2.舞台はできあがりつつある
楊珪己は一度皇帝の寝所に招かれたことがある。
とはいうものの、やはりこのような場には慣れない。
それもそのはず、今いるこの場所も立派な皇族男性――趙龍崇の寝所なのだ。この場に招かれて平静でいられる人間などいるだろうか。
しかし今、珪己の心中にあるのは、誰もが想像するような恐れではなかった。これから始まるであろう卑猥な行為すら想像していない。招かれたことへの感謝も喜びもない。その証拠に、侍従の声掛けの後に開かれた扉の奥、近頃よく会う二人の皇族の青年の姿を認めると、ふつふつと煮えたぎっていた珪己の怒りは一気に爆発した。
「龍崇様! いたずらがすぎるんじゃないですかっ!」
やおら立ち上がり、両こぶしを握り締め怒りに震える少女――。
対する皇族の二人、英龍と龍崇はそれを見るや、一拍おいて腹を抱えて笑い出した。
「はははっ。崇、本当に楊珪己は怒っているな」
「でしょう? 私の言ったとおりです」
なんのことか分からないまま二人に笑われ続け、珪己は怒りの持っていき場をなくしあっけにとられた。しかしいつまでたっても笑うことをやめようとしない二人に、珪己はまた別の怒りにとらわれていき、思わず怒鳴ってしまった。
「……もういい加減にしてくださーい!」
気づいてあわてて自分の口をその両手で押さえても、時すでに遅し。
しかしこの皇族二人、珪己の怒声に一瞬笑いを止めたものの、余計に彼らの笑いのつぼに入っただけのことだった。しばらくの間、室内は笑いで満たされ続けた。この部屋でこのように愉快な笑い声が満ちるのは、龍崇がその名を与えられてから初めてのことだった。
*
ようやく笑いが収まったところで、三人は仲良く一つの円卓を囲んでお茶を飲んでいる。お茶を入れたのは龍崇で、「笑ってごめんね」と言いながら、しかしまったく反省していない様子で三人分のお茶を用意した。
珪己は二人を見比べ、そして盛大に眉をひそめた。
「で、なぜ私をここへ呼んだんですか」
「なぜだと思う?」
龍崇のからかうような声音に、珪己がはっとした顔をした。
「……まさか、この格好を笑いたくて?」
珪己は思わず両手で顔を隠した。
二人が自分を正当な理由を持って寝所に招くわけがない。そして先ほど二人に思いきり笑われたばかりだ。となればそこに理由は行きつく。
珪己は耳まで赤くなる自分を感じ、それすらも恥ずかしくていたたまれなくなっていった。
「ひどい、ひどすぎます……。私だって、この恰好が似合っていないことくらい分かってるのに……」
乙女の矜持を真っ向から傷つけられた。
と、震えるその両手に誰かがそっと触り、そしてゆっくりと顔の前から取り外された。
それは英龍によるものだった。
隠されていたその手の奥にあったのは涙目になった潤んだ瞳と、化粧のせいではなく染められた頬だった。それを見て英龍は申し訳ないと思いつつもなぜかうれしくなった。何から言えばいいかと一寸迷い、こう言った。
「隠す必要はない。そなたは美しい。笑うことなどない」
まっすぐに珪己の瞳を見つめ、嘘偽りのない気持ちで。
と、珪己の頬がこれまで以上に真っ赤に染まっていった。おや、何か間違えたかと英龍が龍崇のほうをちらりと見ると、龍崇はその目を軽く見開いて、次に小さくうなずいてみせた。つまり、何も間違ったことはしていないということだ。
ふと見れば、握りしめたその両手の指先まで赤く染まっている。英龍はあわててその手を離した。
「すまぬ、痛かったか? どうも余は力加減がうまくいかないようだ」
「いえ、その……大丈夫です」
おろおろとする英龍、そしてもじもじとする珪己を見て、この二人が思った以上に親密であることに龍崇は気がついた。
皇帝が臣下に気安く触れ、臣下がそれに恐れを感じていない。
英龍に対してこのようにふるまえる女人は、淑妃である胡麗と娘の菊花しかいなかった。だがそこに新たにこの少女が加わったということになる。
(……そういえば我らが室に入ってから楊珪己は一度も礼をとっていないな)
そしてそのことを皇帝である英龍が不服に思っていない。
確かに、珪己は龍崇に対して礼をとらない。それだけでも十分不敬だ。しかしそれ以上に、この皇帝に対して同じようにふるまえるかというとそれはまったく違う。龍崇と英龍、その間には幾重もの壁があるのだ。そう、この黒の装いと目にも眩しい黄袍ほどに違うのである。
(これはすでに舞台ができあがりつつあるのか?)
主演の二人を今後どう導くか思案していたものの、すでにいくつかの段階は彼らにとっては不要のようだ。あらためて終幕までの構成を見直すべきか、と二人の様子を黙って観察していると、扉の向こうに侍従がやってくる気配がした。「黒太子」と呼ばれ、二人を置いて扉を開けると、そこには先ほどの自身の側近がいた。ただ、その表情にやや狼狽が見られる。
小声で尋ねる。
「どうした?」
「李枢密副使がおいでです」
「……何用と言っている?」
「理由は申しません。ただ、『枢密副使の李侑生がお会いしたい』と伝えるよう言われました」
「ふむ……分かった」
「どういたしましょう」
「どこか別室にて待たせろ。まだこちらの用件は終わっていない、そう伝えるように」
「かしこまりました」
あらためて扉を閉めて龍崇が二人の方に振り向くと、そこにはすでになごやかな空気が満ちていた。お茶を飲み、語らい、時折目が合うとどちらからともなく笑みを浮かべ――そんな親しみを覚えた者同士にしか作り出せない真正の喜びにこの二人の男女は包まれていた。
ふと龍崇は寂しさを感じた。自分という存在がなくても、二人は今この時を共有し楽しむことができていることに。それは龍崇が望む未来のだいぶ手前の状態ではあったが、こうして二人の笑みを、その視線の奥にちらちらと見える恋に育ちかけた親愛の芽を認めると、力任せに踏みつけてしまいたい衝動にかられた。
そんな自分に気づき、龍崇は胸の前でぎゅっとその拳を握った。
数回息を継いで心を落ち着ける。そう、龍崇の生きる世界では、心を制御することは生存するための絶対条件なのだ。
近づくと、二人はその笑顔のまま龍崇に振り向いた。それが余計に龍崇の心をきりきりと痛めた。ただ、それすらも龍崇は意志の力をもって無効とした。
「何かあったか?」
英龍に問われ、龍崇は「いいえ」と答えた。すべてを語る必要はない、そう言ったのは英龍のほうだ。そして元いた席に腰を降ろすと、二人の顔を交互に見やり、「ではそろそろ本題に入りますか」と告げた。
「本題?」
「どういうことですか?」
案の定、この異母兄と少女は何も分かっていない。龍崇は大きくため息をついた。




