第八章 存在しない兵器
避難所だと分かったあとも、エリアスはしばらくその場を動けなかった。
目の前にあるものは、どう見ても攻撃のための施設ではない。大量の穀物と薬、避難用の天幕、水を蓄える設備。地面に刻まれた術式も、都市へ魔力を撃ち出すものではなく、施設全体を外からの攻撃から守るために組まれている。
教会で見せられた資料が、完全な偽物だったわけではなかった。場所は合っている。術式の形も似ている。大量の物資が運び込まれているという情報も事実だった。ただ、その意味だけが違っていた。
「戻るぞ」
カイが言った。
「待て」
「何だよ」
「もう少し調べる」
「避難所だって分かっただろ」
「なぜ避難所が必要なのか分かっていない」
カイは面倒そうに息を吐いたが、反対はしなかった。二人は建物の陰を移動し、先ほど人が出入りしていた管理棟へ近づいた。窓は開いており、中からは数人の声と書類をめくる音が聞こえた。
「北の三村は来週だ。街道が使えるうちに老人から移す」
「軍の護衛は?」
「足りない。東に回してる」
「また人間側が増えたのか?」
「ああ。昨日だけで二個中隊。砦の向こうにも野営地ができてる」
エリアスは息を潜めた。男の声が続く。
「王国だけじゃないらしい。帝国の部隊も国境近くまで出てるって話だ」
「本当に攻めてくるのか?」
「知らん。ただ、何かあってから考えるより、準備して何もなかった方がましだ」
紙を机へ置く音がした。
「軍は三か月前から避難計画を作ってる。今さら止められんよ」
三か月。
エリアスは眉を寄せた。教会から魔族の軍事活動が活発化していると聞いたのも、その頃からだった。国境付近へ大量の物資が集められ、魔族軍が人間界への侵攻準備を進めている可能性が高い、と。
同じ時期だった。
人間側では、魔族が攻めてくると考えて軍を集めている。魔族側では、人間軍の増強を見て住民を逃がす準備を進めている。双方が、自分たちの行動は相手の動きに備えたものだと考えていた。
では、どちらが先だったのか。その答えを持つ者は、ここにはいない。
「行くぞ」
カイが小声で言った。
今度はエリアスも頷いた。
施設を出る途中、別の倉庫の脇を通ったところでカイが足を止めた。
「待て」
「何だ」
「これ」
木箱がいくつか積まれている。先ほど見た食料用のものとは違い、細長く頑丈な造りをしていた。蓋には魔軍の管理印が押されている。
カイは周囲を確認してから、一つの留め金を外した。中には剣が並んでおり、エリアスの表情が変わった。
「武器か」
「そりゃ避難所でも多少は置くだろ」
カイは一本を取り出した。魔族向けに作られた剣ではない。柄が細く、鍔も小さい。体格の大きな魔族が使うには軽すぎる。エリアスは受け取って確かめた。
「人間製だ」
「分かる?」
「王国軍で使われている型に近い」
ただし、王国の正式な軍印は削られていた。別の箱には短槍、その隣には弩の部品が入っている。どれも人間界で作られたものだった。
「なぜこんな物が」
エリアスが呟いた。
「買ったんだろ」
「人間から?」
「人間が作ったなら、人間からだろ」
カイは箱の側面を調べた。焼印が一度削られ、その上から別の輸送印が押されている。カイの指が止まった。
「……これ、知ってる」
「何だ」
「黒龍会が使う印だ」
エリアスが見る。
黒い龍の紋章そのものではない。外向きの商取引で使う、別会社を装った中継印らしい。
「黒龍会が人間の武器を魔界へ売っているのか」
「売ってるだろうな」
「知っていたのか」
「武器も扱ってるって話はな。どこから仕入れてるかまでは知らねえ」
カイは剣を箱へ戻した。
「ガロンなら、売れるものは何でも売る」
エリアスは黙った。
襲撃者の武器。教会の神聖術。今度は避難施設にある人間製の武器。それぞれ別の出来事のはずなのに、少しずつ同じ場所へ繋がり始めているように感じた。
二人は施設を離れた。来た時と同じ山道を戻ったが、エリアスはほとんど口を開かなかった。
自分が受けた命令は、間違っていた。そう考えるだけなら、まだできた。情報が誤っていた可能性はある。偵察の結果、兵器ではなかった。それを教会へ報告すればいい。バルテルが間違った情報を掴んだだけなら、それで終わる。
だが、説明がつかないことが多すぎる。教会は、なぜあの場所を正確に知っていたのか。なぜ施設の術式まで把握していたのか。なぜ自分を普通の潜入ではなく、封魔箱へ入れて送り込む必要があったのか。そして、なぜ襲撃者は教会の技術を持っていた。
「考えすぎると転ぶぞ」
前を歩いていたカイが言った。
「転ばない」
「さっきから三回岩に足引っかけてる」
「二回だ」
「数えてんじゃねえか」
エリアスは黙った。
本来なら、任務を終えた後は現地の協力者と接触し、帰路を確保する予定だった。しかし封魔箱は予定された経路を外れ、途中で破損した。自分はカイと共に別の道から施設へ入ったため、指定されていた接触地点にも向かっていない。
今からそこへ行くことも考えた。だが、襲撃者の武器を見た後では、教会が用意した人間に無条件で身を預ける気にはなれなかった。
その考えに自分で気づき、エリアスは眉を寄せた。
教会の人間を警戒している。自分が。
「どうした?」
カイが振り返る。
「何でもない」
「お前、それ多いな」
「何が」
「何でもないって言いながら、絶対何かあるやつ」
「放っておけ」
カイは肩をすくめた。
魔都へ戻ったのは、日が沈んでからだった。
酔月楼ではリンが先に待っており、卓の上には紙が何枚も広げられていた。
「遅かったな」
リンが言う。
「ママに飯残しとけって言っといたぞ」
「自分で頼め」
カイが椅子へ座る。
「で?」
「そっちは?」
エリアスも卓へ近づいた。リンは紙の一枚を指で叩いた。
「黒龍会、ちょっと面白いことになってる」
正式な帳簿ではなく、運送記録の写しだった。黒龍会と取引のある倉庫番に金を払い、見せてもらったらしい。
「ここ数か月、人間界から入ってくる武器が増えてる。剣、弩、鎧、魔術具。表向きは農具とか鉱山道具になってるけど、量が合わねえ」
「軍が買っているのか」
エリアスが聞く。
「軍だけじゃない。国境の自警団とか、魔国側の商会とか、いろんなところに流れてる」
カイが施設で見た印について話すと、リンは頷いた。
「多分その便もこれだな」
エリアスは帳簿を見る。数字だけなら理解できる。取引量は三か月前から急激に増えている。
「人間界から、これほどの武器が?」
「金になるからな」
カイが言う。
「人間側では魔族が侵攻の準備をしていると言われている。その魔族に、人間が武器を売っているのか」
「珍しくもねえよ」
カイは別の紙を引き寄せた。
「敵だから商売しない、なんて真面目な奴ばっかじゃねえ」
リンが椅子の背へ身体を預ける。
「問題はこっち」
一枚の紙を裏返すと、そこにはいくつかの人名と組織名が並んでいた。人間界側の仲介業者らしい。エリアスは一つずつ目を追った。知らない商会名。王国南部の港。帝国の交易会社。そして、一つだけ見覚えのある印があった。
小さな太陽を模した紋章。
「これは……」
エリアスの指が止まった。
リンが見る。
「知ってる?」
「教会のものだ」
正確には、教会そのものの正式紋章ではない。教会が運営する救護院や巡礼宿へ物資を送る際に使われる、流通用の印だった。
「これがどうして黒龍会の帳簿にある」
リンが首を振る。
「そこまでは分からん。相手の名前も偽名っぽい。ただ、この印を使ってる商会から何度か荷が入ってる」
「中身は」
「武器」
エリアスは紙を見たまま動かなかった。
「教会が武器を売っているとは限らない」
ようやく言った。
カイが見る。
「誰もまだそう言ってねえよ」
「この印を勝手に使っている可能性もある」
「あるだろうな」
「教会と関係のある商人が、独断で流している可能性も」
「それもある」
カイは否定しなかった。
だからこそ、エリアスは言葉を続けにくかった。何か一つでも「違う」と切り捨ててくれれば反論できたが、カイはそんなことをしない。可能性は可能性として置いている。
「調べればいい」
カイが言った。
エリアスが顔を上げる。
「何を」
「誰が武器流してんのか。教会なのか、教会の名前使ってるだけなのか。それが分かるまで、お前も決めつけんなよ」
エリアスはしばらくカイを見た。数日前、自分が言った言葉を思い出す。魔族の中で育てば、人間も堕落する。目の前の男は犯罪者だった。その事実は変わらない。だが、自分よりずっと慎重に、見えているものと分からないものを分けている。
「お前に言われるとは思わなかった」
「何が?」
「決めつけるな、と」
「俺、結構まともだからな」
リンが笑う。
「それはない」
「お前は黙ってろ」
メイランが料理を運んできた。
「話は終わった?」
「むしろ始まった」
リンが言う。
「嫌ねえ。食事の時くらい楽しい話しなさいよ」
皿を置きながら、メイランも帳簿を覗いた。
「人間側が魔界へ武器を売って、魔族はそれを買って人間との戦争に備えてるのね」
「まだ戦争になるって決まったわけじゃねえ」
カイが言う。
「そうね。でも、人間側も魔族が攻めてくると思って軍を集めてるんでしょう?」
メイランはエリアスを見る。
「あなたはそう聞いてきたのよね」
「……ああ」
人間側では、魔族軍が侵攻準備を進めている。魔界では、人間軍が国境へ集結している。どちらも嘘ではない。人間の軍は実際に増えており、魔族も武器を買い、避難所を作り、防御結界を整えている。片方だけを見れば、相手が戦争を始めようとしているように見える。
「最初が分からない」
エリアスが言った。
「何が?」
リンが聞く。
「どちらが先に動いた」
部屋が静かになった。
「人間軍が増えたから魔族が備えたのか。魔族が備え始めたから人間軍が増えたのか」
「それ、分かると思う?」
メイランが言う。
「調べる」
「真面目ねえ」
「必要なことだ」
カイはしばらく帳簿を眺めていた。やがて、指先で人間側と魔界側の記録を交互に叩く。
「別に最初なんかなくてもいいんじゃねえの」
エリアスが眉を寄せる。
「どういう意味だ」
「ちょっと兵士増やす。向こうが怖がって武器買う。それ見て、こっちももっと兵士増やす。向こうももっと武器買う」
カイは両手を軽く広げた。
「それ繰り返してりゃ、そのうち誰も止まれなくなる」
エリアスは黙った。それなら、誰か一人が戦争を望んでいなくても起こり得る。
だが。
「武器を売っている者は違う」
「ん?」
「双方が恐れていることを知りながら、そこへ武器を流している者がいる」
カイの目が細くなった。
「そうだな」
帳簿の上には、黒龍会の中継印と、教会に関係する流通印が並んでいる。まだ証拠ではない。教会の誰かが戦争を望んでいると決まったわけでもない。
それでも、カイは低く言った。
「戦争を始めたい奴は、たいてい両方に武器を売る」
エリアスはその言葉を聞きながら、教皇庁で聞いた別の言葉を思い出していた。
正しさは勝利によって証明される。
あの時は、ただ少し引っかかっただけだった。今は違う。
バルテルが示した存在しない兵器。自分を魔界へ送り込んだ封魔箱。魔族に変装し、教会の神聖術を使った襲撃者。避難所に流れ込む人間製の武器。そして、その流通経路に残された教会の印。
一つ一つなら説明はできるかもしれない。すべて偶然なのかもしれない。だが、疑わない理由はもうなかった。
「教会へ戻るのか?」
カイが尋ねた。
エリアスはすぐには答えなかった。数日前なら、迷うことすらなかった。戻って報告する。命令が誤っていたと伝える。襲撃者の件も調査を求める。教会とは、そのために存在する場所だと思っていた。
今も、マティアスやレオンまで疑っているわけではない。教会の全てが敵だとも思わない。それでも、教会の中に自分を欺いた者がいる。そう仮定しなければ説明できないことが増えすぎていた。
「まだ戻らない」
その言葉を口にすると、思っていた以上に重かった。カイは何も言わない。
エリアスは卓の上に置かれた帳簿を見た。
調べる必要がある。魔族のことではない。兵器のことでもない。
自分を育て、自分が正しいと信じ続けてきた場所を。
初めてエリアスは、教会を疑うべき相手として見た。




