(三)変わらずそばにいる
◆ 猫は柔軟である
シジミならどうするだろう。
うちの人間が、ある日突然、猫の言葉を聞けるようになったとする。
シジミが朝食の時間を伝える。
うちの人間が理解する。
窓を開けるよう命じる。
うちの人間が理解する。
座る場所を空けるよう伝える。
うちの人間が理解する。
撫でるのはいまではないと伝える。
うちの人間が手を止める。
ようやく人間も少し賢くなったと思ったところで、また聞こえなくなる。
おそらくシジミは、何度かは説明を試みる。
鳴き方を変える。
前足で触れる。
目的の場所まで連れていく。
じっと目を見る。
尻尾で示す。
それでも分からなければ、仕方がない。
人間にも理解できる方法へ切り替えるしかない。
食事が遅ければ皿を鳴らす。
窓を開けなければカーテンへ登る。
椅子を空けなければ膝へ乗る。
撫でるのをやめなければ、その手から離れる。
話が通じない相手には、行動で教える。
猫は柔軟である。
一方、人間は猫の言葉が聞こえなくなっただけで、猫が話さなくなったと決めつける。
自分に分からないものは、存在しないことにする。
実に乱暴な考え方である。
◆ 過去まで書き換える
うちの人間は、まだ考えていた。
飲み物の椀を両手で包み、少し首を傾ける。
「最初から、本当に話してたのかな。魔女がそう思っていただけだったりして」
シジミは思わず、うちの人間の顔を見た。
そこまで疑うのか。
話していた相手ではなく、聞いていた側の思い込みだったことにする。
人間は、自分が理解できなくなったものに対して、過去まで書き換えようとするらしい。
以前はたしかに分かり合えていた。
一緒に話し、笑い、困ったときには相談していた。
その時間まで、勘違いだったのではないかと言い出す。
ジジ様に失礼である。
人間は、自分が覚えていないことについても、
「そんなこと言ったかな」
と簡単に否定する。
忘れたのは自分である。
相手が言わなかったことにはならない。
聞き取れなくなったのは魔女である。
ジジ様が話していなかったことにはならない。
自分の側に起きた変化を、相手の存在そのものへ押しつけている。
画面の中では、物語が終わりへ向かって進んでいた。
魔女は再び空を飛ぶ。
人間たちは、その姿を見て喜ぶ。
うちの人間も安心したように息を吐いた。
「よかった。魔法、戻ったんだね」
空を飛べるようになったことは、すぐに分かる。
目に見えるからだ。
箒が浮く。
体が空へ上がる。
以前のように飛んでいく。
人間は目に見える変化を理解するのは早い。
だが、ジジ様の言葉がどうなったかは、はっきりしない。
人間は、目に見える力が戻れば、それで問題が解決したと思うらしい。
飛べる。
働ける。
笑える。
だから元どおり。
本当にそうだろうか。
大切な相手の言葉が、以前のようには聞こえないままである。
それでも一緒に暮らしていく。
聞こえなくなった側は、相手が黙ったと思う。
話している側は、伝わらないことを知りながら声をかけ続ける。
それは、空を飛ぶことよりも難しいことかもしれない。
シジミは画面の中のジジ様を見つめた。
やはり、物語を動かしているのはジジ様である。
魔女が飛べなくなったときもそばにいた。
言葉が届かなくなってもそばにいた。
魔女がまた飛べるようになったあとも、変わらずそこにいる。
人間は派手な場面ばかり覚えている。
空を飛ぶ場面。
危険を乗り越える場面。
大勢から褒められる場面。
だが、本当に大事なのは、何も変わらず隣にいる者ではないだろうか。
少なくとも、シジミにはそう思える。
◆ 何ひとつ伝わっていない
番組が終わった。
うちの人間は満足そうに背伸びをした。
両腕を上へ伸ばすと、まとめていた髪が少し崩れ、肩へ落ちた。
「やっぱりいい映画だなあ」
その感想には、シジミも同意してよい。
ただし、うちの人間がどこまでジジ様の偉大さを理解したかは疑わしい。
おそらく、空を飛ぶ魔女が成長する話だと思ったままである。
ジジ様が魔女を支え、言葉が届かなくなっても変わらずそばにいたことは、かわいい黒猫という言葉の中へ押し込められている。
シジミは長椅子から降り、うちの人間の前へ回った。
そして、まっすぐ顔を見上げる。
今夜の番組について、少し教えてやる必要がある。
ジジ様は話せなくなったのではない。
魔女が聞けなくなっただけだ。
猫はいつでも話している。
人間が聞こうとしていないだけなのだ。
シジミは、できるだけ分かりやすく猫語で言った。
ジジ様は何も変わっていない。
変わったのは魔女のほうだ。
聞こえないからといって、話していないことにはならない。
うちの人間は、しばらくシジミを見つめた。
少しは伝わっただろうか。
うちの人間は椀をテーブルへ置いた。
頬へかかった髪を耳へかけ、シジミと目を合わせる。
いつもより長く鳴いたことには気づいたらしい。
やがて、うちの人間は笑顔になった。
「映画が終わったから、お腹空いたの?」
何ひとつ伝わっていなかった。
話ができなくなったのではない。
聞いている側が、勝手に自分の分かる意味へ置き換えただけである。
まさに今、うちの人間がそれを証明していた。
ジジ様の声を魔女がただの鳴き声として聞いたように、うちの人間もシジミの説明を食事の要求へ変えた。
人間は猫の声を理解できないのではない。
理解できないまま、自分の考えた意味で埋めてしまう。
分からないなら、分からないと言えばよい。
それなのに人間は、何かを分かったことにしなければ落ち着かない。
◆ 変わらずそばにいる
シジミは目を細め、うちの人間に背を向けた。
軽く床を蹴り、先ほどまで座っていた長椅子の真ん中へ飛び乗る。
うちの人間の場所だと言われたが、いま使っているのはシジミである。
つまり、シジミの場所だ。
うちの人間が戻ってきて、長椅子の前で立ち止まる。
「また真ん中に座ってる」
先ほど説明したはずである。
使っている者の場所だ。
だが、うちの人間にはそれも伝わらない。
少し迷ったあと、うちの人間は長椅子の端へ座った。
そのままシジミの背中を撫でる。
聞こえていなくても、そばにはいる。
理解していなくても、触れようとはする。
その点だけなら、魔女とジジ様に少し似ているのかもしれない。
もっとも、ジジ様と同じにされるのは、うちの人間にはまだ早い。
シジミは前足を体の下へしまい、画面が暗くなったテレビを眺めた。
ジジ様は最後まで何も変わっていなかった。
隣にいた。
声をかけていた。
ただ、その声を聞き取れなくなった者がいただけである。
それなのに人間は、猫が話さなくなったと言う。
自分に聞こえないものは、存在しないことにする。
自分に分からないものは、相手が変わったことにする。
シジミは尻尾の先をゆっくりと揺らした。
「本当に人間ってあさはかな生き物だよね」
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