第四章 国境のパン屋
西門の外で待ち始めてから、荷が届いたのは夜半を少し過ぎた頃だった。
西門の外では、背後の裂け目から魔都の赤や青の魔導灯がかすかに見えるだけで、街道には人影がほとんどない。時折、荷車の車輪が石を噛む音だけが夜気の中へ響いた。
カイとリンの前に止まったのは、二頭立ての古びた荷車だった。御者台には灰色の外套を着た男が一人座っていたが、顔を深く隠していて、挨拶らしい挨拶もしなかった。
「黒龍会から聞いてる」
カイが言う。
男は一度だけ頷いた。
「荷は後ろだ。受け取りの印を」
「愛想ねえな」
リンが呟く。
「お前が言うな」
「俺は愛想だけなら魔都でも上位だぞ」
「自称だろ」
荷台には黒布をかけられた大きな箱が一つ載っていた。布を外すと、人一人が横になれるほどの長さがある。黒い木材で組まれ、角には金属板が打たれていた。表面には細かな術式が走っているが、カイには見覚えのない形式だった。
触れようとすると、指先に微かな抵抗を感じる。
「封魔箱か」
リンも覗き込む。
「それも結構な上物じゃね?」
「多分な」
外へ漏れる魔力がほとんどない。中身が魔道具なのか、呪物なのか、あるいは何か別のものなのかさえ分からなかった。
カイは荷車の男を見る。
「届け先は?」
男は紙片を差し出した。
「そこに書いてある」
「中身について聞いても?」
「知らない」
「本当に?」
「俺は運んできただけだ」
嘘をついているようにも見えなかった。あるいは、そういう顔を作るのが上手いだけかもしれない。カイは受け取りの印を押し、紙を返した。
男はそれ以上何も言わず、荷車を反転させて人間界側へ戻っていった。灯りも持たず、街道の闇へ溶けていく。
リンがその背中を見送りながら口笛を吹いた。
「気味悪ぃ仕事」
「十倍だからな」
「三割は俺のな」
「まだ言ってんのか」
「契約は大事だぞ、カイ坊」
「誰が坊だ」
二人で箱を自分たちの荷車へ移す。思ったより重かった。
「魔力結晶じゃねえな」
リンが言う。
「なんで分かる」
「結晶ならもっと重い。これ、中で重さが偏ってる」
「よく分かるな」
「長年の運び屋の勘」
「さっきからちょっと格好つけてる?」
「今日は美人に会える予定だから」
カイは無視して箱を固定した。
最初の届け先は、魔都からさらに奥へ二日ほど進んだ場所だった。そこまでなら普段の仕事で何度か使った道がある。問題は、その前に一度、王国側の国境都市を経由する必要があることだった。
黒龍会から指定された経路は妙だった。
人間界側から運ばれてきた荷をいったん魔界で受け取ったあと、再び王国側の国境都市へ回し、そこから別の密輸路へ乗せ直す。追跡を避けるために何度も持ち主を変えるやり方自体は珍しくないが、今回の荷は魔界へ持ち込むために人間側から運ばれてきたものだ。せっかく国境を越えた荷を、なぜまた人間界へ戻すのか。
「考えたところで金にはならんぞ」
リンが御者台へ乗り込んだ。
「分かってる」
「分かってねえ顔だな」
「お前は何も考えなさすぎだ」
「考えてるよ。昼飯どこで食うかとか」
「幸せそうで何よりだ」
夜が明ける前に魔都を離れた。街道を西へ進むと、荒れた岩場が次第に低い丘陵へ変わっていく。魔界と人間界の間に、壁や深い谷があるわけではない。国境を示す石柱や見張り所はいくつかあるが、街道から外れれば森も川もそのまま続いている。だから昔から、完全に行き来を止めることなどできなかった。
表向き、人間界と魔界の往来には厳しい制限がある。教会は魔族との無許可の交易を禁じ、王国も国境を越える商人には許可証を求めている。魔界側にも魔軍の検問所がある。
それでも商人は道を見つける。山道を使う者もいれば、衛兵へ金を渡す者もいる。魔族なら角や牙を魔術で隠して人間の商人として通ることもあったし、人間の方から魔界へ薬や酒を売りに来ることもあった。
禁止されているから、なくなるわけではない。値段が上がるだけだ。
昼過ぎ、二人は国境都市ラーデンへ入った。
王国領に属する小さな町だが、街道が交わる場所にあるため規模の割に人が多い。城壁は低く、門の前では王国兵が荷を確認していた。
カイとリンは少し手前で荷車を止めた。
「どうする?」
リンが聞く。
「いつも通り」
「俺、今日は人間の商人でいい?」
「お前に任せる」
「じゃあ若くして成功した香辛料商人」
「その服で?」
「人は服じゃない」
「角隠せ」
リンが面倒そうに指を鳴らした。橙色の髪の間から伸びていた小さな角が、薄い光に包まれて消えた。口を閉じていれば牙も目立たない。カイは元々人間なので、そのままでいい。荷台の封魔箱には布をかけ、その上へ干した薬草の束と小麦袋を積んで隠した。
門番は荷をざっと確認しただけだった。
「香辛料か?」
「薬草と乾燥肉だよ。北から仕入れてきた」
リンがにこやかに答える。
「許可証」
「どうぞ」
偽造ではなく、表の仕事用に持っている正規の商人証だった。カイは運び屋だが、全ての仕事が密輸というわけではない。むしろ合法の荷を運んでいる時間の方が長い。
門番が荷台へ視線を向け、一瞬だけ布の下の箱に目を止めた。カイの背中に力が入る。
「その下は?」
「空箱」
リンが答える。
「帰りに酒を入れる」
「酒?」
「この町の麦酒、美味いからね」
門番は興味を失ったように手を振った。
「通れ」
町へ入った途端、リンが小さく息を吐いた。
「酒入れるって何だよ」
カイが言う。
「咄嗟に出た」
「本当に入れたら箱開けることになるぞ」
「じゃあ横に積む」
「買う気かよ」
「せっかく来たし」
ラーデンは人間の町で、石造りの二階建てが並び、広場の中央には小さな教会がある。魔都ほど派手な灯りはなく、看板も木や鉄で作られていた。
ただ、国境の町らしく、よく見れば魔界由来のものがあちこちに混ざっている。露店には魔界産の赤い香辛料が並び、薬屋の軒先には乾燥させた魔獣の骨が吊るされている。
人間の商人に混じって、角を完全には隠さず布で巻いただけの魔族らしき男が歩いていた。見て見ぬふりをする者もいれば、露骨に顔をしかめる者もいる。それでも商売は続いている。
「変な町だよな」
リンが言う。
「何が」
「教会あるくせに、魔族相手に商売してる」
「お前もしてるだろ」
「俺は信仰心ゼロだから」
「知ってる」
目当ての店は町の南側にあった。『麦穂亭』という、名前だけ見れば宿か酒場のような小さなパン屋だ。
店先には焼きたてのパンが並び、窓から小麦とバターの匂いが漂っている。その横には、この辺りでは珍しい黒い胡椒や乾燥香草、魔界産の辛味粉まで小瓶に入れて売られていた。
扉を開けると鈴が鳴る。
「いらっしゃい――あ」
棚の向こうにいた娘が顔を上げた。赤みのある栗色の髪を肩の辺りで緩く束ね、緑がかった茶色の目をしている。カイを見るなり、少し呆れた顔になった。
「また来たの?」
「客に対する第一声じゃねえだろ」
「普通のお客さんならもっと歓迎する」
「俺も普通の客だ」
「前に裏口から荷物置いてそのまま逃げた人が?」
「あれは急いでたんだよ」
「代金受け取らずに?」
「あとで取りに来ただろ」
「三週間後にね」
リンが横から顔を出した。
「こんにちは、リネットちゃん」
「リンも一緒なんだ」
「今日は仕事」
「それは見れば分かる」
「冷たいなあ」
「その台詞、前にも聞いた」
リネットは笑いながら棚から焼きたての丸パンを取った。
「食べる?」
「食う」
カイが即答する。
「金は?」
「ツケ」
「帰って」
「冗談だ」
リンはすでに一つ手に取っている。
「うま」
「勝手に食べないで」
「俺、美人に弱いんだ」
「お金には強いでしょ」
「その通り」
リネットは魔族を特別扱いしない。嫌っているわけでも、必要以上に好意的なわけでもない。金を払えば売るし、迷惑をかければ怒る。それだけだった。
父親の代から続くこの店には、昔から魔界側の商人も出入りしていたという。教会から何度か注意されたこともあるらしい。魔族へ食料を売るなとは明確に禁じられていないが、あまり親しくするのは感心しない、と。
リネットはその話を聞いた時、「じゃあ角がある人には昨日のパンだけ売ればいいんですか」と司祭へ尋ねたらしい。それ以来、その司祭は来なくなった。
「そういや、この前頼んでたやつ」
リネットが店の奥へ入り、小さな包みを持って戻ってきた。
「魔界の香辛料?」
「うん。あんたが言ってたやつ、商人さんが持ってきてくれた」
「人間が魔界の香辛料を買って、人間の町で俺に売るのか」
「面白いでしょ」
「意味分かんねえな」
「世の中そんなものでしょ」
カイは包みを受け取った。香りを嗅ぐと、酔月楼でよく使われている辛味の強い香辛料だった。
「メイランに持って帰るか」
「絶対値段聞かれるぞ」
リンが言う。
「言わなきゃいい」
「それ仕入れじゃなくて横流しじゃない?」
リネットが笑う。
カイは店内を見回した。以前来た時より、棚が少し減っている。
「商品少なくねえ?」
「よく気づいたね」
「粉がない」
「小麦が入りにくくなってるの」
リネットの表情が少し曇った。
「王都の方へ持っていかれてるらしい。保存食を作るとかで」
「軍か?」
「多分」
カイはパンを食べる手を止めた。
「最近、兵隊が増えてるんだよね。この町にも何度か大きな隊が泊まってるし、北の街道も軍の荷車ばっかり」
「国境警備じゃねえの」
リンが言う。
「最初は私もそう思ったんだけど、昨日来た隊なんて百人以上いたよ。それに、まだ増えるって」
リネットは窓の外を見た。広場の向こうを、王国兵らしい男たちが数人歩いていた。
「教会の人も増えたし」
「教会?」
カイが聞く。
「うん。騎士じゃなくて、あれ何て言うんだっけ。教会の戦う人」
「教会戦士」
「それ。前にもこの辺に来てたけど、最近多い」
リネットは少し考えてから、パンを袋へ詰め始めた。
「前に来た人は感じよかったんだけどね」
「教会戦士にそんなやついるのか」
「偏見〜」
「教会の連中に嫌われてるからな、俺」
「何したの?」
「存在してる」
「それは仕方ない」
リンが吹き出した。
「その人、金髪でね。ちょっと真面目すぎる感じだったけど、子供たちに食べ物配るの手伝ってた」
「聖人様?」
「そこまでじゃないよ。でも、うちのパン運ぶのも手伝ってくれた。頼んでないのに」
カイは興味なさそうにパンを齧った。教会戦士の知り合いなど、できれば一生いらない。
リネットは袋の口を閉じた。
「まあ、何もなければいいけど」
そう言ってから、少しだけ笑った。
「戦争でも始めるつもりなのかな」
冗談めかした言い方だった。
リンが笑う。
「やめてくれよ。戦争になったら道が閉まる」
「心配するとこそこ?」
「運び屋だからな」
カイも肩をすくめた。
「戦争なんて始めて誰が得すんだよ」
「偉い人?」
「じゃあ俺には関係ねえな」
リネットも笑った。
カイはパンと水、それに保存の利く干し肉をいくらか買った。
「そんなに買うの?」
リネットが袋を渡しながら聞く。
「長旅」
「どこまで?」
「商売上の秘密」
「どうせ魔界でしょ」
「それ以上は秘密」
「怪しい仕事?」
「俺が怪しくない仕事してる時ある?」
「あるでしょ。前にうちの小麦運んでくれた」
「あれは高かったからな」
「感謝を返して」
店を出る時、リネットがカイを呼び止めた。
「カイ」
「何だ」
「しばらく国境、気をつけた方がいいよ」
「兵隊?」
「うん。それだけじゃないけど、なんか変だから」
いつもの軽い調子ではなかった。
カイは一度だけ頷いた。
「分かった」
「ほんとに?」
「俺、危ないこと嫌いだから」
リンが横から口を挟む。
「嘘だぞ」
「うるせえ」
リネットは呆れながら手を振った。
カイたちは日が落ちる前に町を出て、その夜は国境から少し離れた森の中で野営することにした。
表の街道から外れた場所に荷車を止め、リンが簡単な結界を張る。完全に姿を隠せるほどのものではないが、遠目から火や魔力を感知されにくくする程度には役に立つ。
夕食はリネットのパンと干し肉だった。
「やっぱあそこのパン美味いな」
リンが二個目を食べながら言う。
「お前半分くらい食ってねえ?」
「成長期だから」
「何歳だよ」
「お前より五つ上」
「じゃあ老化だろ」
「殺すぞ」
食事を終える頃、一羽の黒い鳥が森の上を旋回した。カイが顔を上げると、鳥はまっすぐこちらへ降りてきて、荷車の縁へ止まった。普通の鳥ではなく、目が青白く光っている。
「黒龍会か」
リンが立ち上がった。
カイが腕を差し出すと、鳥はそこへ移り、口から細く巻かれた紙片を吐き出した。術式で作られた伝令鳥だ。
紙を開く。短い文だった。カイは二度読んだ。
「何だ?」
リンが覗き込む。
「届け先変更」
「今?」
「ああ」
紙には、当初の目的地よりさらに魔界の奥にある地点の座標が記されていた。しかも、その場所には見覚えがある。
「ここって」
リンの顔から笑みが消えた。
「軍の封鎖区域の近くだろ」
「近いどころじゃねえ」
魔軍が管理する地域だ。一般の商人が近づけば、普通に追い返される。運が悪ければ拘束される。
「ガロン、何考えてんだ?」
リンが言う。
「知らねえ」
「十倍でも割に合わなくなってきたぞ」
「三割返す?」
「それとこれは別」
カイは舌打ちした。条件が変わる仕事は嫌いだ。最初に聞いていた話と違う。荷物の中身を見るな。目的地について質問するな。そして今度は、運んでいる途中で届け先まで変わった。
ガオの言葉が頭をよぎる。開けるなと言われた箱ほど、ろくでもないものが入っている。
「明日の朝、ジンに連絡入れる」
カイが言う。
「戻る?」
「説明次第だ」
「黒龍会相手に強気だねえ」
「条件変えたの向こうだろ」
そう言いながら、カイは荷車へ目を向けた。黒布の下に、あの封魔箱がある。昼間から何度も見ているが、何一つ変わっていない。当然だ。封印されている。中身が何であれ、自分たちには関係ない。
そう思った時だった。微かな音がした。
カイは動きを止めた。
「……リン」
「ん?」
「今、何か聞こえたか」
「何が?」
二人とも黙った。森の中では虫が鳴き、風が葉を擦っている。しばらく待ったが、それ以外には何も聞こえなかった。
「気のせいじゃね?」
リンが言う。
「かもな」
カイは荷車へ近づいた。黒布をめくると、箱の表面に刻まれた術式は変わらず弱い光を帯びていた。手を置いてみたが、前と変わらない。
「開けるなよ」
リンが後ろから言う。
「分かってる」
「ガオに殺されるぞ」
「それも分かってる」
カイが手を離そうとした、その時だった。箱の内側から、こつ、と小さな音がした。
二人の動きが止まった。風でもない。荷車が軋んだ音でもない。確かに箱の中から聞こえた。続いて、何かが僅かに擦れる。人が寝返りを打つような、重いものが動く音だった。
リンがゆっくりカイを見た。
「……おい」
「言うな」
「これ」
「言うなって」
カイも箱を見た。ジンは、中身は人ではないと言った。だから引き受けた。
……いや。カイは眉を寄せた。人身売買ではない。子供でもない。ジンが答えたのは、それだけだった。
箱の中で、もう一度何かが動いた。カイはしばらく黙ってから、額を押さえた。
「……最悪だ」




