(一)怖がっていることにできる
◆ 一緒にお散歩してる
うちの人間と散歩をしていた。
正確には、うちの人間が歩いている道を、シジミも同じ方向へ進んでいただけである。
人間は猫が少し後ろを歩いていると、
「一緒にお散歩してる」
と喜ぶ。
だが、帰る場所が同じなら、進む方向も同じになる。
それだけのことだ。
うちの人間は、近所を歩くための動きやすい服を着ていた。
栗色の髪を低い位置で一つにまとめ、片手には小さな袋を持っている。
袋の中には、家で使うものがいくつか入っていた。
食べ物ではない。
少なくとも、シジミが興味を持つような匂いはしなかった。
人間は、何も食べられないものを買うためにも外へ出る。
猫には必要のないものまで必要だと思っているらしい。
その日は風が弱く、道も暖かかった。
塀の上には日が当たっている。
庭からは土と草の匂いがする。
少し離れたところで、鳥が鳴いていた。
散歩には悪くない日である。
細い道を曲がると、前から犬が歩いてきた。
以前にも会った犬だった。
大きさは、シジミよりずっと大きい。
体はよく動く。
尻尾は絶えず左右へ振られている。
歩いているというより、飼い主の周りを行ったり来たりしていた。
首から伸びた紐でつながれているため、遠くへは行けない。
それでも、少しでも多く動こうとしている。
犬は、止まっていることが苦手である。
立っていても足踏みする。
座っていても尻尾を振る。
誰かを見つければ立ち上がる。
何もなくても地面の匂いを嗅ぐ。
猫なら、何もする必要がないときは何もしない。
犬は何もすることがなくても、何かを探して動く。
ずいぶん忙しい生き物である。
◆ 威嚇ではない
犬はシジミに気づいた。
耳が立つ。
目が大きくなる。
前足が一歩出る。
尻尾の動きがさらに速くなった。
そして、大きな声で鳴いた。
「遊ぼう!」
続けて鳴く。
「走ろう!」
いつもどおりである。
以前会ったときも、同じことを言っていた。
シジミを見るなり、
「遊ぼう!」
「一緒に走ろう!」
と誘ってきた。
今回も何も変わっていない。
少し声が大きく、体が落ち着かないだけである。
犬はさらに前へ出ようとした。
だが、紐が張る。
飼い主の人間が、慌てて紐を引いた。
「こら! また小さい猫ちゃんを威嚇して!」
威嚇はされていない。
犬は遊びに誘っているだけである。
声が大きい。
体も大きい。
動きも激しい。
だが、言っていることは、
「遊ぼう」
「走ろう」
それだけだ。
犬が吠えると、人間はすぐに怒っていると思う。
声が大きければ怒り。
歯が見えれば威嚇。
勢いよく近づけば襲うつもり。
人間は音と見た目だけで判断する。
その犬は、耳を立てている。
尻尾を振っている。
前足を少し低くしている。
攻撃する姿勢ではない。
遊ぶときの姿勢である。
だが、飼い主には分からないらしい。
犬がもう一度鳴く。
「遊ぼう!」
飼い主は紐を短く持ち直した。
「駄目でしょ! 怖がってるじゃない!」
怖がっていない。
シジミは道の端に座り、犬を見ていただけである。
逃げてもいない。
耳を伏せてもいない。
毛を逆立ててもいない。
尻尾も膨らんでいない。
これで、どこを見れば怖がっているように見えるのだろう。
もしかすると、人間は犬が大きな声を出している場面を見た時点で、猫は怖がっているはずだと決めるのかもしれない。
そのあとで猫の様子を見る。
実際に怖がっているかどうかを確かめるのではない。
自分が決めたとおりに見える部分を探す。
シジミが動かずにいる。
怖くて固まっている。
シジミが少し後ろへ下がる。
逃げようとしている。
シジミが犬を見る。
警戒している。
どのような行動をしても、怖がっていることにできる。
人間の考えは便利である。
一度決めれば、何を見ても正しいことになる。
◆ 怖がっていることにできる
うちの人間が、シジミの横へ少し近づいた。
「大丈夫?」
何がだろう。
シジミは何も困っていない。
うちの人間は、犬とシジミを交互に見ている。
どうやら、こちらも犬がシジミを威嚇していると思っているらしい。
犬の飼い主が、さらに言った。
「自分より弱いと思ったら吠えるなんて」
たぶん、そうではない。
犬はシジミを弱いと思って吠えているわけではない。
一緒に走れそうな相手を見つけたと思っている。
以前会ったことも覚えているらしい。
犬はシジミへ向かって鳴いた。
「前も会った!」
「今日は走れる?」
覚えていた。
猫に比べると少し騒がしいが、記憶は悪くない。
飼い主は、その声を聞いてさらに紐を引いた。
「駄目! 猫ちゃんに意地悪しないの!」
意地悪もしていない。
犬は遊びたいだけである。
ただし、自分の体の大きさや声の大きさを理解していないところはある。
同じ勢いで猫へ近づけば、普通は警戒される。
犬同士なら通じる動きも、猫にはうるさすぎる。
だが、それは配慮が足りないのであって、弱い相手を選んでいじめているのではない。
人間は結果から理由を作る。
大きな犬が小さな猫へ吠えた。
ならば、弱い相手を威嚇したのだろう。
本当に何を言っているかは聞かない。
犬の姿勢も細かく見ない。
猫の反応も確認しない。
大きい者が小さい者へ声を出した。
それだけで、悪い犬が小さな猫を怖がらせている話が完成する。
犬は一歩右へ動いた。
シジミも顔を右へ向ける。
犬は一歩左へ動いた。
シジミも視線だけ左へ動かす。
犬は、これを遊びが始まった合図だと思ったらしい。
「やる?」
「走る?」
まだ走らない。
そもそも、シジミは犬と走るつもりはない。
犬の走り方は直線的すぎる。
勢いがある。
止まるのも遅い。
猫は狭いところを選び、急に向きを変え、高い場所へ移る。
犬と猫では、走る目的も方法も違う。
一緒に走ったところで、お互いに楽しいとは限らない。
だが、犬はそんなことを考えていない。
走れば楽しい。
誰かと走ればもっと楽しい。
目の前に猫がいる。
だから誘う。
実に単純である。
シジミは嫌いではない。
ただ、少しうるさい。
犬の飼い主は、うちの人間へ申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。この子、猫を見るといつも吠えちゃって」
うちの人間も、軽く頭を下げた。
「大丈夫です。シジミも慣れてるので」
何に慣れていると思っているのだろう。
威嚇されることに慣れているわけではない。
犬が何を言っているか知っているだけだ。
慣れる必要もない。
※第20話「犬再び」は全三回です。
続きます。
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