1.浮かれて、沈む
宴も終わり、呉隼平と高良季は鏡楼からそそくさと退出しようとしていた。この場の招待者で最下位の者がいつまでも長居する必要などない。
と、その二人の肩が誰かにつかまれた。振り向くとそこには彼らの上司、李侑生がいた。
「どうだ、これからどこかで飲まないか。約束していただろう?」
約束――。
そう、それは、侑生が二人に対して話すことをまとめることができたら、話したくなったら――ともに酒をくみかわそうという約束である。
確かに明日は実務を担う近衛軍は多忙であろうが、彼らへの指示を済ませた枢密院では特段やることはない。が、いささか急すぎるようにも思えた。
しかし彼らの上司はといえば、その表情はやけにさっぱりとして晴れやかである。先ほどまで悲壮な面持ちでいた男と同一人物とは思えないほどに。
「お、おう。そうだな。よし、それじゃあどこかで飲み直すか。実はあんまり飲んだ気がしなくてさ」
少し戸惑いをみせる隼平の胸の内には、先ほど玄徳にこの上司の秘密を暴露した負い目があるからだ。若干目が泳いでもいる。だが当の侑生はそんな隼平の様子には気づいていないようで、「今日は私がおごるからいくらでも飲んでいいぞ」と、かなりの上機嫌である。
状況が理解できないままに隼平と良季が侑生に連れられて鏡楼から出た――その時。三人の前にさっと一人の武官が立ちふさがった。
枢密副使と枢密院事の彼らに対するには不作法なその態度、隼平と良季の顔がとたんに険しくなったのも当然だ。今まで華やかな宴に出ていたとは思えないほど、彼らの顔は官吏のそれになっている。
「袁仁威。貴様、その態度は何だ」
咎める良季に、しかし仁威は恐れることなく二人の部下の後ろに立つ侑生へとその顔を向けた。
「二人で話せますか。火急の件があります」
「なんだと? 俺たちがいたら話せないっていうのか!」
いきり立ち突進しかねない隼平の肩を侑生が押さえた。
「いやいい。袁仁威、ついて来い。呉隼平、高良季。二人は周囲を見ていてくれ」
命令され、二人は不満気な顔ながらも承諾した。
侑生と仁威は鏡楼から少し離れた外壁のそば、木陰の裏へと入っていく。その手前で隼平と良季は立ち止まり二人に背を向けると、世間話でもするかのような顔つきで、これより先へ何人も立ち入らないようにひそかに監視を開始した。
二人きりとなり、侑生はあらためて仁威に向き直り、その顔色がやけに悪いことにようやく気づいた。夜の、しかもここが木陰であることが原因ではなく。
「どうしたんだ。何があった?」
「……お前が知っているのかどうか、まずは確認したかった。大事にすべきことなのかどうかも分からなかったから」
その声にもいつものような覇気がない。
対する侑生のほうはそれとは真逆の状態だった。
実は――今夜のうちに隼平と良季に、己のすべてを、ありのままを伝えようと決心していた。すべてとはつまり、この初春の後宮での一件、恋心の詳細、それに八年前の事変についてである。
なぜ枢密院の官吏となったのか、なぜ玄徳を敬愛し服従するのか、なぜあの少女に恋心を抱くのか。自分を形作る要素すべてについて、侑生は二人の部下に語ろうと決意していたのである。
そして明日、珪己が官吏補としての仕事を終えたら、即座に会いに行こうとも決めていた。
会ったら何から言おうか。
まずはあの晩のことをわびるべきか、それともこの気持ちを真っ先に伝えるべきか。
いや、何か言う前に抱きしめてしまうかもしれない。
あの夜以来に愛しい人のぬくもりを感じたい。
ああだが、やはり彼女に触れるのは、触れていいと本人から許可を得てからにすべきだろう……。
珪己から拒絶される心配は微塵もない。なぜだろう、不思議だ。やはり玄徳のゆるしを得たことが大きいのだろうか。絶対的存在である玄徳がゆるすのだ、あとは自分自身がどこまでやりきるかによる。
今、侑生は己の意志の強さを信じていた。
だってそうではないか。あの玄徳が自分を認めてくれたのだ。自分さえあきらめることがなければ、この恋はきっとかなう。そう侑生は強く信じていた。
だから仁威の口から「楊珪己が連れていかれた」と聞いたときは、まったく何のことか分からず、思わずもう一度尋ねていた。すると、仁威は惑わせていた瞳を侑生に向け、冷静に、しかし語気荒く語った。
「楊珪己が華殿へと連れていかれた。皇族付の侍従とだ。何が起こっているんだ……!」
目の前が真っ暗になった。




