第五章 箱の中の男
限りなく黒に近い荷物だと、気づいた。
箱の中から音がした翌朝、カイは届け先の変更を記した紙をもう一度広げていた。
当初の目的地は、魔都から魔界の奥へ二日ほど進んだ場所にある。魔軍の基地に近く、普段ならわざわざ王国側のラーデンを経由する必要などない。それなのに黒龍会は、魔都の西門で荷を受け取ったカイたちをそのまま街へ入れず、一度王国側の検問を越えさせた。
昨夜届いた新しい座標を見れば、その理由が分かる。
「……最初からこっちへ運ばせるつもりだったんじゃねえか?」
カイが言うと、リンも地図を覗き込んだ。
「ラーデンまで出てりゃ、このまま外から回れるな」
「ああ。魔都を通るより早い」
「じゃあ何で最初から言わねえんだよ」
「知られたくなかったんだろ。俺たちにも」
当初の届け先は、ただの偽装だったのかもしれない。そう考えると、昨夜聞いた箱の中の音まで違って見えてくる。
人身売買ではない。子供でもない。ジンは確かにそう言った。だが、人間が入っていないとは言っていない。
「新しい届け先には行かねえ」
カイが地図を畳んだ。
リンが眉を上げる。
「じゃあどうする?」
「魔都に戻る」
「黒龍会の指示無視して?」
「ジンに直接聞く。あいつが何も知らねえなら、それから考える」
「ガロンにばれたら?」
「ばれないように戻る」
リンは少し黙ったあと、荷台の封魔箱を見た。
「十倍って、やっぱ安かったな」
「そうだな」
「三割返さねえぞ」
「そこは返せよ」
二人は新しい目的地とは反対へ進路を変えた。正規の街道を使えば黒龍会に動きを知られる可能性がある。そこで国境沿いの旧道から魔界へ入り、岩山の間を抜けて西門へ回り込むことにした。
昼を過ぎる頃には、遠くに巨大な山の裂け目が見えていた。魔都は、もう目の前だった。
「ガオに怒られるな」
リンが楽しそうに言う。
「お前も一緒に怒られろ」
「俺は三割しか関係ない」
「責任まで三割にすんな」
「じゃあ三割だけ殴られる」
「器用だな」
カイは手綱を引いた。馬が速度を落とす。
「どうした?」
リンが前を見る。
街道の先に倒木があった。太い木が一本、道を完全に塞いでいる。周囲は岩山と低い林に囲まれ、荷車が迂回できる幅はほとんどない。
リンの表情から笑みが消えた。
「自然に倒れた感じじゃねえな」
「ああ」
幹の切断面は新しく、斧か何かで切られている。
カイは手綱をリンへ渡した。
「荷車見てろ」
「一人で行くな」
「見るだけだ」
「お前の『見るだけ』は信用ならん」
リンも御者台を降りた。
カイが腰の短剣へ手を伸ばした、その時だった。空気が鳴った。
「伏せろ!」
リンが叫ぶ。
二人が地面へ飛び込むのとほぼ同時に、黒い矢が御者台を貫き、馬が悲鳴を上げた。続けて左右の岩陰から矢が飛んでくる。
カイは荷車の車輪の陰へ滑り込んだ。
「何人?」
「右に四、左に三……後ろにもいる!」
リンの掌から青白い光が走った。細い魔力の刃が飛び、岩陰から身を乗り出した男の弓を切り飛ばす。
「盗賊にしちゃ多くねえか?」
「しかも準備良すぎだろ!」
黒い外套を纏った連中が、左右から街道へ降りてくる。角があり、牙の見える者もいた。見た目だけなら魔族だった。
だが、カイは一人目が剣を抜いた瞬間に違和感を覚えた。構えが違う。魔都の喧嘩屋でも、荒野の盗賊でもない。足を揃え、剣を身体の中心へ寄せ、間合いを測りながら二人一組で距離を詰めてくる。
「リン」
「ああ」
「こいつら盗賊じゃねえ」
男の剣が振り下ろされた。
カイは横へ避け、腕を掴んで身体を入れ替えた。そのまま肘を首へ叩き込み、足を払う。倒れた男の剣が地面へ転がった。細身の長剣で、鍔は簡素な造りをしており、何の紋章もない。
だが、握りの形に見覚えがあった。人間界の兵士がよく使う型に近い。考える暇もなく、背後から別の男が斬りかかってくる。
カイは短剣で受けた。金属音が響く。
「重っ……!」
力が強い。魔族なら珍しくないが、剣の振り方はやはり妙だった。筋力任せではなく、訓練された動きだった。
リンが二人を魔術で弾き飛ばす。
「カイ! 荷車!」
別の三人が封魔箱へ向かっていた。殺しに来たのではない。荷を狙っている。カイは一人の背中へ短剣を投げたが、男は振り返ってそれを弾いた。
その隙に距離を詰め、腹へ蹴りを入れる。
「触んな!」
男が呻きながら後退する。その横から、別の襲撃者が杖を向けた。短い詠唱とともに、赤い光が杖先へ集まる。
「魔術来るぞ!」
リンが叫ぶ。
火球が飛んだ。狙いはカイだった。その直前、リンの放った魔力が術者の肩を打った。杖先がぶれ、火球の軌道が大きく逸れる。
「まずい!」
カイが荷車へ飛びつく。
火球が箱の側面へ直撃した。爆発音と共に熱風に身体を叩かれ、カイは地面へ転がった。耳鳴りがし、視界が白く霞む。
「カイ!」
リンの声が遠く聞こえた。
「生きてる!」
カイは身体を起こした。
荷車の片側が砕け、車輪が傾き、封魔箱も斜めになっている。箱そのものは原形を保っているが、側面を覆っていた黒い木材に大きな亀裂が走っていた。表面に刻まれた術式の一部が消え、残った文字が不規則に明滅している。
「おい……」
昨夜、中に何かがいた。もし人間なら。カイが箱へ近づこうとした瞬間、矢が足元へ突き刺さった。
「よそ見すんな!」
リンが男の一人を蹴り飛ばす。
襲撃者はまだ六人以上残っている。
「箱壊したぞ、あいつら!」
「奪う気じゃなかったのかよ!」
「知らねえよ!」
カイは短剣を拾った。正面から二人、右から一人が迫り、その後ろでは杖を持った男がもう一度術式を組んでいる。
リンが魔力弾を撃つと、杖の男が障壁を張った。青白い光が一瞬、障壁の表面を走る。
カイは目を細めた。
「……何だ、今の」
魔族の障壁にしては、妙に整いすぎている。六角形の光が重なり、中心から外へ規則的に広がっていく。見たことがある気がしたが、どこで見たのか思い出せない。
背後で、木が軋むような音がした。
封魔箱からだった。亀裂が広がり、箱の表面に刻まれた術式がひとつずつ消えていく。その時、内側から何かが強く蓋を叩いた。
全員の動きが一瞬止まった。
「……やっぱ人入ってんじゃねえか」
リンが呟いた。
次の瞬間、箱の蓋が跳ね上がった。正確には開いたのではない。封印術式が破損し、留め金が弾けたのだ。白い光が溢れ、襲撃者たちが一斉に後退する。
カイも腕で目を覆った。熱くはないが、肌が刺されるような感覚がある。魔力とは違う、魔界では滅多に感じない力。
神聖力。
「は?」
箱の中から、人の手が伸びた。
***
最初に戻ってきた感覚は痛みだった。身体中が重く、頭の奥が鈍く脈打っている。
エリアスは息を吸った。空気が違う。乾いていて、土と草、それに何か焦げた臭いがした。
何が起きた。
自分は封魔箱の中にいたはずだ。古代遺跡へ到着するまで、眠っているはずだった。目を開くと、壊れた箱の隙間から眩しい光が差し込んでいる。
封印が解けたのか。
いや、違う。
箱が壊れている。
エリアスは身体を起こした。腕に力が入らない。神術による長い眠りから無理やり引き戻されたせいか、意識がまだ身体についてこない。それでも剣へ手を伸ばした。
箱の内側に固定されていた剣は残っていた。柄を掴むと、外から声が聞こえる。魔族の言葉だった。訓練で覚えた程度だが、聞き取れる。
戦闘が起きている。
何者かが襲撃を受けているらしい。
エリアスは蓋を押した。本来なら内側からは開かないはずだが、封印が破壊されているため動く。もう一度力を込めると留め金が外れ、蓋が跳ねた。
白い光が視界を覆った。
外へ出ると膝が揺れ、エリアスは剣を地面へついて身体を支えた。それから顔を上げる。
遠くに巨大な裂け目が見えた。山が二つに割れたような峡谷。その内部に、赤や青の光が無数に浮かんでいる。
初めて見た。
それでも、分かった。
魔都。
自分はもう魔界にいる。
「は?」
声がした。
エリアスは振り向いた。金髪の男が立っていた。短い髪に、青みがかった灰色の目。
一瞬、理解できなかった。
自分を見ている。いや、違う。鏡ではない。服が違う。髪型も違う。相手の髪は短く乱れていて、教会の制服ではなく黒っぽい旅装を着ている。
それでも、顔が同じだった。
鼻も、目も、輪郭も。
自分とまったく同じ。
「……何だ、お前」
男が言った。
魔族の言葉だった。
エリアスの思考が一気に冷えた。
魔族の擬態か、幻術。
自分の姿を写した。
何のために。
迷う必要はなかった。エリアスは剣を抜いた。
「うおっ!?」
男が飛び退く。
刃が胸元を掠めた。
「待て! 何すんだ!」
エリアスは踏み込んだ。
二撃目を、男が短剣で受ける。金属音が鳴った。
「魔族め」
「は?」
男の顔が歪む。
「誰が魔族だ!」
「その姿を解け!」
「何の話だ!」
エリアスは剣を振るったが、男は避けた。動きが速い。魔力による強化ではなく、身体の使い方そのものがうまい。エリアスの剣を最小限の動きで避け、懐へ入ろうとしてくる。
「カイ! そいつ何だ!?」
橙色の髪の魔族が叫んだ。
小さな角と牙。やはり魔族だ。
「俺が聞きてえよ!」
カイと呼ばれた男が叫び返す。
エリアスは一瞬だけそちらへ意識を向けた。その隙にカイが手首を掴む。
「落ち着け!」
エリアスは肘を振るい、カイが頭を下げる。続けて膝を入れようとしたが避けられ、距離が開いた。
互いに構える。
顔が同じだ。
見るたびに、不快な感覚が増していく。
「俺の顔で何をしている」
エリアスが言う。
「それこっちの台詞だ!」
カイが怒鳴る。
「人の荷物から俺の顔した奴が出てきて殺しに来てんだぞ!」
「荷物?」
「お前だよ!」
理解できない。自分は教会の任務で潜入した。この男は魔族と行動している。ならば敵だ。エリアスが剣を握り直した、その時、横から殺気が来た。
「エリアス――」
誰かが自分の名を呼んだように聞こえた。
違う。聞き間違いだ。
エリアスは反射的に身を伏せた。矢が頭上を通り、さっきまで戦っていたらしい黒装束の男が次の矢を番える。
エリアスは飛んできた矢を剣で弾いた。
「今それどころじゃねえだろ!」
カイが叫ぶ。
襲撃者が二人、同時に斬りかかってくる。エリアスは一人の剣を受け、体勢を崩したところへ蹴りを入れた。もう一人が背後へ回ると、カイが割り込んで短剣で刃を受ける。
「借りだからな!」
「頼んでいない!」
「じゃあ今死ね!」
エリアスは振り返りざまに剣を振り、カイの背後へ迫っていた男の肩を斬った。
「……今のも頼んでねえ」
「なら死ね」
「お前、本当に性格悪いな!」
何を言っている。それはこっちの台詞だった。
しかし、考える余裕はない。襲撃者たちは明らかに自分も標的にしている。封魔箱から出た瞬間に攻撃の向きが変わったのなら、彼らは自分が何者か知っているのかもしれない。少なくとも、箱の中身が人間だと知っていた可能性はある。
「右!」
カイが叫ぶ。
エリアスは考える前に右へ剣を振った。襲撃者の刃とぶつかるのと同時にカイが男の足を払い、倒れたところへエリアスが柄を叩き込む。男はそのまま意識を失った。
「合わせられるじゃねえか!」
「話しかけるな」
「可愛くねえな!」
橙色の髪の魔族――リンが、二人の頭上へ魔術を撃った。青い光が弧を描き、岩場の上にいた弓兵を吹き飛ばす。残った襲撃者たちの動きが鈍った。
「逃げるぞ!」
誰かが叫んだ。
人間の言葉だった。
エリアスはそちらを見た。襲撃者の一人が魔界の奥へ走り、カイが追おうとする。
「待て!」
エリアスが止めた。
「何だよ!」
「罠かもしれない」
「さっきまで俺殺そうとしてた奴に言われたくねえ!」
それでもカイは止まった。
襲撃者たちは森の奥へ消え、追撃はしなかった。残ったのは倒れた者が三人で、もう既に息はない。
辺りが静かになり、風の音が戻ってきた。遠くには魔都の光が見えている。エリアスは剣を下げず、カイも短剣を握ったままだった。
リンが二人を交互に見る。
「……なあ」
「何だ」
カイが答える。
「お前ら、喧嘩する前に鏡見た方がいいぞ」
「うるせえ」
エリアスは倒れた襲撃者へ近づいた。短い黒角があり、耳も尖っている。魔族に見えるが、先ほど人間の言葉を使った。国境周辺なら人間語を話せる魔族も多いため、それだけならおかしくない。
地面へ落ちていた剣を拾う。軽い。人間用の剣だ。柄を確かめると何の紋章もなかったが、鍔の下に小さな刻印がある。
エリアスの指が止まった。
「……これは」
カイが警戒したまま見る。
「何だ」
エリアスは答えず、指先にわずかな神聖力を流した。剣の表面に薄い白光が走り、刻印が浮かび上がる。
小さな祝福の術式。刃を魔力障壁へ通しやすくするための補助術式で、教会戦士なら誰でも知っているものだった。
「おい」
カイが眉を寄せる。
「今の光、何だ」
エリアスは剣を見つめた。
あり得ない。この術式は魔族が使うものではない。人間の神聖術、それも教会で武具へ施すものだ。
「どこで手に入れた」
倒れている男に聞いても答えるはずはない。
カイが近づく。
「何なんだよ、それ」
「教会の術式だ」
「教会?」
「人間の教会が、兵士や戦士の武器に施す神聖術だ」
リンの表情が変わった。
「魔族の盗賊が?」
「分からない」
エリアスは男の角へ目を向け、手を伸ばした。触れてみると硬いが、根元がおかしい。皮膚から生えているのではなく、何かで貼りつけられている。
引くと、角が外れた。
リンもカイも黙った。
続いて尖っていた耳へ手を伸ばすと、輪郭を覆っていた薄い膜が剥がれ、その下から人間の耳が現れた。
誰もすぐには言葉を出さなかった。
「……人間じゃねえか」
リンが低く言った。
エリアスは立ち上がった。
頭の中にいくつもの疑問が浮かぶ。なぜ人間が魔族へ変装している。なぜ教会の神聖術を施した武器を持っている。なぜ自分の入った封魔箱を襲った。そもそも、この者たちは自分が中にいることを知っていたのか。
「お前」
カイの声がした。
エリアスが振り返る。
近い。
改めて見ると、戦闘中には考える余裕のなかった細部までよく見えた。短い金髪。青みがかった灰色の目。汗と煤で汚れている。自分とは服装も髪型も、表情も違う。それなのに、顔そのものは同じだった。
カイも何も言わず、さっきまでの苛立ちを消してこちらを見ている。
リンが横から二人を見比べる。
「……これ、幻術じゃねえよな」
カイがエリアスから目を離さず言った。
「俺は使ってねえ」
「そいつは?」
「知らねえよ」
エリアスもカイを見た。魔族ではない。少なくとも角も牙もなく、先ほどの動きにも魔力を使った形跡はなかった。何より、幻術なら神聖力で見抜ける。
エリアスは目に力を集めた。何も変わらない。目の前の男はそのまま、自分と同じ顔をしていた。疑いようがないほどに。
カイが先に口を開いた。
「……お前、何者だ」
エリアスはすぐには答えなかった。同じ問いが、自分の中にもあった。
「エリアス」
名だけを告げた。
カイの眉が動く。
「エリアス?」
「そうだ」
短い沈黙のあと、エリアスも尋ねた。
「お前は」
男はまだ警戒したまま、短剣を下ろした。
「カイ」
二人はもう一度、互いの顔を見た。
魔都の赤い灯りが、遠くで揺れていた。




