すきにして、いいよ。
以上で一応終わりです。
『すきにして、いいよ。』
ここは静かな自室。だから声が漏れることもないだろう。誰かがここに入ってくることだってあり得ない。こんな夜中に王女の私室に訪れる輩は、そうそう多くはないのだ。
早めに侍女を下がらせておけば、敏い彼女のことだ。わたしが言わずとも理解して、何も言わずに全てのことを胸に秘める。そうすると本当に、訪れる人は誰もいなくなってしまう。
たった一人を除いて。
ベッドの中で身動きせずに耳へと神経を集中させると、いくらもしないうちに扉が開いた音がした。目を閉じてその音を追う。かつりと硬い音がして、それが彼の靴の音だと分かった。
毛の長い絨毯に足を踏み入れたせいかその音はすぐに消えてしまったが、わたしがその音を聞き間違えるはずもない。そして寝室につながる扉がゆっくりと開いて、音もなく閉まる気配がした。最後にわずかな音がして、また体が動かないように注意しながら息を殺した。
「気づいているなら、起きていいのに」
すっとベッドに覆いかぶさってきて人の気配がした瞬間、耳元でそう囁かれた。目を開けると目の前には思ったとおりアレクがいて、決まりの悪いわたしはつい『不審者だと思ったのよ』と笑って見せた。
ごまかしの言葉を信じていないだろうに、彼はにっこりと笑って『そうか』とだけ返す。もっと追究するものだと思っていたこちらは肩透かしを食らった気分だ。
「今日来るって、分かってたのはどうして?」
「それは……」
言葉に詰まってベッドから起き上がる。さらりと結っていない髪をかきあげて後ろに流せば、彼はそれを綺麗に背中へと直した。それはまるで武人らしくない手つきで、こちらが驚いてしまう。
思えば、彼の手はいつも丁寧にわたしへ伸ばされる。丁寧に丁寧にわたしに触れて、傷一つつけないようにと恐々伸ばされる。
「何となく、よ」
「嘘」
「……あー、うん。そうね、わたしに」
言いよどむことなど滅多にない自分が、こうまで言葉を選びながら会話をするのは彼だけだろう。それと同時に、何も考えずに会話をするのも彼だけだろう。
彼はそれだけわたしにとって特別なのだ。傷つけぬよう、不快にさせぬよう言葉を選ぶこともある。そして何も考えず、感情のまますべてを吐き出すように話すこともある。今回はたまたま彼を傷つけない配慮ができる余裕があるだけなのだ。だから考えて言葉を選ぶ。
どう伝えたらいいのか迷うが、結局適当な言葉が思いつかずにため息をついた。
「わたしに、その、大国からの」
「大国の王子と縁談が持ち上がってるって? それを俺が知って、それで、今日来るって?」
自意識過剰だろうか。いいや、わたしは口が裂けても、アレクはわたしに縁談が持ち上がってもそれを冷静に受け流す、などとは言えない。
よいご縁ですね、と笑うのはもうかなり昔の彼だ。今の彼はきっとそんなことは言わないだろう。たとえわたしが『国のために嫁ぐ』と自ら口にしても、彼はそれを静かに、悲しそうに見守るだけだろう。
それが分かっていたから、彼には知られたくなかったし、知ったら不安がるだろうと思っていた。そう、だから待っていたのだ。彼が来るのを。
「意地が悪いね。ティアが違うって、一言言ってくれたらよかったのに」
一言言ってくれたら、俺は単純だからそれで安心するのに。
とても単純そうに見えない彼は、そういって小さく笑った。眉を寄せて、唇を噛みしめて浮かべるその表情は笑顔ではなかったけれど、彼自身は笑って見せたと思っているんだろう。
上体を起き上がらせていたわたしは、静かに彼の首へ手を伸ばしゆるく抱きしめた。ほっと耳元で息をつかれる。それにはわずかな安堵が含まれてはいたが、到底隠せるはずのない不安も存在していた。
「断ったわよ。あと数か月でこの城を出るわたしに、その提案はあまりにも、でしょう?」
当たり前のことを聞かないでちょうだい、とわざと明るく言えば彼はそれもそうだね、とまた耳元で囁かれる。
彼の顔が見えなかったけれど、多分苦く笑っているのだろうと簡単に予想できた。当たり前の返答に安堵している一方で、決して最後までわたしを信じられないことに対する自嘲だろうか。彼の黒い髪をゆっくりと撫でながら、『心配性ね』とこちらも笑って見せる。
「まぁ、もし君が承諾しても、俺は許さないだろうけど」
「あら、強気ね。隊長殿」
言葉遊びを楽しむ余裕など、お互い持っていないはずだろうに。
彼は決してわたしの決めた結論に『否』とは答えないだろう。答えられないだろう。わたしが強く望めば、それがわたしにとってよいことだと分かれば、彼はきっとあっけなくこの手を離してしまうだろう。
たとえその後何度後悔すると分かっていたところで、彼は笑ってわたしを手放す。幸せになれ、と背中を押す。
血を吐くような苦労さえ、彼はするだろう。何でもない顔をして、わたしを送り出してくれるだろう。わたしがここへ残れと言ったところで、承諾するのは目に見えていた。
わたしも、もしそれが本当に正しい道ならば選ぶだろう。彼の手を振り払うだろう。……それでも、わたしは後悔することを許されてはいないけど。
わたしがとる道はいつだって『正しい』のだから。
「本当だよ、ティア」
「ええ、そうかもね」
嘘つきなんだね、あなたもわたしも。
できもしないことを口に出している。彼の漆黒の髪を梳きながら、わたしは意味のない思考に溺れそうになっていた。
ここで好きよ、などと呟いたところではたして彼は本気で受け取ってくれるだろうか。
「俺は君が思っているほど従順な犬じゃない」
とすっと軽い音がして、気づいたら天井を背負ったアレクが目の前にいた。見慣れた天井に、見慣れぬアレクの表情。
瞬時に状況を把握すれど、その対応が決まらずにしばらく彼を見つめていた。その瞳がわずかに陰っていて、それを問いただすことも見なかったふりをすることもできなかった。
「そうね、従順じゃないわ。よく命令だって聞かないし、守ろうとするし、心配性だし、不安だって抱くし」
命令を聞かないのは、わたしの命令がわたし自身を傷つける可能性を見ているから。守ろうとするのは、わたしに傷一つつかないようにしたいから。心配性なのはわたしがよく危険を顧みずに行動するからだし、不安を抱くのはわたしが『王女』であろうとするからだ。
全部本を正せばわたしのせいで、わたしのためだ。
「飼い犬には注意した方がいい。油断しているといつか喉元を噛みつかれるよ」
そう言って、彼は緩くわたしの首元を食んだ。淡く型がつかない程度に、優しく。しかし唇だけではなく歯もたてて。
ほんの少し肩を揺らせばそれだけで離れてしまうだろう。だから離れようとする彼の後頭部に腕を回し、力任せに引き寄せた。欠片の躊躇もなく、手加減もせずに引き寄せたおかげで彼の体勢が崩れる。
「ティア」
「さすがね、もっと勢いよく突っ込むかと思ってた」
容赦なく、前触れもなく彼の頭を思いっきり引き寄せたはずなのに、彼はベッドに手をついてわたしが潰れるのを防いだ。もっとも、彼が数秒乗ったくらいで潰れるような軟な体はしていないつもりだったが。
彼の声に戸惑いを感じるが、それでもお構いなしに彼の後頭部に回した腕に力を込めた。彼が本気になれば普通に引きはがされてしまうだろうけれど。
「アレク、わたしはあなたにまだこれを伝えてなかったわね」
彼が安心してわたしを信じる方法など、わたしが知るわけもない。彼ではないし、わたしもわたしが安心する方法など知らないのだから。きっと彼も、彼自身が安心する方法など知らないのだろう。
だからわたしはその安心を得る道具だけ、彼に与えようとする。使い方も方法も彼任せ。どうとでもすればいい。それは彼の自由だ。
「すきにして、いいよ」
「っ」
彼が耳元で息をのむ。その音を聞きながらわたしは口元が緩むのを止められずに、くっと喉の奥に笑い声を飲み込む。
わたしが彼に与えてやれるものなど、そんなに多くはない。そもそも多くのものを持っていないし、きっとこれ以降、なくしてばかりだろう。王族を降りればきっと、彼に渡せるものなどこの身くらいしかないだろう。
淑女を守る名誉も、王女の騎士だという地位も、すべては失われてしまう。だからこそのこのセリフだ。それを彼は理解しているだろうか。
「好きにすればいい」
「ティア」
「自暴自棄になってるわけでも、何も考えてないわけでもないよ。だけどね」
彼を不安にしている現状が、実のところわたしには耐えられないのだ。それを救えないのも、自意識過剰ではあるが許せないのだ。
……救えるのはわたしだけだという、謎の自信の元。
「これでアレクの不安が少しでも和らぐなら、それは安い代償だと思ったのよ。ううん、代償なんて言葉も正しくないわね、わたしが失うものなど何もないし、むしろ得ることしかないんだから」
きっとアレクが何をしたって、わたしは得ることしかない。ありとあらゆるものを、彼の行動を通して得る。
それが痛みだったところで、傷だったところで何の支障もないのだから。
「あまり、飼い犬を甘やかさないで……。君を、大切にできなくなるから」
後悔しても遅いよと、アレクは甘やかに笑った。
「望むところよ」
そのセリフは最後まで続かず、彼に吸い込まれた。
「姫? 首元いかがされました?」
「ええ、少しばかり噛まれてしまって」
にっこりと他国の使節団に笑いかければ、青年大使はそうですかと素直に笑った。青年大使の言葉に首元へと巻いたスカーフの位置を静かに直す。
見せてもいいが、少しもったいないと感じてしまうのはいかがなものか。いや、支度をしてくれた侍女たちはこぞって見ないふりをしてくれたから、今更な問題なんだろう。
「虫よけの香などいかがでしょうか。我が国にはよく効くものもございますし」
「あら、でもこれ、虫ではないのです」
きょとん、と邪気もなく首を傾げた目の前の青年にうっすらと口元に笑みを刷く。後ろで気まずそうにしているであろう自分の騎士など気にも留めず、自分にできる精一杯の艶やかな笑みを顔に張り付けた。
犯人なんて分かっている。それは本能的に咬むような虫ではない。善悪が分かってわざと噛む悪い『モノ』。
「えっと、では何に噛まれたのですか?」
ぐっと笑い声を飲み込んだのは自分自身か、はたまた少し離れたところに佇んでいる黒い方の隊長か。
そんなことを気にしながら、大人しくこちらの返答を待ち望んでいる大使へと視線を戻した。あぁ、この返答を聞いてアレクはどんな表情をするのだろうか。目の前の青年のリアクションよりはむしろそちらの方が気になり、そわそわしてしまう。
「飼い犬に。少々甘やかしすぎてしまったようです。甘やかしたいと思ったのはわたしなんですけど、油断していたらぱっくりと。噛み跡がついてしまったのですわ」
「姫は犬を飼ってらっしゃるんですね。どんな犬なのです?」
「そうですね、賢くて主人には従う子です。黒い毛が美しくて、つい何度も撫でてしまうのです。いつもは従順で、わたしの言うことは絶対聞く子なんですけど、昨日は違ったみたいで」
可愛らしいですね、という当たり障りのない彼の返答に『ええ、もちろん』と返せばついに窓際に立っていたエイルの肩が震え始めた。
アレクはというと、剣の柄に手をかけて、エイルの方をじっと見つめている。その顔は恐ろしいくらいに無表情で、今回ばかりはエイルの無事を願うしかなくなった。
……少し苛めすぎてしまっただろうか。しかしそれもこれも全ては箍を失って歯止めがきかなかった彼自身が悪いのだ。
一切の余裕をはぎ取られたこちらがどんな気持ちだったかもしれないで。
「ですが姫を噛むのは感心しませんね。いくら犬とはいえ、姫の肌に傷をつけるだなんて」
「ええ、キツイお仕置きをしているところですわ」
痛みならば我慢の仕方など分かっていた。苦しみなら耐え抜く方法など知っていた。
しかし過ぎた幸福感と快感はひたすらに頭の中をかき乱し、冷静な判断を失わせるだけ失わせて音を立ててはじけ飛んだ。
ああいうときだけ余裕があった彼を恨めしく思う。きっと問い詰めれば、自分にだって余裕などなかったと言い訳するに違いないけれど。
「それでも姫は、その犬をとても愛していらっしゃるようです。僕も拝見したいものですね」
「駄目ですわ、焼きもちやきですから、大使様にも噛みつくかも」
あなたも見ている、わたしの背後に控える騎士のことですよ、とわざわざ教えてやるいわれもない。
これで十分お仕置きになっただろうとエイルに目配せすれば、彼は爆笑寸前のところを必死にこらえているようだった。
大使が帰った瞬間に爆発するのは目に見えていたので、そっとため息をつく。アレクの手が剣から離れない限り、この後に続く悲劇が変わることはないだろう。
「それはご勘弁願いたい。実のところ、僕も幼いころに子犬に噛まれてしまって、それ以来少し怖いのですよ」
「確かに、うちの子はわたし以外には懐きにくいようですわ」
滞在中にまたお会いしたいですね、という言葉を残して、大使は出ていく。その振る舞い一つをとっても完璧な紳士だったが、少々刺激が足りないお相手だな、とは思った。
「あっはっはっはーー。アレク、お前、犬扱い。飼い主に噛みついた駄犬。」
「エイル、声が大きいわよ」
「よし、エイル。その駄犬がお前の首掻っ切るぞ?」
「姫様―、駄犬の躾しっかりしてくださいよぉー。噛まれちゃいますよ、また」
「よし、アレク。やってよし」
そんなことを言いながら、わたしはドレスの裾を翻して扉を開けた。きちんと首元が隠れているかを手で確認し、再びスカーフの位置を直す。
やっぱり気になるのだ、どこにそれを悪用する輩がいるか分からないのも事実であるし。あぁ、それでもこれを言っておかねばまたアレクはよからぬ誤解をするだろう。
そう判断して、振り返った。
「後悔しているわけじゃないのよ? 騎士様」
何度でも繰り返そうか?
すきにして、いいよ。
言わなさそうなセリフをあえてチョイスした挙句に、最初はアレクに言わせようとしていたのは内緒です。
……もうアレクに言わせると、ヒロインが男前にしかならないので、なけなしの理性でティアちゃんに言ってもらいました。
お題って難しい。