第一章 白い神話
「はじめに、世界には二柱の女神がおられました」
礼拝堂に司祭の声が響くと、長椅子に並んでいた子供たちは一斉に顔を上げた。
朝の光が高い窓から差し込み、白い石床を淡く照らしている。祭壇の奥には、二人の女神を象った大きな聖像があった。右側に立つのは光の女神エルシア。両手を広げ、人々を包み込むような穏やかな姿で彫られている。その傍らには双子の妹ネルシアがいたが、姉とは対照的に俯き、片手で顔を覆っていた。
孤児院で暮らす子供や、近隣の信徒の子供たちは、幼い頃から何度もこの話を聞かされている。それでも皆、創世神話が好きだった。
「姉神エルシア様は光を生み、大地を整え、空と海を分かちました。妹神ネルシア様もまた姉を助け、二柱は力を合わせて世界を作られたのです。当時の世界には、人と神々が暮らし、争いも苦しみもありませんでした」
司祭の前で、一人の少年が手を上げた。
「魔族はいなかったの?」
「ええ。まだ存在していませんでした」
「魔物も?」
「それもまだいません」
子供たちから小さな歓声が上がった。
司祭は微笑み、続きを語る。
「ですが、やがてネルシア様の前に一柱の神が現れます。武神ヴァルガス。戦いを好み、勝利のためなら命を奪うことをためらわない恐ろしい神でした」
聖堂の側面には、その場面を描いた壁画がある。血に染まった剣を掲げるヴァルガスと、その前に跪くネルシア。
子供の頃のエリアスは、この壁画を見上げるたびに不思議に思ったものだった。なぜネルシアは、あれほど恐ろしい男を見て逃げなかったのか。
今では、その疑問を口にすることもない。礼拝堂の最後列に立ち、子供たちの様子を見守りながら、エリアスは黙って司祭の話を聞いていた。金色の髪は肩につかない程度に整えられていたが、左側だけは頬を越えて長く伸びている。青みがかった灰色の目は祭壇へ向けられている。
「ネルシア様はヴァルガスに魅入られ、姉神の言葉にも耳を貸さなくなりました。そしてついには神としての清らかな心を失い、その身を闇へ堕としてしまったのです。ネルシア様から溢れ出した闇は大地を侵し、魔物を生み、さらに人の姿を真似た邪悪な種族――魔族を生み出しました」
先ほど質問した少年が、今度は少し怖そうな顔をした。
「魔族って、人を食べるんでしょう?」
「そう教えられていますね。ですが、怖がる必要はありません」
司祭は祭壇のエルシア像へ目を向けた。
「エルシア様は妹を退け、命を懸けて人の世界を守ってくださいました。それから今日まで、女神の光は私たちを導いてくださっています。だから皆さんも、正しい心を失ってはいけません。ネルシア様が闇へ堕ちたのは、心の弱さに負けてしまわれたからなのです」
子供たちは素直に頷いた。エリアスも、幼い頃には同じように頷いていた。
欲望に負けてはいけない。怒りに飲まれてはいけない。疑い、妬み、憎しみといった邪な心を捨て、正しく生きなければならない。それが人を魔から遠ざける。この教会に拾われてから十数年、彼はそう教わってきた。疑ったことなど、一度もなかった。
礼拝が終わると、子供たちが騒がしく外へ駆け出していった。最後まで残っていた小さな少女がエリアスの前で立ち止まり、腰に下げた剣を見上げる。
「エリアスも魔族を倒すの?」
「必要ならな」
「怖くない?」
「怖がっていては誰も守れない」
真面目に答えると、少女は感心したように目を丸くした。その頭上から声が飛んでくる。
「子供相手なんだから、もうちょっと夢のあること言えよ」
振り返ると、礼拝堂の入口にレオンが立っていた。
背が高く、明るい茶色の髪を後ろで無造作に束ねている。教会戦士の白い制服を着てはいるものの、襟元は少し緩み、規定通りに着込んでいるエリアスとは対照的だった。
「嘘を教えてどうする」
「怖いけど頑張る、とかでいいだろ」
「それでは子供を不安にさせる」
「お前が今言ったことの方が怖えよ」
少女が二人を見比べて笑った。
レオンは少女へ手を振ると、エリアスの肩を軽く叩いた。
「訓練の時間だ。遅れるとまたお前に小言を言われるからな」
「あと三分ある」
「ほら、それだよ」
二人が向かったのは教会の裏手にある訓練場だった。朝の礼拝を終えた教会戦士や見習いたちがすでに集まり、木剣を打ち合わせる乾いた音が響いている。
エリアスは上着を脱ぐと、剣を取った。対するレオンも木剣を構える。
「今日は神術なしな」
「なぜだ」
「昨日、お前が派手に吹っ飛ばした訓練用の人形、まだ直ってない」
「あれはレオンが避けたからだ」
「避けるだろ普通」
開始の合図と同時に、エリアスは間合いを詰めた。横薙ぎをレオンが受ける。木剣同士が強くぶつかり、甲高い音がした。続けて二撃、三撃。エリアスはほとんど間を置かず攻める。レオンは受け流しながら後退した。
「相変わらず容赦ねえな」
「訓練で手を抜いて何になる」
「だからもう少し力を抜けって」
「実戦で相手が待ってくれるのか?」
「そういうとこだぞ」
会話をしながらも、レオンの剣筋は乱れない。むしろエリアスの攻撃を誘導し、踏み込んだところで足を払った。体勢が崩れる。すぐに受け身を取り、エリアスは転がるように距離を取った。立ち上がった時には、レオンの木剣が目の前にある。
「一本」
「もう一度だ」
「休憩しようぜ」
「まだ始めて十分も経っていない」
「お前と十分も殴り合ったら十分だよ」
レオンは肩を回しながら笑った。それでも結局、二人はさらに三本打ち合った。勝敗は二対二。
最後は監督役の教会戦士が食事の時間だと怒鳴ったため、決着がつかなかった。エリアスが汗を拭いていると、訓練場の入口でマティアスが待っていた。
年齢は五十を少し過ぎている。白髪が混じった髪と穏やかな目つきの、どこにでもいそうな司祭だった。
「エリアス。また朝食を抜きましたね」
「食欲がなかっただけです」
「昨日も同じことを言っていました」
「昼は食べます」
「あなたの『昼は食べます』は信用できません」
レオンが横から笑う。
「俺もそう思います」
「レオンまで何を言っている」
「では二人とも来なさい。厨房に頼んであります」
「俺もですか?」
「あなたもでしょう。訓練前にパンを一つ齧っただけだと聞きましたよ」
レオンの笑顔がすっと消えた。エリアスは少しだけ口元を緩めた。食堂の隅で、二人はマティアスの監視下に置かれながら遅い朝食を取った。
温かなスープと黒パン、それに少量の干し肉。教会の食事は質素だったが、腹を満たすには十分だった。マティアスは二人が食べるのを確認しながら、書類を整理している。
「司祭が戦士の食事まで管理する必要はないでしょう」
エリアスが言うと、マティアスは顔も上げなかった。
「放っておくと食べない戦士がいるからです」
「自己管理はしています」
「では昨日の夕食は?」
エリアスは黙った。レオンが吹き出した。
「完敗だな」
「あなたもです、レオン」
「はい」
二人が同時に黙ったところで、食堂の入口から若い助祭が駆け込んできた。
「エリアス、レオン。司教様がお呼びです」
マティアスの手が止まった。
「二人ともですか?」
「はい。国境から急報が届いたそうです」
先ほどまでの穏やかな空気が消え、エリアスは残っていたスープを飲み干して立ち上がった。
司教バルテルの執務室には、大きな地図が広げられていた。国境沿いの森林地帯。その一角に赤い印が付けられている。
バルテルは四十代半ばの痩せた男で、神経質そうな細い目をしていた。机の前にはエリアスとレオンのほか、数名の教会戦士が並んでいる。
「三日前、国境警備隊から報告があった。魔族の集団が国境を越え、廃村を占拠している」
バルテルは地図を指した。
「数は?」
レオンが尋ねた。
「確認できているだけで二十余り。ただし地下施設を使用している可能性がある。目的は侵略の準備と見て間違いない」
「王国軍は?」
「まだ動かせん。軍を出せば相手にも察知される。大規模な拠点になる前に教会が処理する」
エリアスは地図を見た。その村は、国境からそれほど離れていない。数年前に魔物の被害で放棄されたと記憶していた。
「捕虜は必要ですか」
「可能なら一名。だが無理をする必要はない」
バルテルは淡々と言った。
「魔族は人と違う。ためらえば、お前たちが死ぬことになる」
その日の午後、一行は国境へ向かった。二日かけて森を進み、三日目の早朝に廃村へ到着した。霧の中に朽ちた家々が並んでいた。人の住まなくなった村のはずだったが、いくつかの煙突から細い煙が立っている。偵察の結果、確かに魔族がいることが分かった。
エリアスは剣を抜いた。戦闘は短かった。こちらが奇襲したこともあり、魔族たちはまともな陣形すら組めなかった。エリアスは家屋の間を走り、飛び出してきた男の剣を受ける。額から角を生やした魔族だった。一撃を弾き、懐へ踏み込むと、刃が胸を貫いた。男が倒れる。
次に飛び出してきたのは、獣のような耳を持つ若い女だった。手には短剣が握られている。エリアスへ向かってくる女に神聖術を込めた剣を振るうと、白い光が弾けた。女は壁へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
悲鳴がする。振り返ると、レオンが別の魔族と戦っていた。エリアスは駆け寄り、背後から斬りつけようとしていた男を倒す。
「助かった」
「油断するな」
「してねえよ」
そう言ってレオンも剣を振る。やがて抵抗は途絶えた。教会戦士の一人が、村の中央で勝利を告げる。味方の負傷者は三名。死亡者はいない。討伐は成功だった。
エリアスは剣についた血を布で拭い、周囲を確認する。そこで、妙なものに気づいた。
倉庫の扉が開いていたので、中へ入った。最初に目についたのは、壁際まで積まれた穀物袋。その奥には乾燥肉や保存野菜、薬草が並んでいる。武器もあるにはあったが、少ない。侵略のための拠点というには、あまりにも生活用品が多い。
別の木箱を開けた。中には小さな服が何枚も畳まれている。子供用だった。エリアスは一枚を持ち上げた。まだ新しい。
「エリアス」
「何だ」
「こっち来い」
レオンに呼ばれ向かった村外れの小屋では、一人の教会戦士が立ち尽くしていた。床には魔族の死体が二つ横たわっている。
一人は老人で、もう一人は若い女だった。女は剣を持っていない。その腕の中には、小さな子供が抱かれていた。子供はまだ生きていた。角の生えかけた幼い魔族が、母親らしき女の胸に顔を埋めて震えている。誰も剣を向けなかった。
「……どうする」
「捕虜にする。それ以外あるか」
レオンが答えた。エリアスは黙って女の死体を見た。傷は背中にあった。逃げようとしていたのだろう。
「エリアス?」
「いや」
彼は視線を逸らした。村を制圧した後、さらに調査が行われた。地下施設など存在しなかった。
発見されたものの多くは食料と薬、寝具、衣類だった。そこに暮らしていた魔族の中には、戦える者もいた。人間領へ侵入していたことも事実だった。だから討伐そのものが間違っていたわけではない。
帰路、エリアスは何度もあの倉庫を思い出した。子供の服。逃げる女の背中。腕の中で震えていた幼い魔族。魔族は人を害する。彼らを放置すれば、いずれ国境の村が襲われる。教会は人々を守るために戦っている。今日まで何度もそうしてきた。それでも胸の奥に、薄い棘のようなものが残っていた。
これは憐れみなのだろう。ならば、自分が未熟なのだ。魔族を憐れむのは、自分の心が弱いからだ。エリアスはそう結論づけ、それ以上考えないことにした。
教会へ戻ったのは六日後だった。
報告を終えると、すぐにバルテルから残るよう言われた。レオンたちが退室し、執務室には二人だけになる。バルテルはしばらく何も言わず、机の引き出しから黒い革張りの書類を取り出した。
「エリアス。次の任務を与える」
「休養は必要ありません」
「そういう話ではない」
書類が机の上を滑った。表紙には何も書かれていない。
「極秘任務だ。この部屋を出れば、内容を知るのは私とお前、それに教皇庁のごく一部だけになる」
エリアスが書類を開くとそれは、魔界の地図だった。これまで見たこともないほど奥深い場所に印がある。
「これは?」
「魔族が建造している兵器施設だ」
バルテルの声が低くなった。
「完成すれば一つの都市を消し飛ばせる可能性がある」
エリアスは顔を上げた。
「それほどのものを?」
「確認された情報が正しければな」
「王国軍へ知らせるべきでは」
「軍を動かせば戦争になる」
バルテルは即座に答えた。
「だから、始まる前に潰す」
書類をめくると、そこには通常の軍事作戦とは思えない手順が記されていた。偽造された交易許可証。裏商人の名前。人間と魔族の国境を抜ける非公式な経路
。
「密輸路……」
「そうだ」
エリアスは思わずバルテルを見た。
「教会が密輸業者と取引するのですか」
「必要悪というものがある」
「しかし――」
「エリアス」
バルテルの声が鋭くなった。
「世界を守るためだ」
それ以上の言葉を、エリアスは飲み込んだ。正しい目的のために、時には正しくない手段も必要になる。理解できない話ではない。それでも、先ほど押し込めたはずの棘が、再び胸の奥に触れた。バルテルは地図の一点を指す。
「お前には、この経路から魔界へ入ってもらう」
「商人に扮するのですか」
「いや」
司教は静かに首を振った。
「お前自身が、荷物になる」
エリアスはすぐには意味を理解できず、黙った。
窓の外から、夕刻を告げる鐘の音が聞こえてくる。礼拝堂では今日も、光の女神エルシアが人々を見守っている。世界を守るために闇を退けた、正しき神。エリアスはそう信じている。それを疑う理由など、この世には存在しないのだから。




