(二)猫には猫のやり方がある
◆ 猫には猫のやり方がある
暗さも問題ではない。
猫は人間より暗い場所を見ることができる。
人間に何も見えないからといって、猫にも何も見えないわけではない。
壁の中なら、むしろ余計な光が入らず、目が慣れれば動くものを見つけやすいかもしれない。
狭い場所も悪くない。
猫は、体がほどよく囲まれている場所を好む。
箱。
棚の隙間。
長椅子の下。
布団と壁の間。
人間は広い部屋を好むが、猫にとって広すぎる場所は、どこから何が来るか分からない。
狭い場所なら、警戒する方向が少なくて済む。
壁の中は、入口がなくなったことを除けば、それほど悪い場所ではない。
静かである。
暗い。
狭い。
食べ物が歩いてくる。
水もどこかから手に入る。
人間が手を伸ばしてこない。
うちの人間は、猫を見つけるとすぐ撫でようとする。
眠っていても撫でる。
毛づくろいをしていても撫でる。
窓の外を見ていても撫でる。
料理をしている途中でさえ、シジミが近くを通れば手を洗って追いかけてくることがある。
そこまでする必要はない。
撫でられたいときならよい。
そうでないときには、ただ邪魔である。
壁の中なら、人間に勝手に触られる心配もない。
そう考えると、案外快適かもしれない。
ただし、出口がないのは困る。
食べ物がいるうちはよい。
だが、壁の中の虫やネズミをすべて食べてしまえば、新しい食べ物を探しに行けない。
水が染み出す場所が乾けば、それまでである。
それに、壁の向こうで人間が何をしているか確認できない。
猫にとって、縄張りを見回れないのは落ち着かない。
快適だからといって、長く住みたい場所ではない。
しばらく身を隠すなら悪くない。
住み続けるなら、出口を作る必要がある。
◆ 壁を開けろ
猫なら、壁を引っかく。
鳴く。
向こう側に人間がいれば、気づくだろう。
もっとも、あの本に出てくる人間は、猫を閉じ込めたことにすら気づかなかったらしい。
人間は大きなことをすると、細かなことが見えなくなる。
壁へ死体を隠すことばかり考え、近くに猫がいることを忘れた。
自分が見つからないかを心配し、壁の向こうから聞こえる音には気づかなかった。
人間は何か一つへ夢中になると、それ以外のものが存在しないかのように振る舞う。
シジミが食事を求めて鳴いても、うちの人間が絵の動く箱を見ていると、なかなか気づかない。
目の前まで行き、もう一度鳴き、前足で触って、ようやく、
「どうしたの?」
と聞く。
先ほどから伝えている。
気づかなかったのは人間のほうである。
本の中の黒猫も、壁の向こうから何度か知らせたのではないだろうか。
出せ。
ここにいる。
壁を開けろ。
そう鳴いていたはずだ。
だが、犯人は自分のしたことに満足し、聞こうとしなかった。
そして、ほかの人間が来たところで、猫は大きな声を出した。
ようやく壁を開けられる相手が来たからである。
人間はそれを、恐ろしい声や、不吉な声だと思ったらしい。
猫はただ、壁を開けろと言っただけかもしれない。
自分たちに意味が分からない声を、すぐ恐ろしいものにする。
実に人間らしい。
◆ 見えないものは存在しない
うちの人間は、まだ考え込んでいる。
髪の先を指へ巻きつけ、すぐにほどく。
「何日も壁の中にいたんだよな。ごはんも水もないのに」
ないと決めつけている。
見ていないのに。
自分が壁の中へ入ったこともないのに。
壁の中に虫が何匹いるのかも知らない。
水が染み出していたかどうかも知らない。
それでも、自分には思いつかないから、何もなかったことにする。
人間は、自分の知っている範囲を世界のすべてだと思いがちである。
自分に見えなければ、存在しない。
自分に聞こえなければ、話していない。
自分には食べられなければ、食べ物ではない。
自分なら生きられなければ、猫も生きられない。
猫と人間では、見えるものも、聞こえるものも、食べられるものも違う。
そんな当たり前のことを、すぐに忘れる。
シジミは立ち上がった。
長椅子の上を歩き、うちの人間の膝へ移る。
そして、閉じられた本の上に座った。
うちの人間が顔を上げる。
「シジミ、読めないよ」
もう読み終わったのではないのか。
それに、いま考えるべきことは本に書かれていない。
黒猫が壁の中で、どうして生きていられたのか。
答えは簡単である。
猫だったからだ。
人間には見つけられない食べ物を見つけた。
人間には見えない暗さの中で動いた。
人間には入れない隙間を通った。
人間とは違う方法で、生き延びた。
それだけの話である。
シジミは、うちの人間の目を見た。
そして、できるだけゆっくり猫語で説明した。
壁の裏には虫がいる。
ネズミもいる。
水もどこかから染み出してくる。
暗さも狭さも、猫には大きな問題ではない。
人間と同じ環境がなければ生きられないと思わないでほしい。
うちの人間は、しばらくシジミの顔を見つめた。
少しは伝わっただろうか。
やがて、うちの人間はシジミの頭を撫でた。
髪が肩から落ち、シジミの背中へ少し触れる。
「シジミも怖かったのか?」
違う。
まるで違う。
壁の中でも猫なら案外生きていけると説明したのである。
怖がっているどころか、人間が想像するほど不便ではないと教えた。
それなのに、うちの人間は長く鳴いたというだけで、怖かったのだと決めつけた。
自分が怖い話を読んだから、シジミも怖がっていると思っている。
猫の言葉を聞かず、自分の気持ちを猫へ当てはめている。
うちの人間は、もう一度シジミの頭を撫でた。
「大丈夫。シジミは壁の中に入れたりしないからね」
当たり前である。
入れられては困る。
だが、それとこれとは別の話だ。
シジミは本の上から降りた。
◆ 壁の中の足音
そのとき、壁の向こうから小さな音が聞こえた。
カリカリ。
何かが細い爪で木を引っかいている。
シジミは耳を壁へ向けた。
ネズミである。
うちの人間も音に気づき、壁を見た。
肩をすくめ、上着の前を少し合わせる。
「また家がきしんでる」
家はきしむ。
だが、いまの音は家ではない。
壁の中には、ちゃんと食べ物が歩いている。
先ほど説明したばかりなのに、何ひとつ理解していない。
シジミは壁の前へ座り、ネズミの足音を追った。
うちの人間は、怖い話を読んだせいか、少し不安そうに部屋の中を見回している。
長い髪が揺れるたび、自分で驚いたように肩を震わせている。
壁の中にいるものが黒猫なら怖がり、ネズミなら存在にすら気づかない。
自分が考えた物語だけを信じ、目の前の気配は見落とす。
シジミは尻尾をゆっくりと揺らし、猫語でつぶやいた。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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