(二)逃げたのではない
◆ シジミっていうの?
犬は再び尻尾を振った。
「シジミっていうの?」
どうやら、うちの人間の言葉から名前を聞き取ったらしい。
犬は人間の言葉を、猫より少し多く覚えていることがある。
いつも近くで人間の声を聞き、人間の指示で動くからだろう。
もっとも、文章すべてを理解しているわけではない。
名前。
待て。
行く。
駄目。
散歩。
食事。
遊ぶ。
その程度である。
犬は名前を知ったことがうれしいらしい。
「シジミ!」
「遊ぼう!」
名前を知ったからといって、急に親しくなったわけではない。
だが、犬はそう思っているようだった。
飼い主が犬の首元へ手を伸ばす。
「もう行くよ」
犬は動かない。
「まだ!」
「走る!」
飼い主が紐を引く。
犬は前へ出ようとする。
紐が強く張る。
飼い主は片手で袋を持ち替え、もう片方の手で紐を握り直した。
犬はその間も、左右へ動いている。
落ち着きがない。
飼い主が、
「ほら、行くよ」
と言いながら一歩下がった。
◆ 紐が落ちた
そのときだった。
持ち替えたばかりの紐が、飼い主の手から滑り落ちた。
紐の端が地面へ落ちる。
犬の動きを止めていたものがなくなった。
犬は、一瞬だけ動きを止めた。
自由になったことを確かめたらしい。
次の瞬間、勢いよく走り出した。
「遊ぼう!」
飼い主が声を上げる。
「駄目よ!」
犬は止まらない。
「走ろう!」
飼い主が追いかける。
「猫ちゃん、逃げて!」
逃げる理由がない。
犬はシジミを捕まえようとしているわけではない。
噛もうとしているわけでもない。
ただ、一緒に走るつもりで近づいている。
だが、確かにうるさい。
足音が大きい。
声も大きい。
勢いもありすぎる。
近づかれて、そのまま道の上で相手をする必要はない。
シジミは立ち上がった。
道の横には、低い壁がある。
人間の腰ほどの高さだ。
猫なら簡単に上がれる。
シジミは一度だけ足元を確かめ、壁の上へ跳んだ。
前足をかける。
後ろ足で地面を蹴る。
そのまま体を引き上げる。
特に急ぐ必要もなかった。
犬が目の前まで来る前に、十分間に合う。
シジミが壁の上へ移動すると、犬はその下で止まった。
顔を上げる。
尻尾を振る。
「上に行った!」
「降りて!」
「走ろう!」
シジミは壁の上から犬を見下ろした。
降りるつもりはない。
犬の遊び方は騒がしすぎる。
飼い主が、地面へ落ちた紐の端を追いかけてきた。
「駄目! もう!」
紐を踏み、ようやく犬を止める。
それから端を拾い上げた。
犬は、まだシジミへ向かって前足を上げている。
「遊ぼう!」
飼い主は犬の体を引き寄せた。
「猫ちゃんを追いかけないの!」
追いかけたのは事実である。
だが、追い払うためではない。
遊ぶためだ。
人間は追いかける行動を見ると、すぐに捕まえようとしていると思う。
猫が虫を追えば、捕まえるため。
犬が猫を追えば、襲うため。
だが、犬は仲間同士でも追いかける。
追う。
追われる。
途中で役割を変える。
それ自体が遊びである。
犬はシジミにも、それを求めている。
もっとも、シジミは求めていない。
そこは別の話だ。
◆ 逃げたのではない
うちの人間が壁の下まで来た。
「シジミ、大丈夫?」
だから、何もされていない。
少し高い場所へ移動しただけである。
うちの人間は心配そうにシジミを見上げた。
「怖かったね」
怖くない。
うるさかっただけである。
人間は、猫が高い場所へ逃げれば、怖かったと考える。
だが、高い場所へ移動する理由は一つではない。
下より静か。
周囲が見える。
犬の顔が近くに来ない。
急に踏まれる心配もない。
相手を観察しやすい。
道をふさがない。
いくつも理由がある。
その中に、恐怖が必ず含まれるわけではない。
人間は猫の行動を、一つの感情へまとめたがる。
逃げた。
怖かった。
鳴いた。
寂しかった。
近づいた。
甘えたかった。
離れた。
機嫌が悪い。
猫にも、もっと細かな判断がある。
今いる場所より、あちらのほうがよい。
それだけで動くことも多い。
だが、人間は感情の話にしたほうが分かりやすいらしい。
犬の飼い主は、何度も頭を下げた。
「本当にすみません。怖がらせちゃって」
うちの人間が答える。
「いえ、大丈夫です。上に逃げられたので」
逃げたのではない。
移動したのである。
シジミは壁の上で座り直した。
犬はまだ下から見上げている。
「高い!」
「そこ楽しい?」
「オレも行く!」
無理である。
犬は壁へ前足をかけた。
だが、体を持ち上げることはできない。
後ろ足で少し跳ぶ。
前足が壁へ当たる。
すぐに地面へ戻る。
「行けない!」
知っている。
犬の体は大きいが、高いところへ上がることには向いていない。
脚の使い方も違う。
爪も、猫のようには使えない。
犬はもう一度跳ぼうとした。
飼い主が紐を引く。
「もうやめなさい!」
犬は振り返った。
「なんで?」
理由が分かっていない。
シジミへ危害を加えるつもりがないため、自分が叱られている理由を理解できないのだろう。
犬は遊びに誘った。
相手が高い場所へ行った。
自分も行こうとした。
それだけである。
だが、飼い主の中では違う。
弱い猫を威嚇した。
逃げる猫を追いかけた。
壁の上まで追い詰めた。
悪い犬を叱らなければならない。
一つ一つの行動は同じでも、意味がまるで違っている。
犬は猫の言葉を完全には理解しない。
猫も犬の言葉をすべて理解するわけではない。
それでも、うちの人間たちよりは分かっている。
犬が何を言っているか。
耳がどこを向いているか。
尻尾がどう動いているか。
どのように足を運んでいるか。
鳴き声だけではなく、体全体を見る。
人間は言葉を多く持っている。
そのため、動物の行動にも自分たちの言葉で理由をつける。
威嚇。
弱い者いじめ。
怖がっている。
かわいそう。
一度名前をつけると、もう別の意味を考えない。
※第20話「犬再び」は全三回です。
続きます。
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