(一)太郎でもセバスでもない
◆ 見回りは仕事
シジミは散歩をしていた。
いつも通る道である。
家を出て、低い塀の横を歩き、角にある植木鉢の匂いを確認する。
その先の空き地を横切り、日当たりのよい石の上で少し休む。
気が向けば、さらに先まで行く。
気が向かなければ、そこで引き返す。
散歩とは、その日の様子を確認するためのものだ。
どこに新しい匂いがあるか。
知らない猫が通っていないか。
鳥がどの木に集まっているか。
人間が食べ物を落としていないか。
昨日までなかった物が増えていないか。
毎日同じ道を歩いているように見えても、同じ日は一度もない。
うちの人間は、シジミが外へ出ようとすると、
「今日はどこまで遊びに行くの?」
と聞く。
遊びに行くのではない。
見回りである。
うちの人間が昼間から外を歩き回ることを仕事と呼ぶのだから、シジミの散歩も立派な仕事と呼ぶべきだろう。
もっとも、人間が何と呼ぼうと、シジミのすることは変わらない。
◆ 太郎ではない
その日も、シジミはいつもの角を曲がった。
道の先に、一人の人間が立っている。
近所で何度か見かけたことのある人間だった。
シジミの姿に気づくと、顔をほころばせて手を振った。
「やあ、太郎」
シジミは足を止めた。
太郎。
誰のことだろう。
周囲を見回す。
道の上にはシジミしかいない。
塀の上にも猫はいない。
人間の後ろにも、太郎と呼ばれそうな者はいない。
人間はこちらを見ている。
つまり、シジミを呼んでいるらしい。
だが、シジミの名前は太郎ではない。
シジミである。
うちの人間がつけた名前なので、完璧な名前だとは思っていない。
黒いというだけで、味噌汁の底に沈んでいる貝と同じ名前にされた。
そこには多少の不満がある。
それでも、長く呼ばれているうちに、自分を示す音としては定着した。
いまさら太郎へ変えるつもりはない。
そもそも、シジミを太郎と呼ぶということは、この人間にはシジミが雄に見えているのだろうか。
人間は、猫の性別をすぐに気にする。
初めて会った猫にも、
「男の子かな?」
「女の子かな?」
と話し合う。
答えが分からないまま、勝手に名前をつける。
分からないなら、無理に決めなければよい。
ところが人間は、分からない状態をそのままにしておくのが苦手らしい。
雄か雌か。
飼い猫か野良猫か。
若いか年寄りか。
おとなしいか気が強いか。
少し見ただけで、何かに決めようとする。
そして、一度決めると、それが正しいものとして扱い始める。
目の前の人間にとって、シジミは太郎なのだろう。
人間はしゃがみ込み、手を伸ばした。
「太郎、今日も元気そうだな」
今日も、と言われても困る。
シジミはこの人間へ、自分の健康状態を報告した覚えはない。
昨日と比べて元気なのかどうか、この人間に分かるとも思えない。
人間は猫が普通に歩いているだけで、
「元気そう」
と言う。
じっとしていれば、
「眠そう」
と言う。
近づけば、
「甘えたいの?」
と言う。
離れれば、
「今日は機嫌が悪いのかな」
と言う。
どう動いても、人間は勝手に理由をつける。
猫が何を考えているかは、猫へ聞かなければ分からない。
だが、人間は猫の言葉を聞けない。
聞けないのに、答えだけは次々と出してくる。
シジミは伸ばされた手を避け、その横を通り過ぎた。
後ろから声が聞こえる。
「太郎、またな」
また会ったとしても、太郎ではない。
訂正してやりたいところだが、この人間に猫語は通じない。
いくらシジミと名乗っても、
「かわいい声だねえ」
で終わるだろう。
名前を間違えている者に、かわいいと言われても納得はできない。
◆ セバスでもない
少し先まで歩くと、別の人間が家の前に立っていた。
こちらも、何度か見かけたことがある。
この人間は、シジミを見ると時々食べ物を持ってくる。
人間としては、比較的役に立つほうである。
ただし、毎回もらえるとは限らない。
声だけかけて、何も出さない日もある。
期待しすぎるのは危険だ。
その人間がシジミを見つけ、うれしそうに手招きした。
「ねえ、セバス。おやつ食べる?」
シジミは再び足を止めた。
セバス。
先ほどは太郎だった。
今度はセバスである。
どちらもシジミの名前ではない。
だが、今回も周りにほかの猫はいない。
人間はこちらを見ている。
手には、小さな袋を持っている。
つまり、セバスもシジミを指す言葉らしい。
なぜセバスなのだろう。
太郎とセバスには、ほとんど共通点がない。
太郎は短い。
セバスは少し長い。
太郎には親しみがあるように聞こえる。
セバスには、妙に人間へ仕えていそうな響きがある。
もしかすると、もっと長い名前の途中だけを呼んでいるのかもしれない。
だとしても、シジミには関係がない。
シジミは誰かへ仕えてはいない。
むしろ、うちの人間の面倒を見ている側である。
朝になっても起きなければ、顔の近くで鳴いて起こす。
食事の時間を忘れていれば、皿の前まで連れていく。
いつまでも絵の動く箱を見ていれば、その前へ座って休むよう促す。
外から帰ってくれば、危険な匂いをつけていないか確認する。
これだけ世話をしているのだから、シジミが仕える側ということはない。
人間が袋を開けた。
食べ物の匂いがする。
「セバス、おいで」
名前は気に入らない。
だが、食べ物に罪はない。
呼び方が間違っているからといって、食べられるものまで拒む必要はない。
猫は物事を分けて考えることができる。
シジミが近づくと、人間は満足そうに笑った。
「やっぱりセバスは自分の名前が分かるんだね」
違う。
袋の音と匂いが分かったのである。
人間は、自分が呼んだからシジミが来たと思っている。
もし黙ったまま袋を開けても、シジミは近づいただろう。
反対に、袋を持たずにセバスと呼ばれても、近づく理由はない。
人間は、自分に都合のよいところだけを見ている。
セバスと呼んだ。
猫が来た。
だから、この猫の名前はセバスである。
その間に食べ物の存在があることを、きれいに忘れている。
人間は小さな食べ物を一つ、地面へ置いた。
シジミは匂いを確認してから口へ入れた。
悪くない。
もう一つ出してもよい味である。
シジミが人間を見上げると、その人間はうれしそうに言った。
「おいしかった?」
シジミは短く鳴いた。
もう一つ。
人間はシジミの頭を撫でようとした。
シジミは少し下がる。
食べ物を求めたのであって、頭へ触れてよいとは言っていない。
ところが人間は袋を閉じた。
「じゃあ、またね。セバス」
もう一つは出なかった。
要求は伝わらず、拒否だけは伝わったらしい。
それも正確には伝わっていない。
人間は、
「今日は撫でられたくない気分なんだね」
と笑っている。
今日は、ではない。
いまは、である。
人間は、時間の区切り方まで大きすぎる。
一度撫でられるのを避けただけで、その日一日触られたくないことにされる。
数歩歩けば気が変わることもある。
日の当たる場所へ移れば、撫でられてもよくなることもある。
猫の気持ちは動く。
人間の言葉で一度決めたからといって、そのまま一日中変わらないわけではない。
※第4話「名前は統一してほしい」は全二回です。
続きます。
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