(三)一匹なら、勝手には増えない
◆ 争う必要がないだけ
うちの人間は何日か世話を続けた。
食事を出す。
水を替える。
箱を掃除する。
昼間は眠らせる。
夜の輪の音にも、少しずつ慣れていった。
ハムスターも、最初ほどシジミを警戒しなくなった。
シジミが箱の近くを通っても、すぐに木くずへ潜らない。
ただし、近づけばこちらを見る。
完全に安心しているわけではない。
それでよい。
猫を警戒するのは正しい。
相手が大切にされているからといって、猫が絶対に何もしない保証はない。
シジミは何もしないつもりだが、ハムスターがそれを信じる必要はない。
距離を取り、逃げられる場所を確かめておく。
小さな動物として、正しい判断である。
うちの人間は、そんな二匹を見て喜んでいた。
「だいぶ仲良くなったね」
なっていない。
互いに、すぐ危険が起きないことを覚えただけである。
ハムスターは箱の中。
シジミは箱の外。
間には透明な壁。
食事も別。
眠る場所も別。
この距離が保たれているから、問題が起きない。
人間は争いが起きなければ、すぐに仲がよいと思う。
違う。
争う必要がないだけだ。
嫌っていなくても、友達とは限らない。
ただ同じ場所で静かに暮らせる。
それで十分な関係もある。
◆ 食べられなくてよかった
数日後。
うちの人間の知人が、ハムスターを迎えに来た。
うちの人間は、預かっているあいだの様子を細かく話している。
食事は残さなかった。
水も飲んでいた。
夜はよく輪を回していた。
昼間はほとんど眠っていた。
「シジミとも仲良くしてたよ」
それは違う。
だが、知人は安心したように笑った。
「食べられなくてよかった」
知人まで同じことを言う。
シジミは部屋の端から二人を見た。
なぜ人間は、猫を見るとすぐに何かを食べると思うのだろう。
猫にも食事を選ぶ権利がある。
動くものなら何でも口へ入れるわけではない。
大切にされているもの。
危険なもの。
食べても腹の足しにならないもの。
あとで面倒になるもの。
それくらいは区別する。
人間のほうが、目の前に菓子があれば、
「一個だけ」
と言いながら手を伸ばす。
腹が減っていなくても食べる。
あとで後悔することが分かっていても食べる。
猫より人間のほうが、食べる前に考えていないことがある。
知人が箱を抱え上げた。
ハムスターが中で少し動く。
「帰る」
どうやら、匂いで自分の人間だと分かったらしい。
警戒していた体が少し緩んだ。
うちの人間は箱の中へ手を振った。
「元気でね。またね」
また預かるつもりなのだろうか。
知人は何度か礼を言い、箱を持って帰っていった。
家の中が静かになる。
夜になっても、輪の音はしない。
◆ いなくなると寂しい
うちの人間は空いた棚を見た。
「いなくなると、ちょっと寂しいね」
数日前まで、夜の音が気になると言っていた。
昼間は動かないと言っていた。
増えたらどうしようと心配していた。
それでも、いなくなれば寂しいらしい。
人間は、いるものには不満を言う。
いなくなったものは惜しむ。
音がすれば、うるさい。
静かになれば、寂しい。
うちの人間は棚の前で少し考えた。
「ハムスター、飼おうかな」
やめたほうがよい。
預かった一匹が増えないか心配していた者が、自分で飼うのは早い。
それに、夜の輪の音へ慣れるまで何日もかかった。
毎日世話を続ける必要もある。
かわいい。
小さい。
見ていて楽しい。
それだけでは、生き物を迎える理由として足りない。
◆ 一匹なら、勝手には増えない
うちの人間は光る板を取り出し、ハムスターについて調べ始めた。
「種類によって性格も違うんだ」
当然である。
猫だって、すべて同じではない。
「一匹ずつ飼ったほうがいいんだって」
最初から、そう説明していたはずだ。
「一緒にすると増えることがあるんだ」
だから、雄と雌を一緒にするからである。
うちの人間は、しばらく画面を読んだ。
そして、ようやくつぶやいた。
「一匹なら、勝手には増えないよね」
ようやく理解したらしい。
ハムスターは分裂しない。
箱の中から突然、同じものがもう一匹現れたりもしない。
生き物が増えるには、それぞれの生き物なりの理由と過程がある。
人間は結果だけを聞くと、その途中を省いて考える。
ハムスターは増えやすい。
だから、置いておけば増える。
猫は狩りをする。
だから、ハムスターを見れば食べる。
二匹が争わない。
だから、仲がよい。
どれも途中が抜けている。
シジミがハムスターを食べなかったのは、優しいからだけではない。
食べる必要がない。
食べたあとの不利益が大きい。
大切にされているものだと分かっている。
いくつもの理由がある。
だが、うちの人間には、
「シジミはハムスターと仲良くできた」
という話になっている。
そのほうが、かわいらしくて分かりやすいのだろう。
うちの人間は光る板を置き、シジミの隣へ座った。
「シジミ、ハムスターいなくなって寂しい?」
寂しくない。
静かになっただけである。
少し変わった匂いと音が、家から消えた。
それには気づいている。
だが、数日一緒の家にいただけで、強い情が移ったわけではない。
シジミが返事をしないと、うちの人間は勝手にうなずいた。
「寂しいよね。また会えるといいね」
やはり、聞いていない。
ハムスターが勝手に増えると思い。
シジミが勝手に食べると思い。
争わなければ仲良しだと思い。
いなくなれば寂しがっていると思う。
うちの人間の頭の中では、生き物はいつも分かりやすく動いている。
現実の生き物は、もう少し考えている。
少なくとも、シジミはうちの人間より先のことまで考えている。
シジミは猫語でつぶやく。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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