2.闇にさまよう老剣士
「ねえ師匠! 鄭師匠! ちょっとは稽古をつけてよ!」
「やだね。わしじゃなくて浩托にやってもらえ」
ここは楊家隣の道場、それまで浩托の指示どおり無駄口一つたたかず稽古に集中していた少年たちは、久方ぶりにやってきた老師・鄭古亥に気づくや、浩托の静止をものともせずにこの本物の師匠をわっと取り囲んだ。
しかし当の師匠はすげないもので、いつものごとく弟子たちの要求を断るや、奥のほうに無遠慮に寝転がってしまった。そこは気持ちのいい日差しが入る、古亥の昼寝の定位置なのだ。今日も稽古をつける気はさらさらないようである。
少年たちが一斉に不満げな顔になった。
「浩托と稽古するのはもう飽きたよ!」
「何をぬかす。そんな馬鹿な口をたたく暇があったら、浩托に一度でも勝ってみろってんだ」
一人の少年が言った。
「じゃあ、なんで師匠は道場に来るんだよお!」
わずかな間をおいて、古亥は壁のほうに寝返りをうち、その背を少年たちに向けた。
「ここで昼寝をすると寿命が延びるような気がするんでな。うわっはっは」
「なんだよそれー!」
まあでも仕方ないか、それが師匠だもん。そんな声がすぐにあがり、古亥への追及はすぐにやんだ。「じゃあ浩托にやってもらうか」「仕方ない、浩托でがまんするか」と言いながら、少年たちが元いた場所へと戻っていく。「よおし、続きやるぞ!」と離れたところで浩托の掛け声があがり、少年たちがそれに大声で答える。元気と明るさだけがとりえの無垢な声だ。
古亥は半分目を閉じた状態で、それでも弟子たちの発する声、振るう長剣の音をなんとはなしに聞いた。今日のこの時間帯、中級寄りの腕を持つものだけを集めて長剣の稽古をしている。まだここにいる弟子たちは刃のついた武器に恐れを感じており、今は長剣に慣れるまでの過程にあった。ある程度度胸がついた者から、実際に長剣で物を斬る練習へと移行する。使うのはたいてい巻き藁だ。刃こぼれしにくく、斬った感触がほどよく人体の肉に近いのがいい。それに安い。遠慮なく斬り込む稽古ができる。
(しかし、まだまだ当分はだめだな)
古亥は背の向こうの音からそう判断した。きちんと剣をふるえば、気持ちいいほどにすうっと刃が空の中を動き、風を斬り、その軌道にそってぶれのない音が鳴るものだ。だが浩托以外は誰もが成功していない。たまに鳴ることもあるが、短く途切れたり、わんわんと変動している。もっと刃筋をたてて剣をふるえるようにならなければ、巻き藁を切断することなどできない。それでも無理に斬ろうとすれば、その音のとおり、刃が当たった部分が震え、そこだけがこそげて醜くよじれるだけだ。
しかしそれでは駄目なのだ。少なくとも、二回に一回は巻き藁を切断できるくらいの刃筋を身に着けるまで、このにわか剣士たちには黙って剣をふるってもらうしかない。
いつでも、どこでも、同じように剣をふるえなくてはならないから。
戦いに勝つためには、いつでも同じ業をふるえなくてはならないから。
その考えに、しかし古亥は一人苦笑した。
(……あほらしい。あいつらにとっての武芸とはただの嗜みでしかないというのに)
が、そうではない弟子が古亥にもただ一人いる。
古亥は今日、その少女に会うためだけにここに来ていた。今朝、自宅をたずねてきた浩托から話を聞き、旅立つ前に一度会っておきたいと思ったのだ。
最後に会ったとき、その少女は武芸を続けるために打ち勝つべき壁と必死で向き合っていた。一人黙々と夜遅くまで稽古をしていた。それを知っていながら、しかし古亥は直接何かを指導することもせず今日まで放置してきた。
浩托から「珪己は調子が戻ってきたみたいですよ」と聞き、思わず安堵し、それでようやく古亥はこれまで何もしなかった自分に罪悪感を持っていたことに気づいたのである――。
古亥は八年前の楊武襲撃事変においてほとんどの部下を失っている。
自分自身の手で殺めたのだ。
そして、部下たちにそのような行動をとらせてしまった責任もまた自分にあった。
近衛軍将軍であった時代、そしてそれ以前の階級にあった時代でも、部下と酒楼に行くと決まって出てくる話題の一つが『武官の待遇が悪いのが我慢ならない』ことだった。それは派生して『文官が偉そうで腹がたつ』に結論づき、悪態をついて憂さを晴らすのが常であった。確かに給料一つとっても武官は据え置かれ、文官は年々増額されていた。そういった情報は公表されなくとも、同じ街に暮らしていれば自然と耳に入るものなのだ。利用する酒楼の格一つでもあきらかとなる。
すれ違う市井の民から向けられる目も、文官と武官でまるきり違う。その衣の色で自分がどちら側にいるのかを民衆に明示しなくてはならない。それは武官にとって非情な強制でもあった。武官の最上級の勲章ともいえる近衛軍所属であることなど、自慢のたねにもならなかった。湖国はすでにそういう時代に突入していた。
そういうとき、古亥はたいてい部下に同調してやった。そうすると部下はみな喜び機嫌がよくなった。すると古亥もうれしくなった。特定の顔のない『文官』をこきおろすことで、隊員が一体となれる感覚は悪くなかった。たとえば過酷な稽古の合間、「わしら武官のすごいところを文官のやつらに見せつけてやるぞ!」と鼓舞すれば、部下の気力は簡単に復活した。
だが、簡単に利用できる特効薬が無害なわけがなかったのだ。
じわじわ、じわじわとその毒は近衛軍全体に回っていった。特に稽古が厳しいことで有名な第一隊は余暇を体を休めるために使う者がほとんどで、それはつまり、起床時間のすべてを第一隊に捧げ、同じ隊の者以外との交流がない生活を意味していた。
同じような顔ぶれで同じようなことを話し続け、不満の矛先が一つに定まり、次第に発言が過激になっていった。
そしてとうとう――それが現実的な攻撃を引き起こした。
部下の犯行は、その動機の源にいた上司、古亥自らが問答無用で押さえつけた。だが部下をそこまで焚き付け燃え上がらせた一因は間違いなく古亥自身にあった。
事変後、生きる道を失っていた古亥は、当時の枢密副使であり事変最大の被害者ともいえる楊玄徳の計らいにより、今はこうして楊家隣で道場を構えている。そして玄徳の娘、珪己を、少女の望むとおり武芸者へと育てた。
が、数年前のこと――。
珪己がふるった木刀のその切先から澄んだ長音が響いたあの日、珪己は満面の笑みを浮かべ、古亥は経験したことのない恐怖に震えた。
古亥は珪己に気づかれぬようそっとその場を離れ、外へ出て、そして庭の隅でその年老いた体をさらに縮めてうずくまった。その日は曇天で、灰色の空からふわふと綿のような雪が舞っていた。だが古亥は天候のせいではなく寒さに震え、なのに汗でびっしょりになっていた。
それまでも、この道場から幾人もの弟子たちに長剣を持たせてきた。だが、この少女が長剣をふるう資格を有したという事実は、なぜかそのとき古亥をひどく狼狽させたのだった。
怖かった。ただ武芸が好きで強くなりたいと願って稽古を続けてきたこの弟子に、人を殺す方法を教えるということが怖かった。しかも男ではない、女だ。しかも楊玄徳の娘なのだ。これだけ幾重もの複雑な条件を有する弟子を、古亥はこれ以上育成する自信が全くなくなっていた。
武芸者とはなにか。
どのようなときに人を殺していいのか。
人を殺すために自分がどのような人間である必要があるのか。
逃げてもいい戦いと、逃げてはいけない戦い、この二つをどう見極めるべきか。
――真の武芸者とはなにか。
怖くて怖くてたまらなくなった。
それでも楊家のために、楊家を護ると誓った己のために、道場には通い続けた。ただそこにいるだけでもそれは血反吐をはくほどの重圧だったが、古亥の心はそれでも逃げたくないと訴えた。自宅で、寝所で掛布にくるまり独り震えているとき、このまま死んでしまうのかと思うときがたびたびあった。だが、絶対にこのまま死にたくないと思った。心を病んで死ぬなど、武芸者であればまっぴらな最期。死ぬのであれば、剣を持って戦って死にたい……。
だがある朝――目の前に何かがよぎった。
なんだろうと手を伸ばし、しかしその手は空を切っただけだった。見えない何かが視界に入るという現象は、それから続き、いつしか頻繁となり――今、古亥はもはや現役時の半分も目が見えなくなっている。老化のせいだといえばそうだろうが、それは古亥の願う崇高な死に方がかなわないことを示唆していた。
もう二度と真剣勝負はできない。そう思ったら、もはや道場に通うことすら辛くなった。道場に来る生徒は誰もが年若く、輝く笑顔は彼らの未来そのものだった。古亥が失ったものすべてがそこにあった。それらを見るのが辛くて仕方がなかった。
だから古亥がこうして道場に来るのは久しぶりのことだった。




