5.絶望への序曲
やがてイムルは自国に戻った。だが物心ついたときから抱えていた熱――王子として生きるという情熱――は冷めやり、最低限の責務しか果たさなくなった。『堕落した王子』という烙印が押され、その名のとおり、暇をみつけてはふらふらと国内を放浪するようになった。
そして今に至るまで、イムルは常に運命の欠如に苛まれ、抱える劣情にその心を燃やして生きてきた。そんな彼が芯国人らしく武芸を究めることにのみ心血を注いだのは、剣を持つときだけは己の内の炎が鎮まるからだった。稽古相手をなぎ倒し「自分は強い」と感じたときだけ、彼はその身と心を休めることができたのである。
半身を得なくてはこの辛く悲しい世界から抜け出すことはできない。
であれば半身を見つけられていない現状とは、セツカの運命論の信者にとっては生きたまま見る地獄に他ならない。
イムルは他に信じるものがなかった。信じたいと思えるものがなかった。セツカの言葉を信じなくては生きていけなかった。――だから生き続けるためには旅を続けるしかなかったのである。そして今も、イムルは生きることをあきらめてはいない。
その点、温忠はイムルよりも単純だった。大人びたこの少女に心酔した結果、いつしかあこがれが初恋へと変わっていた。それは自然なことで、だからこそ運命と呼ぶにふさわしい愛だった。温忠にとっての半身は、彼に運命を説いた少女しかいなかったのである。
だが当の少女はといえば、この幼馴染の温忠ではなく、与えられた夫に対して運命の人だと直感してしまった。まだその顔すら見たこともなかったというのに、夫となる彼が趙英龍という名で三代皇帝に即位したばかりだということしか知らなかったというのに――。
セツカは温忠を置いて開陽へと去っていった。しかしセツカはその半身によって裏切られ、愛を語る時間どころか一目会う機会すら与えられない不運の半生を過ごすはめになった。そしてつい先日、その少女――もはや少女と呼べない齢であったが――は自らその人生に幕を閉じたのである。
(ああ……でもセツカ様の信じたことは僕の中にも、イムル様の中にも生き続けている……)
温忠がイムルとこうして再会するのは、その幼少以来のこと、別れは十年以上も昔のことだ。だが言葉を交わし視線を交えれば、この王子が今も自分と同様に亡き少女の教えに従って生きていることがはっきりと分かった。それこそが彼女がこの世に生きた証ともいえる。
だとすれば、この王子の願いをかなえてやりたいとも思う。彼女が生存した証をこの世にはっきりと刻みたい……。
だが今の温忠は恋と説法に盲目な信者ではなかった。
少しでもセツカの近くにいたいと、長年勤めた店を辞め、勉学に励み、ようやく礼部の官吏補として宮城に入ることができるようになったのはまだ一年前のこと。しかし働いてみると、ここでの仕事はどれも温忠を夢中にさせた。がむしゃらに仕事に没頭し――気づけば、あれほど己を悩ませていたセツカへの恋心が、淡く記憶の底へと沈んでいることがある。
今も夢で彼女に会えばひどく切ない。
今も彼女に恋している。
運命の半身はこの世にいる。
たとえ想いが通じなくてもその人はいる。
その半身こそはセツカ――。
それはまごうことなき事実だった。
できれば運命の半身と想いを通じ合わせたい。それは当然の欲求だ。人は誰だって際限なく幸せになりたいものだ。だがそれを一方に強要することは間違っている。いまだにセツカから与えてもらった芯国風の名前を一人大事に噛みしめているものの、温忠はそう悟れるほどにはなっていた。
それに運命論を唱えたセツカ自身が叶えられなかった願いを、信者ごときが望めるわけがない。さらに言えば、一方の願いを叶えるためにもう一方の願いを棄却する権利などあるわけがないのだ。
イムルの願いはもう一方の願いとは相反していることを温忠は知っていた。だから、イムルは久方ぶりに会ったこの運命論の同志に対して一つの事実を伝えなくてはならなかった。
「楊珪己には好きな人がいるんです」
「それは誰だ? 俺よりもすごい奴か?」
まったく障害にならないとイムルは思っているようだった。その自信は唯一の幸福をこの手に掴む寸前にある人生の覇者たる所以か。だが、
「……黒太子です。皇帝陛下の異母弟である趙龍崇様です」
その名を聞いたとたんイムルの表情が変わった。その極端さに、黙ってその場を見守っていたアソヤクがからからと笑った。
「いやはや。王子ともあろうお方が、すっかりいいように踊らされましたな」
心底面白い余興を見たかのように笑うアソヤクに、イムルは眉をひそめしばらくむっとしていた。ただの片恋に何を言い出すのかと、温忠が内心はらはらとしていると、ちっと舌打ちをするやイムルが豪快に立ち上がった。そして憤怒冷めやらぬ声で怒鳴った。
「……もういい! おい、酒を持ってこい!」
温忠は正直ほっとした。王子自らあきらめてくれるのであれば、それが一番だ。
しかし命令され退こうとする侍従をアソヤクが一寸呼び止めた。そして王子に問うた。
「女はいらないのですか? 今からでもお呼びしますよ」
しかしイムルは毅然とした表情で振り返った。
「女はいらん」
「……まさかまだあきらめないのですか? さすがに今回は分が悪いかと。それにまだその楽士が王子のいう半身とはかぎらないではないですか」
呆れ顔のアソヤクに、しかしイムルは言い切った。
「いいや、俺は必ずあの女を奪う。俺はあいつを国に連れ帰り俺の城に入れる。あの女が俺の半身であるか否か、検証はそれからでもいい」
「……なんですかそれは」
「うるさい。これはもう決定事項だ。今夜はひとまず奴にあの女を貸してやるが二度はない」
「はあ。そうですか」
「今宵の酒は俺の勝利の前祝いだ」
そう言うやイムルは豪快に笑い出した。
そんなイムルに頭を垂れ、温忠は青ざめた顔を隠すので精いっぱいであった。
イムルにとっての運命に導かれた歓喜とは――同僚の少女にとっての絶望への序曲にしか思えなかったのである。




