のほうに視線をやり、かつ古亥が先ほどから凝視しているそこに人影が生じた。古亥の顔が険しくなったことに気づき、残る三人の少年もまたゆっくりとそちらを見た。
それが悪夢のはじまりだった。
*
突如現れたのは背の高い三人の男だった。
左右の男は目をむくほどに筋骨隆々としている。二人の間に立つ青年も細身ながら良い体格を有しているが、左右の二人の異様さは毒々しいほどだ。そのような二人をこの中央に立つ青年が従えていることからして、彼ら全員、明らかに只者ではないことがうかがえる。
無言で左の男が扉を閉めた。
「おいお前、何するんだ」
気色ばみ浩托が近寄ろうとしたその時、
「近づいてはならんっ……!」
道場内に古亥の一喝が響いた。ついぞ聞いた覚えのないその声量、またその命じ慣れた低い声音に、浩托の体が条件反射のごとく静止した。
中央に立つ青年がにやりと笑った。
そのまま、笑いを含んだままの目で奥の方にいまだ座る古亥を見やる。古亥はその青年とは間逆の色で視線を返す。
二人はお互いを注視し、お互いの力量を測っている。
しかし、かたや若さ溢れる青年、かたや齢七十近い老骨の剣士――どちらが優勢でどちらが劣勢であるかなど、浩托にも少年たちにもありありと分かってしまった。しかもこの青年は一人ではない。左右に従える男共がいるのだ。
眼光鋭く青年を睨む古亥は、気づけば丹田で呼吸を始めている。それはいつでも戦える状態に入ったことを意味している。じわじわと確実に気が練られ、古亥の周囲に色濃く漂いだしている。そんな老剣士の様子を青年は恐れることなくただ興味深そうに見やっている。
ふうう、と古亥が細く長く息を吐いた。
「……まさか道場やぶりではないだろうな」
そんな何の益もない時代錯誤なことをする輩はもう湖国にはいない。が、分かっていて敢えて尋ねている。
三人は明らかに湖国民ではなかった。体格、骨格、風貌、衣裳、髪形、すべてが彼らの正体が異国民だと物語っている。分かることといえば、その逞しい体躯から、左右に立つ二人の男が相当の強者だということくらいだ。いや、実際はそれだけではない。古亥だけでなく浩托ですら感じていた。三人からはっきりとした闘気を感じられるのだ。闘うために彼らはここに来ている。ここには十代の少年と老人しかいないというのに、だ。
「その装飾類……芯国の者か。なぜここに来た」
古亥は長い軍歴において、湖国内のみならず諸外国も幾度か訪れている。芯国には若かりし頃秘密裏に潜入し、軍事の状況についてつぶさに調べ枢密院に報告した実績もある。
だが、古亥の言葉にも彼らは何の反応も見せなかった。左右の男は無表情に、中央に立つその青年は今も何やら含んだような笑みを浮かべている。それが奇怪な印象を与えた。
その時、ざああっと外から大きな音がし、続いて屋根や軒に大粒の雨が当たる衝撃音が響きはじめた。雨が激しさを増したのだ。今、小窓一つですら外部に対して開放されていないこの密室で、雨音だけが外の様子と繋がっていた。
「うわあああん!」
突如、一人の少年が泣きだした。まだ十歳になったばかりのそのもっとも幼い少年は、この闖入者の登場にずっと動くことすらできなかったのだが、激しい雨音に意識が現実に戻され、その結果恐怖することを思い出してしまったのである。
一人が泣きだしたことで、伝染するように残る二人の少年たちも泣きだした。ずっと我慢していたし、もはや限界だったのだ。うわああん、うわああん、と、甲高い泣き声が響く。まだ長剣を持って日が浅い彼らには、この異国民の放つ気はただただ恐ろしかった。
と、左右に立つ異国民二人が動いた。
それぞれが一人ずつ子兎のごとき少年を捕まえ、口を塞いでいく。
体術を習ったことのない少年たちは、突如迫りくる大の男になすすべもなかった。
泣きながら口を塞がれたことで苦しそうに咳き込む。
が、攻撃者らは容赦することなく、逆らう子猫をあしらうように軽々とその首に手刀を打ちこんだ。
ほとんど同時に打たれた二人の少年は、大きくごほっと咳込み、ついで目を回してその場に崩れ落ちた。
あっという間の所業に、残る一人の少年が泣き止み、ひいいっと声をあげた。
浩托は両の拳を握りしめ、それにより、右手にまだ握っていた長剣に気づいた。この場で唯一、浩托だけが武器を手に持っていた。
浩托はその剣を胸の前にあげ、そして強く握った。
「てめえら、俺の弟子に何をしやがる!」
だが相手の誰一人として何の反応も示さなかった。
それが余計に浩托を激高させた。
「お前ら、ただですむと思うなよ!」
「……っ、よせ!」
浩托が長剣を構えたのと、古亥が再度警告を発したのはほぼ同時だった。そして彼らとほぼ同時に動いた者がいた。――中央に立っていた青年だ。
それは俊敏で滑らかな動作だった。すり足での歩み出しには重心の移動すら感じさせない。ぶれることなく真っ直ぐに、音もなく青年は一気に浩托の間合いへと入りこんだ。
構えをとり両手で柄を握り直したと思ったら、切先近くにまで侵入者が近づいており、浩托の体が驚きによって一瞬固まった。
その青年は目を細め不敵に笑いつつ――そこから加速度をつけてさらに浩托との距離を縮めてきた。そしてその細身と対極的な大きな手を浩托の柄を持つ手の上に重ねるや――。
ぎゅううっときつく握った。
やわな果物であればその瞬間に原型を失っているであろう凶暴な握力に、浩托の両手から剣が滑り落ちた。
「うああああ……!」
予想だにしない痛みに、我慢できず声が漏れる。
だが青年はいまだ浩托の両の手を握り続けている。粘着質に、ぎりぎりと、変わらぬ力で。鋼の板で挟むかのような馬鹿力だ。
そして当の青年は今も不敵にほほ笑んでいた。青年の肩や腕の様子を見れば、彼が本気ではないことは明らかだ。実際、半分の力も出していない。そして青年の表情はこの道場に入ったときと何ら変わりがなかった。見かけはただの青年、異国人ではあるもののどこにでもいそうな普通の青年だというのに――。
(こいつ、すげえ戦い慣れている……!)
それでも浩托はその青年を睨みつけた。
まだ心は折れていない。




