第六章 同じ顔の男
魔都へ向かうという話を聞いた時、エリアスは当然のように拒んだ。
襲撃者が去った街道には、まだ焦げた土の臭いが残っていた。傾いた荷車から使える荷物を降ろしながら、カイはエリアスの返事を聞いて顔をしかめた。
「じゃあ好きにしろ」
「そうさせてもらう」
「王国はあっちだぞ」
カイが親指で背後を示した。
「分かっている」
「歩いて?」
「……」
「剣一本で?」
「……」
「国境の検問には何て言うんだ。『教会の秘密任務で密輸されてきました』って?」
「黙れ」
カイが鼻で笑った。
エリアスは反論できなかった。
身体はまだ重い。神術による眠りから予定外に覚醒した影響が残っており、少し動くだけでも脚の奥に鈍い疲労が溜まる。水と食料は封魔箱の中に残っていたが、荷車の一部と共に焼け、無事だった分も多くはない。
何より、ここがどこなのか正確に分からなかった。遠くに魔都が見えている以上、魔界へ入っていることだけは確かだ。しかし自分が眠っている間にどの道を通り、どれだけ移動したのかは知らない。人間界へ戻る道を尋ねようにも、道行く者のほとんどは魔族だろう。
それでも、この男たちについて行くという選択は到底受け入れ難かった。先ほどまで殺し合っていたのだ。しかも一人は明らかな魔族で、もう一人は自分と同じ顔をした正体不明の男だった。
「とりあえず剣寄越せ」
カイが手を出した。
「断る」
「じゃあ置いてく」
「好きにしろ」
「さっきそれで困っただろ」
エリアスは剣を握り直した。
「お前たちを信用していない」
「奇遇だな。俺もだよ」
少し離れたところで、リンが壊れた荷車を調べながら笑った。
「仲良くなるの早いな」
「どこが」
「どこが」
二人の声が重なった。
リンが吹き出す。
「そこ」
エリアスはますます不愉快になった。
襲撃者は三人とも死んだ。教会の神聖術を施された武器と、外した偽の角だけはカイが回収し、死体は魔軍の巡回に見つかるよう街道脇へ残してきた。
人間が魔族に変装し、教会の術を施した武器で自分たちを襲った。その事実を考えれば、この場でカイたちと別れるべきではないことはエリアスにも分かっていた。
教会へ戻り、報告する必要がある。だが、その教会の技術が襲撃者の手に渡っていた。
偶然なのか、盗品なのか。考えれば考えるほど、廃村から続いていた小さな違和感が形を持ちはじめる。エリアスはその感覚を押し込めた。
今はまず、生きて帰ることだ。
「魔都まで行く」
エリアスが言った。
カイが眉を上げる。
「へえ」
「ただし、お前たちを信用したわけではない」
「安心しろ。俺もお前を信用してねえ」
「剣は渡さない」
「じゃあ鞘ごと縛る」
「断る」
「面倒くせえな、お前」
結局、剣はエリアスが持ったままになった。ただし抜けばリンが魔術で腕を焼く、という条件を勝手につけられた。
壊れた荷車は捨て、馬だけを連れて魔都へ向かった。歩き始めてしばらくすると、山の裂け目は急速に大きくなった。
遠くから見えていた魔導灯が、ひとつずつ街の形を持ちはじめる。断崖の両側に建物が積み重なり、その間を細い橋が何本も渡っている。峡谷の底には川が流れ、その脇を街道が奥へ伸びていた。
入口近くからすでに人が多い。角を持つ者、尖った耳の者、大きな牙を隠そうともせず笑う者。人間に近い姿の者もいる。エリアスは無意識に身体を強張らせた。
教会で教えられてきた魔界とは、もう少し暗く、荒れ果てた場所だった。魔族は秩序を持たず、本能と欲望のまま争い、人間の文明を破壊しようとしている。そう教わった。
だが、目の前には商店がある。荷車が行き交い、店先では客と商人が値段を巡って口論している。子供が走り回り、橋の上では洗濯物が風に揺れていた。
もちろん、それだけで何かが証明されるわけではない。文明があるから善良とは限らないし、人間にも犯罪者はいる。その逆も同じだ。
エリアスはそこで思考を止めた。
逆も同じ。
その言葉が自分の中から出てきたことが、少し気になった。
「何きょろきょろしてんだ」
前を歩いていたカイが振り返った。
「見ていただけだ」
「魔都初めてか」
「当然だ」
「そんな珍しい?」
「……思っていたのとは違う」
「どんなの想像してた?」
リンが横から聞く。
「もっと荒廃していると」
「ああ、なるほど」
リンが笑う。
「その辺で魔族同士が殺し合って、人間の骨で家でも建ててると思ってた?」
「そこまでは言っていない」
「でも近い感じで思ってたろ」
「……」
否定できなかった。
カイが呆れたように鼻を鳴らした。
「教会って暇なんだな。そんなことまで教えてんのか」
「教会を侮辱するな」
「侮辱されて困るようなこと教えてんのはそっちだろ」
エリアスは睨んだが、カイはもう前を向いていた。
魔都の西門を抜ける時、カイとリンは慣れた様子で魔軍の警備兵と話した。荷車を失った理由は「盗賊に襲われた」で通したらしい。完全な嘘ではない。
エリアスについて尋ねられると、カイは少しも迷わなかった。
「荷主」
「その格好で?」
警備兵がエリアスの服を見る。
「趣味悪いだろ」
「誰の趣味が悪い」
エリアスが低く言う。
警備兵が二人の顔を見比べた。
「兄弟?」
「違う」
「違う」
また声が重なった。
警備兵は首を傾げたが、それ以上追及しなかった。
街へ入ると、魔導灯の光が一段と強くなった。赤、青、紫。壁から突き出した看板には見慣れない文字が浮かび、店先の鍋からは湯気が上がっている。香辛料、酒、煙草、焼いた肉、薬草と、いくつもの匂いが狭い通りに混ざっていた。
エリアスは歩きながら周囲を警戒していたが、意外なほど誰も自分を気にしなかった。むしろ、カイと並んで歩いているせいで何度か振り返られ、そのたびにカイの機嫌が悪くなる。
「見るな」
「私に言うな」
「お前の顔のせいだろ」
「それはこちらの台詞だ」
リンが後ろでずっと笑っていた。
やがて三人は、赤い灯りの下に『酔月楼』と書かれた店へ入った。昼を少し過ぎた頃だったが、中にはすでに何人か客がいる。酒を飲んでいる者もいれば、遅い食事を取っている者もいた。
カウンターの向こうにいた女が顔を上げる。長い黒髪を高く結い上げ、額から小さな角が二本伸びている。鮮やかな赤い唇が、カイを見て笑った。
「おかえり。随分早かったわね」
「ちょっと予定変わった」
「荷物は?」
「壊れた」
「まあ」
女はそこでエリアスを見た。一度カイを見て、もう一度エリアスを見る。それから、心底楽しそうに笑った。
「なにそれ」
「俺が聞きてえよ」
「カイ、あなた知らない間に増えたの?」
「増えてねえ」
「弟?」
「違う」
エリアスが答える。
女の目が細くなる。
「喋り方は全然違うのね」
「メイラン、面白がるな」
「無理よ。こんなの面白がらずにいられる?」
どうやら、この女がメイランらしい。
リンは当然のように空いている席へ座った。
「腹減った。何かある?」
「あなたたち、襲われたんでしょう?」
「あるなら食う」
「心配して損したわ」
メイランは呆れながら奥へ声をかけた。エリアスは店の中を見回した。酒場、魔族、昼間から酒を飲む客、運び屋を名乗るカイとリン。どれも、エリアスがこれまで身を置いてきた場所とは縁遠いものばかりだった。
「ここが根城か」
「言い方」
カイが椅子を引いた。
「座れよ」
「結構だ」
「じゃあ立ってろ」
エリアスは立ったままカイを見た。
「お前は何をしている」
「何って?」
「職業だ」
「運び屋」
「何を運ぶ」
「金になるもの」
「密輸も?」
「する」
あまりにもあっさり答えられ、エリアスは言葉を失った。
「違法だろう」
「こっちじゃ合法のもある」
「人間界では犯罪だ」
「ここ魔界」
「人間界にも出入りしていると言った」
「してるな」
「なら犯罪者ではないか」
カイは椅子へ座り、メイランが置いた水を飲んだ。
「まあ、そういう仕事もしてる」
「恥じる様子もないのか」
「何を?」
「法を破っている」
「法なら何でも正しいのか?」
エリアスは眉を寄せた。
「少なくとも、守るべき秩序だ」
「へえ」
カイの口元に、嘲るような薄い笑みが浮かんだ。
「やはり魔族の中で育てば、人間も堕落するのだな」
エリアスが口にした瞬間、店の空気が少し変わった。リンの表情から笑みが消え、メイランも何も言わない。カイだけが、しばらくエリアスを見ていた。
怒るかと思った。
だが、カイは静かに水の杯を置いた。
「そうかもな」
「何?」
「俺は密輸もするし、盗品だって運んだことある。殴った相手の数なんか覚えてねえし、金次第じゃ危ねえ場所にも入る」
カイは椅子の背にもたれた。
「でも、お前らは魔族を殺す時に神様の名前をつければ、犯罪じゃなくなるんだな」
エリアスの胸の奥を、何かが刺した。
廃村が浮かんだ。剣を持っていた魔族、倉庫の食料、子供服、背中を斬られた女。そして、その胸にしがみついていた小さな角の子供。
「任務だった」
エリアスが言う。
「俺のも仕事だ」
「同じにするな」
「どこが違う?」
「我々は人を守るために――」
「俺だって守る時くらいある」
カイの声が少し低くなる。
「自分が正しいって顔して殺したことはねえけどな」
エリアスは答えられなかった。答えなければならないはずだった。教会の教えなら、いくらでも言葉がある。魔族は人類の敵。秩序を乱す存在。女神エルシアが人間に与えた世界を脅かすもの。
だが、それを口にしようとすると、廃村の子供が邪魔をした。
「その辺にしなさい」
メイランの声だった。
穏やかだが、有無を言わせない響きがある。
「せっかく同じ顔が二つもあるのに、片方がすぐ血まみれになったらもったいないでしょう」
「止める理由それ?」
リンが言う。
「他に必要?」
「いや、ないです」
店の奥から重い足音がし、大柄な男が姿を現した。灰黒い短髪。頭の両側から大きな角が湾曲して伸び、左の眉から頬へ古い傷が走っている。ガオだった。
「戻ったのか」
低い声で言いながら、最初はカイを見ていた。次にエリアスへ視線が移り、そこで男の足が止まった。
メイランが笑う。
「驚いたでしょう?」
「……」
ガオは答えなかった。
カイが立ち上がる。
「ガオ?」
「そいつは誰だ」
声が変わっていた。先ほどまでの落ち着いた調子が消えている。
「だから俺も知らねえって。箱の中から出てきた」
「箱?」
「黒龍会の荷物。襲われて壊れたら、こいつが入ってた」
ガオはエリアスを見たまま動かない。その視線に、エリアスは警戒した。敵意ではない。驚きだけでもない。何かを確かめようとしている。
「名前は」
ガオが聞いた。
「エリアス」
「歳は」
「二十三だ」
カイが振り向く。
「は?」
エリアスも見る。
「何だ」
「俺も二十三」
「だから何だ」
「いや……」
カイがガオを見る。ガオは黙ったままだった。
「ガオ」
カイが呼ぶ。
「何か知ってんのか」
しばらく返事はなく、メイランも笑うのをやめていた。
ガオは店内の客へ目を向けた。
「奥へ行くぞ」
「ここじゃ駄目?」
リンが聞く。
「駄目だ」
四人は店の奥にある部屋へ移った。小さな卓と椅子があるだけの部屋だった。メイランが扉を閉めると外の音が遠くなり、エリアスは出口に近い場所へ立った。ガオは座らなかった。
「カイ」
「何だよ」
「お前を拾った時の話はしたな」
「何回か聞いた」
エリアスはカイを見る。
拾った。人間であるカイが、なぜ魔族の中で育ったのか。その理由を初めて聞くことになる。
「国境近くの旧街道だった。魔界側へ少し入った場所だ」
ガオは淡々と話し始めた。
「二十三年前、夜明け前だった。仕事帰りに赤ん坊の泣き声が聞こえた。道から外れた林の中に、お前がいた」
カイは黙って聞いている。すでに知っている話なのだろう。
「布に包まれて、地面に転がされてた。近くに大人はいなかった。人間の赤ん坊だとすぐ分かった」
ガオの目がエリアスへ向いた。
「だが、妙なことがあった」
カイが眉を寄せる。
「妙なこと?」
「そこは聞いてねえのか」
リンが言う。
「知らねえ」
ガオは少し間を置いた。
「血のついた布が、もう一枚あった」
部屋が静かになった。
「お前を包んでいたものと同じ布だ。大きさも縫い方も同じだった。赤ん坊を包むには十分な大きさだったが、中には誰もいなかった」
カイの表情が変わる。
「待てよ」
ガオは続けた。
「地面も荒れてた。人が争った跡があって、血も残ってた。足跡は雨でほとんど消えていたが、赤ん坊が一人だけ捨てられたにしては、荷物が多すぎた」
「もう一人いたってことか?」
カイが聞く。
「そう思った」
初めて、ガオの声に迷いが混じった。
「周囲を探した。仲間にも探させた。街道沿いの集落にも聞いたが、もう一人の赤ん坊は見つからなかった」
カイは何も言わず、エリアスも動けなかった。
二十三年前。同じ年齢。同じ顔。片方は国境近くの魔界で拾われた。
もう片方――自分は。
「私は教会で育った」
声が思ったより低く出た。
ガオが見る。
「両親については知らない。幼い頃から教会にいた。捨て子だったと聞いている」
メイランがゆっくり二人を見比べた。さっきまでなら笑っていたはずなのに、今は笑っていない。
「偶然にしては、出来すぎてるわね」
リンが腕を組む。
「顔が似てるどころじゃないしな」
「幻術でもない」
エリアスが言った。
カイが視線を向ける。
「分かんのか?」
「神聖力で確認した」
「人の顔に勝手に何してんだ」
「必要だった」
「一言言えよ」
「言えば許可したのか」
「しねえよ」
「なら同じだ」
「やっぱお前嫌いだわ」
そのやり取りにも、いつもの軽さはなかった。
ガオが椅子へ腰を下ろした。
「双子だったなら、話は通る」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
双子。
エリアスはカイを見た。カイもこちらを見ている。同じ金髪。同じ青みがかった灰色の目。同じ年齢。同じ顔。教会に育てられた自分と、魔族に拾われた男。
今朝まで、互いの存在さえ知らなかった。
「冗談だろ」
カイが呟いた。
誰も笑わなかった。
エリアスはこれまで、自分の出生について深く考えたことがなかった。教会に拾われ、女神に仕える者として育てられた。それで十分だと思っていた。親が誰であろうと、自分が何者であるかには関係がない。そう思っていた。
だが今、目の前には自分とまったく同じ顔をした男がいる。魔族の街で育ち、密輸を仕事にし、自分とはまるで違う人生を歩んできた男が。もし本当に双子なのだとしたら、なぜ二人は別々になり、なぜ自分だけが教会で育てられたのか。そして今になって、なぜその自分が教会の命令で封魔箱に入れられ、カイのもとへ運ばれてきたのか。
偶然。そう考えるには、出来すぎていた。
エリアスは初めて、自分自身について疑問を抱いた。




