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本当に人間ってあさはかな生き物だよね  作者: KEI
第1話 名前はもうある

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(三)読めないものは、お互いにある

◆ 名前を呼ばれたからといって


うちの人間が、シジミの顎の下を撫でた。


指先から、さっき塗っていたものの淡い匂いがする。


「シジミって、自分の名前を分かってるのかな」


分かっている。


ただし、シジミという音そのものを、自分のすべてだと思っているわけではない。


うちの人間が発するシジミには、いくつか種類がある。


優しく呼ぶシジミ。


探しているときのシジミ。


叱るときのシジミ。


病院へ連れていこうとするときのシジミ。


食事を出すときのシジミ。


同じ音でも、意味は違う。


声だけではない。


立っている場所。


手に持っているもの。


目線。


体の向き。


すべてを合わせて判断する。


人間は名前を一つ覚えれば猫が反応すると思っている。


だが、猫はその人間の全身を見ている。


シジミは体を起こした。


うちの人間が期待した顔をする。


「シジミ」


これは、ただ呼んでみただけの声だ。


食事は持っていない。


扉の近くにもいない。


膝には本が置いてある。


近づいても、撫でられるだけだろう。


シジミは動かなかった。


うちの人間が、もう一度呼ぶ。


「シジミ」


少し声が高くなった。


反応してほしいらしい。


シジミは尻尾の先だけを動かした。


聞こえているという合図である。


うちの人間は笑った。


「やっぱり名前、分かってるんだね」


分かっている。


先ほどからそう言っている。


尻尾で返事もした。


だが、人間は自分が考えた答えを、自分で確認したと思っている。


シジミが伝えたのではなく、自分が発見したことになっている。


人間はいつもそうだ。


猫が前から知っていたことでも、人間が気づいた瞬間に、初めて分かったことになる。


猫は高い場所から落ちても体勢を変えられる。


猫は狭い場所を通れる。


猫は暗い場所でも周囲を見られる。


人間が後から調べて説明すると、それを新しい発見のように語る。


猫は最初からやっている。


知らなかったのは人間だけである。


◆ 読めないものは、お互いにある


うちの人間は、また本を開いた。


シジミはその上へ前足を乗せた。


読書を邪魔したいわけではない。


少し確認したいことがあっただけだ。


紙の上には、黒い模様が並んでいる。


この中に、吾輩や猫や名前という意味が入っているらしい。


シジミには読めない。


読めないが、それを恥ずかしいとは思わない。


人間も、シジミの尻尾の動きや耳の向きを満足には読めない。


お互いに読めないものがある。


それだけの話である。


ところが人間は、自分たちの文字を読めない者を、何も知らないと思いがちだ。


紙を読めなくても、風の匂いは読める。


足音の違いも分かる。


遠くで犬が吠えれば、怒っているのか、遊びたいのかもだいたい分かる。


人間には聞こえない小さな音も聞こえる。


どちらが賢いかを決める必要はない。


得意なことが違うだけである。


それを、人間はすぐに比べたがる。


うちの人間が、上着の袖口から手を伸ばし、シジミの前足を本の上からどかした。


「読めないでしょ」


読めない。


だが、うちの人間も猫語を読めない。


シジミはうちの人間を見上げた。


そして、猫語でゆっくり言った。


猫の一人称が吾輩だと、勝手に決めないでほしい。


名前がない猫が、まだないと考えるのも妙な話だ。


そもそも名前がなくても、猫は自分が誰かくらい分かっている。


名前をつけただけで、相手を理解した気にならないでほしい。


うちの人間は、しばらくシジミの顔を見つめた。


伝わっただろうか。


少なくとも、いつもより長く鳴いたことには気づいたようだ。


うちの人間は本を置き、立ち上がった。


髪を押さえながら、台所のほうを見る。


「お腹空いたの?」


違う。


話を聞いてほしかったのである。


だが、食事が出るなら悪くない。


シジミは長椅子から降り、うちの人間のあとをついていった。


名前はシジミ。


一人称は吾輩ではない。


今は食事へ向かっている。


それだけ分かっていれば十分である。


うちの人間が振り返り、笑った。


「やっぱりシジミって、食いしん坊だね」


シジミは足を止めた。


名前を知っていても、シジミが何を考えているのかは分からない。


長いあいだ一緒に暮らしていても、鳴き声の意味を自分に都合よく置き換える。


そのくせ、人間は名前を呼んで反応があれば、すべて分かり合えているような顔をする。


シジミはうちの人間の背中を見つめ、猫語でつぶやいた。


「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」




作者個人サイトでは、人物相関図・各話アイキャッチ・用語メモなどの補足資料を公開しています。

※ネタバレ範囲にご注意ください。


https://www.simulationroom999.com/blog/humans-foolish-top

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