第三章 聖なる荷物
第三章 聖なる荷物
翌朝、エリアスは再びバルテルの執務室へ呼ばれた。
昨日渡された黒い書類は一晩だけ手元に置くことを許されていたが、記されていたのは作戦の概要までだった。魔界の奥に存在する古代遺跡、そこで進められているという兵器開発、そして密輸路を利用した潜入。自分自身が荷物になるという最後の一文については、読み返しても具体的な方法までは書かれていなかった。
執務室へ入ると、バルテルのほかに見慣れない男がいた。年齢は六十に届くかどうか。灰色がかった金髪を短く整え、深い赤の法衣を纏っている。胸元に下がる金の聖印を見て、エリアスはすぐに膝をついた。
「枢機卿猊下」
アルベルト枢機卿だった。
王宮との折衝を長く担当し、教会内部でも国政に強い影響力を持つ人物として知られている。地方の一教会戦士に過ぎないエリアスが直接言葉を交わすような相手ではなかった。
「立ちなさい。今日は儀礼のために来たわけではない」
低く落ち着いた声だった。
エリアスが立ち上がると、アルベルトは机の上に広げられた地図へ視線を戻した。地図には王国と魔界の国境、その向こうにある魔都、さらに魔界の奥地までが記されている。ただし人間側が把握している情報は限られており、魔都を越えた辺りから街道や地名が急に曖昧になっていた。
バルテルが一点を指す。
「目的地はここだ」
魔都からさらに奥へ進んだ先。山岳地帯の中に、小さな印がある。
「古代の神殿跡と考えられています。魔族は数年前から、この周辺への立ち入りを厳しく制限している」
「軍事施設なのですか」
「現在はそう見ている」
答えたのはアルベルトだった。
断定しなかったことが、エリアスには少し意外だった。
バルテルが続ける。
「複数の情報筋から、膨大な量の魔力結晶や術式材料が運び込まれていることが確認されている。魔族は元来、人間より遥かに多くの魔力を持つ。それだけでも脅威だが、古代遺跡の術式まで利用されれば、何が起きるか分からん」
机の上には、魔界から密かに持ち出されたという紙片や術式の写しが並べられていた。エリアスには完全には読み解けない。ただ、規模だけは理解できた。幾重にも重なる魔法陣。大量の魔力を一点へ集中させる構造。もし説明通りの用途なら、確かに通常の攻撃魔術とは比較にならない。
「これを破壊するのが私の任務ですか」
「まずは確認だ。可能であれば破壊する」
アルベルトがバルテルを見る。
「可能であれば、だ。単独で軍事施設を落とせとは言っていない」
「当然です」
バルテルは答えたが、その口調にはわずかな不満が混じっていた。アルベルトは気づいているはずだったが、何も言わなかった。
「今回の作戦について、王家はどこまで承知しているのでしょうか」
エリアスが尋ねると、二人の間に短い沈黙が落ちた。アルベルトが答えた。
「国王陛下には、魔界内部で不穏な軍事活動が確認されていることまでは報告されている」
「潜入については?」
「知らせていない」
エリアスはわずかに眉を動かした。
教会戦士が国境を越え、魔界内部へ秘密裏に侵入する。発覚すれば、単なる偵察では済まない。
「もし私が捕まれば」
「王国は関与を否定する」
「教会もですか」
「当然だ」
バルテルが即答した。予想はしていた。それでも、はっきり言葉にされると重みが違った。
アルベルトが静かにバルテルを見る。
「それを当然と言えるから、私はこの作戦に反対した」
「しかし代案はなかった」
「代案がないことと、危険が消えることは別問題だ」
「完成を待ってから軍を動かすおつもりですか」
「そうは言っていない」
二人の声は荒くならない。それでも、明らかに意見が食い違っている。アルベルトは地図に視線を落とした。
「今、王国と魔界の関係は不安定だ。国境では小競り合いが増えている。帝国もこちらの動きを見ているし、諸外国にも教会を通じて情報は伝わる。そんな状況で王国の教会戦士が魔界深部で捕まれば、相手に開戦の口実を与えかねない」
「だからこそ、捕まらない者を選びました」
バルテルの視線がエリアスへ向く。
「エリアスは優秀です」
評価されること自体嬉しくないわけではない。だが、昨日からその言葉を素直に受け取れなくなっていた。
アルベルトもエリアスを見た。
「君自身はどう考えている」
突然問われ、エリアスは少し考えた。
「兵器が事実なら、放置できません」
「危険は理解しているか」
「はい」
「王国にも教会にも助けを求められない可能性がある」
「承知しています」
アルベルトはしばらくエリアスを見ていた。何を確かめようとしているのかは分からなかった。やがて小さく息を吐く。
「ならば、私から止める理由はない」
バルテルが書類を一枚取り出した。
「問題は潜入方法だ」
魔族は、人間と比べて魔力そのものへの感覚が鋭い。特に神聖力は性質が大きく異なるため、魔界では目立つ。角や牙を隠して人間界へ入る魔族とは逆に、人間の聖職者が魔界へ潜り込むには、外見だけでなく力の気配そのものを隠さなければならない。
「神聖力を完全に抑えることはできません」
エリアスが言う。
「分かっている。だから封印する」
バルテルは部屋の隅に置かれていた木箱を示した。人が一人横になれるほど長い。黒い木材で作られ、表面には見慣れない術式が刻み込まれている。
エリアスは近づいた。
「これが?」
「封魔箱だ。元々は高濃度の魔力結晶や呪物を輸送するためのものだが、内部の力を外へ漏らさないという点では人間にも使える」
「中に入ったまま魔界を移動するのですか」
「そうなる」
思った以上に文字通りの意味だった。
「呼吸は?」
「確保される。内部には空気を循環させる術式がある」
「食事や水は」
「必要ない」
バルテルは透明な液体が入った小瓶を取り出した。
「眠ってもらう」
エリアスは小瓶を見た。
「どのくらい」
「四日から五日ほどだ。神術で深い眠りを維持する。その間は食事も水も必要ない」
「途中で目覚めた場合は?」
「本来はない。ただし輸送の遅延や術式の不調に備え、最低限の食料と水は入れておく」
エリアスは封魔箱へ目を向けた。
「この箱は内側から開かないのでしょう。目的地ではどうやって出るのですか」
「古代遺跡に近づけば、箱に組み込んだ解封術式が反応する。あの遺跡に残る神聖力は特殊だ。その波長を条件にしてある」
「では、遺跡へ到着すれば自動的に?」
「ああ。封印が解けると同時に眠りの術も弱まり、お前は目を覚ます。それが本来の手筈だ」
エリアスは封魔箱を見下ろした。急に狭く見えた。暗闇の中で、自分の意志では蓋を開けられない。そのまま魔界の密輸業者へ引き渡される。
以前なら、それでも任務なのだからと何も考えなかったかもしれない。しかし今は、廃村の倉庫に積まれていた子供服が頭をよぎった。
「その密輸業者は信用できるのですか」
「信用する必要はない。金で動く連中だ」
「教会が直接取引を?」
バルテルの表情がわずかに硬くなる。
「仲介を挟んでいる」
「相手は誰なのです」
「お前が知る必要はない」
昨日と同じ言葉だった。必要悪。世界を守るため。知らなくていい。エリアスはそれ以上尋ねなかった。アルベルトだけが、何か言いたそうにバルテルを見ていた。
作戦説明が終わると、エリアスは教皇庁へ連れて行かれた。
王都の中心に建つ大神殿は、彼が育った教会とは規模が違う。白い石造りの回廊が幾重にも続き、高い天井には創世神話を描いた絵が並んでいる。
光の女神エルシア。
闇へ堕ちるネルシア。
剣を振るうヴァルガス。
何度も見てきた物語だった。ここでは壁画も彫刻も豪華だったが、描かれている内容は同じだ。
教皇セヴェリウスは、大神殿の奥にある小さな祈祷室で待っていた。エリアスはもっと威圧的な人物を想像していた。実際に会ったセヴェリウスは穏やかな男だった。
白に近い淡い金髪を後ろへ流し、濃い青の目には柔らかな笑みが浮かんでいる。華美な装飾を身につけているわけでもなく、声も静かだった。
エリアスが跪く。
「顔を上げなさい」
言われた通りにする。
セヴェリウスはエリアスを見て微笑んだ。
「あなたの働きについては聞いています。若いながら、随分と多くの人を守ってきたそうですね」
「務めを果たしただけです」
「それが難しいのですよ」
セヴェリウスは祭壇の前へ立った。そこにはエルシアの小さな像がある。
「今回の任務は危険です」
「承知しています」
「怖くはありませんか」
子供に尋ねられたのと同じ問いだった。
エリアスは少し考えた。
「恐怖がないわけではありません。しかし、それを理由に退くつもりはありません」
「立派です」
セヴェリウスは満足そうに頷いた。
「人は迷います。恐れ、疑い、時に己の正しささえ見失う。だからこそ、神は私たちに道を示してくださる」
教皇がエリアスの前に立つ。
「ただ、覚えておいてください。正しさとは、心の中で信じているだけでは意味がありません」
エリアスは顔を上げた。セヴェリウスの表情は変わらない。穏やかだった。
「正しさは勝利によって証明されるのです」
一瞬、意味を測りかねた。
「勝利……ですか」
「悪に敗れた正義が、人々を守れるでしょうか」
「いいえ」
「ならば勝たなければならない。どれほど正しい理念を持っていても、敗北すれば世界に残るのは勝者の意思だけです」
理屈は理解できる。敵に負ければ、人は守れない。その通りだ。それでも、なぜか胸に引っかかった。正しいから勝つのではない。勝ったから正しい。そう聞こえた。
セヴェリウスはエリアスの違和感に気づいた様子もなく、右手を額へかざした。淡い光が指先から溢れる。温かな神聖力が身体を包む。
「女神エルシアの光が、あなたを導きますように」
「ありがとうございます」
エリアスは頭を下げた。
祈祷室を出たあとも、教皇の言葉が残っていた。正しさは勝利によって証明される。自分が考えすぎているのだろうか。戦士なら当然の話なのかもしれない。また余計な疑問を持っている。
そう考えたところで、廃村で抱いた違和感と同じ処理をしようとしていることに気づいた。エリアスは足を止めた。
「どうしました?」
案内役の助祭が振り返る。
「いや。何でもない」
再び歩き出した。
その日の夕刻には、出発の準備が整った。封魔箱は王都外れの倉庫へ移されている。教会の紋章が目立たないよう黒布をかけられ、周囲には必要最低限の人間しかいなかったが、マティアスとレオンだけが見送りを許されていた。
「本当に箱に入るのか」
レオンは封魔箱を見ながら眉を寄せた。
「そういう作戦だ」
「聞いてる。聞いてるけどな」
レオンが箱の蓋を叩く。
「これ、中で目覚めたら最悪じゃねえか」
「眠っている予定だ」
「予定だろ」
「お前は心配しすぎだ」
「誰のせいだと思ってる」
エリアスは荷物を確認した。剣。予備の食料と水。魔界内部で使う偽造された身分証。通信術具は持てない。神聖力を使うものは感知される可能性が高いからだ。帰還についても、現地で協力者と接触して別の密輸路を使うとしか聞かされていない。
マティアスはその様子を黙って見ていた。いつもなら食事をしたか、忘れ物はないかと何かしら口を出す。今日は珍しく何も言わない。
「司祭?」
エリアスが呼ぶ。
マティアスは少し迷ってから口を開いた。
「昨日の任務について、まだ考えていますか」
エリアスは答えなかった。しばらく黙ったまま視線を落としていたが、やがて観念したように小さく息を吐いた。
「……魔族の村のことです」
マティアスは静かにエリアスを見た。
「考える必要はないと思っています」
「なぜです」
「任務は正当でした。彼らが国境を越えていたことは事実です」
「では、なぜ考えるのですか」
言葉に詰まった。
「……自分が未熟だからです」
マティアスの目が少し細くなる。
「誰にそう教えられました」
「教会では、疑念は心を曇らせるものだと」
「教会の教えを聞いているのではありません。あなた自身が、そう思っているのかと聞いています」
エリアスは黙った。
マティアスは一歩近づく。
「エリアス。疑うことそのものは罪ではありません」
思ってもいなかった言葉だった。
「ですが、信仰とは」
「信じることと、考えないことは同じではない」
マティアスは穏やかに言った。
「もし何かがおかしいと思ったなら、それを確かめなさい。疑った結果、何も間違っていなかったなら、それでいいのです」
「もし、間違っていたら」
「その時に考えればいい」
あまりにも簡単に言われて、エリアスは困った。
「司祭らしくないですね」
レオンが横から言う。
マティアスが見る。
「そうですか?」
「もっと『女神を信じなさい』とか言うものかと」
「女神を信じていますよ」
「じゃあ教会も?」
「それとこれは別です」
レオンが笑った。
「やっぱり司祭らしくないな」
「あなたは帰ったら説教です」
「何で俺だけ」
エリアスも少し笑った。
その空気がありがたかった。
出発の時刻が来る。薬を渡され、エリアスは小瓶を手に取った。
「戻ってこいよ」
レオンが言う。
いつもの軽さがなかった。
「当然だ」
「お前の当然は信用ならねえ」
「なら、何と言えばいい」
レオンは少し考えた。
「死ぬな」
「分かった」
「絶対だからな」
「しつこい」
「お前相手ならこれくらいでちょうどいい」
マティアスもエリアスを見る。
「帰ってきたら、一緒に食事をしましょう」
「また監視ですか」
「もちろんです」
エリアスは薬を飲んだ。苦味はほとんどなかった。少しすると身体が重くなる。封魔箱の中へ横たわった。思っていたより狭い。腕を身体の横へ置けば、肘が壁に触れる。
上からバルテルが覗き込んでいる。
「目的地付近で封印が解除される。それまでは絶対に神聖力を使うな」
「承知しました」
「任務を果たせ」
「はい」
レオンが最後に顔を出した。
「帰ってきたら、一杯奢れよ」
「なぜ私が」
「死ぬなって言われたら普通は『帰ったら飲もう』とか言うもんだろ」
「私は酒をあまり飲まない」
「知ってるよ」
蓋が下ろされ始めた。視界が狭くなる。最後に見えたのは、呆れたように笑うレオンと、その後ろに立つマティアスだった。
蓋が閉じた。金具が噛み合うと、外側から封印術式が起動する。わずかに感じていた周囲の魔力が、一瞬で消えた。完全な闇だった。
自分の呼吸だけが聞こえる。エリアスは目を閉じた。薬が効き始め、意識が沈んでいく。
人間界を離れる。初めて魔界へ行く。魔族の暮らす場所。幼い頃から、決して近づいてはならないと教えられてきた世界。
なぜか最後に思い浮かんだのは、討伐した魔族ではなかった。母親の胸に顔を埋めて震えていた、あの子供だった。
そこで意識が途切れた。
バルテルは一人、執務室へ戻っていた。
机の上には、今回の作戦書とは別の封書が置かれている。宛名はない。教会の正式な公文書に使われる印章も押されていなかった。バルテルは短い文面を確認し、封をする。
――指定の荷は予定通り送る。
――運搬途中で中身を確認する必要はない。
――目的地まで確実に届けよ。
――報酬は約定通り支払う。
そして最後に、送り先を示す黒い龍の印。
バルテルは燭台の火で下書きを焼いた。紙が黒く縮れ、文字が炎の中へ消えていく。
眠ったエリアスを乗せた荷車は、すでに王都を離れていた。




