第二章 夜の運び屋
魔都は、大地の裂け目に沿って造られている。魔都は魔界の中ではの中で王国に近い場所にあった。
地上から見れば、巨大な山を真二つに割った傷跡にしか見えない。人間界から続く街道は、その裂け目の入口から魔界へと入り、細長い峡谷の底を流れる川に沿って奥へ続いている。両側には切り立った断崖がそびえ、何百年もかけて建物が継ぎ足されてきた。岩壁に食い込むように家々が並び、その上へさらに家が積まれ、狭い橋や階段が複雑に上下を結んでいる。川からは湿った風が吹き上がり、夜になると赤や青の魔導灯が一斉に灯った。
人間の国から来た者が最初に驚くのは、その明るさだという。魔族は夜を好む。だから夜の方が店も人も増える。
酒場や薬屋、食堂、賭場。壁から突き出した看板には魔力を込めた文字が浮かび、古い建物の窓辺では符が明滅している。露店の鍋から湯気が立ち、香辛料と焼いた肉、薬草、酒、煙草の匂いが狭い路地の中で混ざり合う。
頭上を見れば、岩壁の両側から伸びた渡り廊下を人が行き交っている。入口に近い一帯には商店や酒場、安宿、倉庫が密集し、そこから川に沿って進むほど街は裂け目の奥へと深く続いていく。その最奥には魔軍の基地があり、断崖に積み重なった上層には役所や大商会、金持ちの屋敷もあるらしい。
カイは短い金髪を無造作にかき上げ、肩に担いだ荷物を持ち直した。手入れにはほとんど頓着していない髪の隙間から、青みがかった灰色の目が覗いている。角も牙もなく、見た目だけなら人間そのものだった。実際、人間なのだから当然だったが、この街で育ったカイ自身は、それを意識することなどほとんどなかった。
前方から二人の役人が来る。黒い制服の腕には、魔軍直属警備隊の腕章が巻かれていた。
カイは歩調を変えなかった。役人の一人がこちらを見る。カイも見る。そのまま通り過ぎた。角を二つ曲がり、役人の姿が完全に消えてから、後ろを歩いていたリンが小さく息を吐いた。
「お前、少しは緊張しろよ」
「してた」
「嘘つけ。欠伸してただろ」
「眠いんだから仕方ねえだろ」
「その肩の荷物、見つかったら半年は牢屋だぞ」
「半年で済むならいい方だな」
「だから緊張しろって言ってんの」
カイより五つほど年上で、運び屋としては先輩にあたる。鮮やかなオレンジ色の髪の間から、小ぶりな二本の角が後方へ伸びていた。細身で身軽な男で、翡翠色の目には大抵ふざけたような笑みが浮かんでいる。本人が「プリティ」と称している牙も、笑うたび口元から覗いた。ただし危険を察知したときだけは、その表情から軽薄さが綺麗に消える。
今日運んでいるのは表向きには薬草だが、実際には薬草の束の中心に魔力結晶が隠してある。結晶自体は禁止品ではない。ただし産地が問題だった。北方の鉱山から採掘された結晶には高い関税がかかる。それを払わず都市へ入れれば密輸品になる。だから今日は、薬草として運んでいる。
「俺、この仕事が終わったら三日は休む」
「昨日も言ってたな」
「昨日の仕事が終わったら休む予定だったんだよ」
「じゃあ今日も仕事しなきゃいいだろ」
「金がない」
「なら働け」
「お前はもう少し先輩を労われ」
細い路地へ入ると、人通りが減った。突き当たりには古い薬屋がある。看板には『白蛇堂』。カイが裏口を三回叩くと、小窓が開いた。
黄色い瞳が覗く。
「合言葉」
「腹が減った」
「帰れ」
「冗談だよ」
小窓の向こうで舌打ちが聞こえた。カイは依頼人から教えられた言葉を告げる。
「月が西へ落ちる」
少しして扉が開いた。二人は中へ入り、荷物を渡す。店主は結晶を一本ずつ確認すると、革袋をカイへ投げた。受け取った瞬間、その重さで金額を測る。
「足りねえ」
「数えもしないで分かるのか」
「分かる」
「欲深いガキだな」
「契約通り払え」
店主が睨む。
カイも睨み返す。
やがて店主が舌打ちし、銀貨を三枚追加した。
「次から別の運び屋を使う」
「好きにしろ」
「お前みたいなのは長生きしないぞ」
「よく言われる」
店を出ると、リンが笑った。
「三枚くらい黙ってやればいいのに」
「一回許すと次は五枚減る」
「そういうところだけガオそっくりだな」
「やめろ」
「褒めてる」
「もっとやめろ」
革袋を懐へ入れ、二人は大通りへ戻った。
運び屋といっても、扱うものは様々だった。普通の手紙。商人の荷物。薬。酒。税を払っていない商品。盗品。武器。時には、それ以上に面倒な物。
依頼人が何を企んでいるかまで調べる必要はない。それを始めれば、運び屋など続けられない。ただし何でも運ぶわけではなかった。少なくともカイは、人間そのものを荷物として扱う仕事は受けない。奴隷。攫われた女。売られる子供。そういう話が出た時点で断る。
昔、一度だけ「箱を運ぶだけだ」と言われて引き受けた仕事があった。途中で箱の中から泣き声が聞こえた。蓋を開けると、縛られた子供が三人入っていた。その日の荷物は依頼人のところへ届かなかった。代わりに依頼人の男が三日ほど寝込んだ。
ガオには随分怒られた。仕事を途中で放り出したことではない。中身を確認せず引き受けたことを怒られた。『聞かなかった、知らなかったで済むと思うな。自分の手で運んだなら、それはお前がやったことだ』と、幼い頃から何度も聞かされてきた。
善人になれと言われたことはない。法律を守れとも言われなかった。ガオ自身、そんなことを言える人生ではなかった。ただ、自分がやったことくらい、自分で背負え。それがガオの教えだった。
日付が変わる頃、カイとリンは馴染みの酒場へ入った。
『酔月楼』は二階建ての古い店で、赤い魔導灯が軒先に連なっている。扉を開けると酒と油料理の匂いが一気に流れ込み、騒がしい声に包まれた。
客の半分はまともな職業ではない。残り半分については、カイは知らないことにしている。
カウンターの奥で、メイランが酒瓶を並べていた。艶のある長い黒髪を高く結い、額からは小さな一対の角が覗いている。金褐色の目と鮮やかな赤いリップがよく目立ち、濃い色のタイトな上着まで含めて、この薄暗い酒場の中では実に華やかだった。ちなみに、年齢を尋ねると必ず値段を倍にされるので、誰も聞かない。
「遅かったじゃない」
「仕事」
「リンは?」
「俺も仕事ですよ」
「あなたはどうせ途中で女のところに寄ってたんでしょう」
「どうして俺だけ信用がないんです?」
「実績よ」
リンが傷ついた顔をする。メイランは無視して、カイの前に料理を置いた。肉と青菜を濃い味の油で炒めたものだった。
「頼んでないけど」
「今日まだ何も食べてないでしょ」
「なんで知ってる」
「顔」
「顔で腹減ってるか分かるのか」
「あんた、分かりやすいのよ」
カイは反論を諦め、箸を取った。リンも横から手を伸ばす。カイがその手を箸で叩く。
「痛えな」
「自分で頼め」
「一口くらいいいだろ」
「嫌だ」
「子供かお前は」
「お前が頼め」
メイランがリンの前にも同じ皿を置いた。
「最初からあるじゃねえか」
「あなたがカイから盗ろうとすると思ったから、少し待ったの」
「性格悪くない?」
「今さら?」
酒場の奥から笑い声が上がった。
ここへ来ると、カイは少しだけ肩の力が抜ける。家ではない。家族でもない。それでも、帰ってきたと思える場所の一つだった。
料理を半分ほど食べたところで、入口の扉が乱暴に開いた。
ガオが入ってくる。大柄な男だった。灰色がかった黒髪を短く刈り、その両側から羊を思わせる巨大な角が重く巻いている。琥珀色の目は睨んでいなくても威圧感があり、左眉から頬にかけて走る古い傷まで加わると、知らない者ならまず道を空ける顔だった。本人はその方が楽だと言っていたが。
「おい」
入ってくるなりカイを見る。
「何」
「何じゃねえ。今日どこ行ってた」
「仕事」
「北の結晶運んだだろ」
「なんで知ってんだよ」
「俺に知られねえと思ったのか」
「別に隠してない」
「昨日、警備局が北方品の取り締まり強化したって言ったよな」
「聞いた」
「聞いてなんで行く」
「報酬が良かったから」
「馬鹿か」
「馬鹿じゃねえ」
ガオがカイの頭を叩いた。
「痛え」
「痛くしたんだよ」
「客の前だぞ」
「見世物代取るか?」
周囲から笑い声が起きる。
カイは頭を押さえながら睨んだ。
ガオは隣の椅子へ座ると、メイランが出した酒を一息で半分飲んだ。
「最近、役人がうるせえ。しばらく危ねえ仕事は控えろ」
「生活費」
「普通の荷物運べ」
「安い」
「牢屋入ったら収入ゼロだ」
「飯は出る」
「今から一回入ってみるか?」
「遠慮する」
メイランが呆れたように二人を見る。
「似た者同士ね」
「どこが」
「どこがだ」
カイとガオの声が重なった。
リンが笑い、メイランも口元を緩めた。
その時、店の空気が少しだけ変わった。入口に立つ男を見て、何人かの客が視線を逸らす。黒い長衣。腰には細身の刀。胸元には黒い龍を象った小さな徽章がある。
黒龍会。この街でその名を知らない者はいない。表向きには運送、金融、賭場、酒、建設まで扱う巨大商会。裏では密輸、違法薬物、武器、人身売買まで手を伸ばしている。街の下層だけなら、役所より黒龍会の名前が通じる場所もあった。
男は周囲を見ることもなく、カイのところまで歩いてきた。ジンだった。年齢はカイより少し上に見えるが、詳しくは知らない。何度か仕事で顔を合わせている。愛想がなく、必要なことしか喋らない。笑っているところを見た記憶もなかった。
「カイ」
「今日はもう仕事しねえぞ」
「そうか」
ジンは椅子を一つ引いた。
座らない。
「十倍だ」
「やる」
リンが吹き出した。
「お前さっきまで仕事しないって言ったよな?」
「状況が変わった」
「三秒だぞ」
「十倍なら三秒で十分だ」
ガオが低い声を出す。
「内容を聞いてから決めろ」
カイは肩をすくめた。
「で、何を運ぶ」
ジンが一枚の紙を置く。簡単な地図だった。人間領との国境近くに印があり、そこから魔族領のかなり奥まで線が引かれている。
「明日の夜、人間領から荷物が届く」
「何だ?」
「箱」
「中身」
「知らなくていい」
「重さ」
「男二人で持てる程度」
「危険物?」
「知らなくていい」
「生き物?」
「知らなくていい」
カイは紙から顔を上げた。
「それで十倍?」
「ああ」
「怪しすぎるだろ」
リンが横から覗き込む。
「届け先、かなり奥じゃねえか。軍の管理区域に近いぞ」
「通行証はこちらで用意する」
「誰からの仕事だ?」
ジンは少し黙った。
「ガロン様だ」
リンの表情から笑いが消えた。
メイランも手を止める。
黒龍会頭領、ガロン。本人が直接指定する仕事など滅多にない。
カイは地図を見た。報酬は魅力的すぎる。
「条件は」
「箱を開けるな」
「それだけ?」
「中身を見るな。届け先まで運べ。途中で誰かに尋ねられても、何も知らないと言え」
「本当に何も知らないから簡単だな」
「そういう意味じゃない」
ジンの目が細くなる。
ガオが酒杯を置いた。
「断れ」
カイがそちらを見る。
「何で」
「ろくでもねえ」
「いつもの仕事も大体ろくでもねえだろ」
「そういう話じゃねえ」
ガオは地図を一度見てから、ジンへ目を向けた。
「ガロン本人からの仕事で、中身は見るな、聞くな、開けるな。報酬十倍。そんなもん、まともな荷物のわけがねえ」
ジンは答えない。
ガオはカイを見る。
開けるなと言われた箱ほど、ろくでもないものが入っている。カイもそれは分かっていた。だからこそ、気になる。そして十倍だ。
「前金は?」
「半分」
「本当に十倍?」
「嘘は言わない」
「ならやる」
「カイ」
「箱が人ならやらねえ。それは確認させろ」
ジンが一瞬だけ考える。
「人身売買じゃない」
「子供も?」
「違う」
「ならいい」
ガオが額を押さえた。
「お前は俺の話を聞いてたか?」
「聞いてた」
「何て言った」
「ろくでもない」
「分かってんなら断れ」
「十倍」
「金で死ぬぞ」
「安く死ぬよりいい」
「ぶん殴るぞ」
「もう一回殴っただろ」
メイランが溜息をついた。
「ガオ、諦めなさい。その顔になったら聞かないわよ」
「誰に似たんだ」
「あなたでしょ」
「違う」
「違わねえよ」
リンまで口を挟む。
ガオはしばらくカイを睨んでいたが、やがて酒を飲み干した。
「死ぬなよ」
「そのくらい分かってる」
「お前は分かってねえから言ってんだ」
ジンは前金の入った革袋を置いた。それだけで普段の仕事数件分はある。
「明日、日が落ちたら西門の外へ来い」
用件だけ告げ、ジンは店を出ていった。扉が閉まる。酒場の騒がしさが少しずつ戻った。
カイは革袋を持ち上げた。重い。
「これで当分遊べるな」
「生きて戻ったらな」
リンが言う。
「リン、お前も来るだろ」
「俺も?」
「男二人で持てる箱だって」
「聞いてないぞ」
「今言った」
「報酬は?」
「二割」
「舐めんなよ、折半だ」
「三割」
「わーった! 四割! これ以上は俺も無理だ」
「三割」
「先輩を敬えや」
「じゃあ二割」
「……三割でお願いします」
翌日の夜。カイとリンは西門の外にいた。都市の魔導灯が背後の裂け目を赤く照らしている。
その光の中で、まだ来ぬ荷の気配だけが、静かに夜を満たしていた。




