(一)行ってきます
◆ 鳴る箱
朝になると、うちの人間は大きな音で目を覚ます。
枕元に置かれた小さな箱が、毎日ほとんど同じ時刻に鳴り始めるのである。
うちの人間は自分で、その時間に鳴るようにしている。
それなのに、音が鳴るたびに嫌そうな顔をする。
布団の中から腕だけを伸ばし、手探りで箱を探す。
一度、音を止める。
しばらくすると、また鳴る。
うちの人間はさらに嫌そうな顔をして、もう一度止める。
起きたくないのなら、最初から鳴らさなければよい。
鳴らす必要があるなら、一度で起きればよい。
毎朝同じことを繰り返しているのに、何一つ改善されない。
人間は眠っているあいだに、前の日のことを忘れてしまうのだろうか。
シジミはうちの人間の足元で丸くなりながら、その様子を眺めていた。
シジミは箱に起こされたりしない。
起きる必要があるときに起きる。
鳥の声。
外を歩く猫の気配。
食事の袋が開く音。
うちの人間が寝返りを打ち、布団の中にちょうどよい隙間ができたとき。
起きる理由があれば目を開ける。
何もなければ、そのまま眠る。
それで困ったことはない。
うちの人間は、三度目の音でようやく上半身を起こした。
肩まで伸びた髪が、あちこちへ跳ねている。
目は半分しか開いていない。
起きたくないことが全身から伝わってくる。
それでも布団から出る。
立ち上がり、ふらふらと部屋を出ていく。
眠いなら、もう一度横になればよい。
家の中は安全である。
雨は入ってこない。
風も強くない。
敵になるような動物もいない。
食べ物もある。
水もある。
暖かい場所も、柔らかい寝床もある。
眠い人間が、わざわざ布団から出る理由など見当たらない。
シジミは空いた枕の上へ移動した。
うちの人間の頭があった場所は、ほどよく暖かい。
人間は、このようなよい場所を毎朝捨てている。
理解に苦しむ。
◆ 外へ出る準備
しばらくすると、うちの人間は顔を洗って戻ってきた。
髪をとかし、後ろでまとめる。
鏡の前に立ち、寝起きの顔へ何かを塗っている。
小さな容器を開けたり閉じたりしながら、何度も鏡を確認する。
家を出るために、ずいぶん手間をかける。
猫なら、顔を前足で洗えば終わりである。
水を使う必要もない。
鏡もいらない。
誰かに見せるためではなく、必要だから毛づくろいをする。
うちの人間は、まだ何かを気にしているらしい。
前髪を少し動かす。
横から見る。
首を傾ける。
また前髪を動かす。
それほど変わったようには見えない。
人間同士には分かる違いなのだろうか。
猫の毛並みを見分けられない者たちが、自分たちの髪のわずかな違いだけは細かく気にする。
ずいぶん都合のよい目をしている。
うちの人間は、家の中で着ている柔らかな服から、外へ出るための服へ着替えた。
動きにくそうな服である。
首元を整え、腰の辺りを何度か引っ張る。
足には硬そうな靴を履くらしい。
猫は外へ出るとき、服を着替えたりはしない。
家の中でも外でも、同じ毛皮で十分である。
人間は毛が少ないため、自分で別の毛皮を用意しなければならないらしい。
それだけでも不便なのに、季節や場所によって何枚も使い分ける。
しかも、着たあとは洗う。
乾かす。
畳む。
しまう。
そして、また取り出して着る。
人間の一日は、毛皮の管理だけでかなりの時間を使っている。
最初から体に生えていれば、そんな手間はかからない。
うちの人間は鏡の前へ立ち、服の形を整えた。
家を出るだけなのに、まだ確認することがあるらしい。
シジミが散歩へ出るときは、扉を開けてもらえばそれでよい。
毛並みが少し乱れていても、歩いているうちに整う。
必要なら、その場で舐めればよい。
人間は鏡がなければ、自分の毛並みすら確認できない。
うちの人間は台所へ向かった。
朝の食事を口へ入れる。
食べながら、絵の光る板を見る。
急いでいるようなのに、板から目を離さない。
時間がないと言いながら、指で何度も画面を動かしている。
その時間を眠ることに使えば、もう少し元気に起きられるのではないだろうか。
あるいは、食事をゆっくり食べればよい。
人間は、自分で時間を使っておきながら、
「時間がない」
と言う。
時間は最初から同じだけある。
なくしたのは人間である。
うちの人間は食事を終えると、細長い容器や小さな袋を鞄へ入れ始めた。
紙。
小さな箱。
細い棒のようなもの。
布。
何に使うのか分からない物が、いくつも入っている。
外で遊ぶための道具だろうか。
シジミが外へ行くときは、何も持たない。
必要なものは外で見つける。
日なたは外にある。
虫も外にいる。
木も塀もある。
水が必要なら、家へ戻ればよい。
遊ぶために重い荷物を運ぶ必要はない。
人間は遊び方まで不器用である。
◆ 行ってきます
うちの人間が玄関へ向かう。
シジミもあとをついていった。
うちの人間は硬い靴を履き、扉へ手をかける。
外からは、車の音や人間の足音が聞こえている。
鳥も鳴いている。
日もすでに昇っている。
これから昼へ向かう時間である。
猫なら、家の中で落ち着く時間だ。
夜や朝方に周囲を確認し、昼は安全な場所で体を休める。
何も起きていないのに、明るい時間から外を歩き回る必要はない。
目立つ。
暑い。
人間も多い。
車という大きくて速い物まで動いている。
それなのに、うちの人間は毎日のように外へ出ていく。
「行ってきます」
うちの人間は、少し高い声でそう言った。
シジミへ言ったのかもしれない。
行き先を説明する言葉ではない。
いつ戻るのかも分からない。
ただ、行ってくるとだけ伝えて出ていく。
ずいぶん雑な報告である。
シジミが散歩へ出るとき、うちの人間は、
「どこへ行くの?」
「いつ帰ってくるの?」
「遠くへ行っちゃ駄目だよ」
と何度も言う。
自分が出かけるときは、行ってきますの一言で済ませる。
人間は、自分にだけ決まりが甘い。
※第10話「昼間から遊び歩く人間」は全三回です。
続きます。
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