第9話:「今日はお疲れ様ッス! ハイタッチしてサウナ行こ!」
第9話:「今日はお疲れ様ッス! ハイタッチしてサウナ行こ!」
無数のコピー用紙が形成する刃の竜巻が、廃オフィスビルの天井を削り取る。
積み上げられたスチールデスクの頂上で、倉田涼音は夏帆の熱い胸板に顔を押し当てたまま、チタンフレームの眼鏡の奥で息を殺していた。
足元では、痩せ細ったスーツ姿の男——社畜霊・田中が、PCモニターの残骸から上半身を完全に這い出させている。男の眼球は裏返り、毛細血管が破裂してどす黒い血の涙を流していた。
『オワラナイ……ダレモ……ミテクレナイ……』
労働という名の無間地獄。誰からも労われることなく、孤独にコンクリートの床で冷たくなっていった男の怨嗟が、空間の酸素を根こそぎ奪っていく。
男の両腕が、異常な長さに間延びした。
骨と皮だけになった指先が、天井近くのデスクにいる夏帆と涼音の足首を目指して、蛇のように這い登ってくる。触れられれば、過労死の絶望が心臓の動きを強制停止させる。
「うおっ、めっちゃ腕伸びるじゃん! 関節の可動域エグいね!」
夏帆の鼓膜を破るような声が、重苦しい死の静寂を粉砕した。
彼女は涼音の腰を抱えていた左手をふわりと離すと、スチールデスクの天板を蹴って、単身、眼下の男に向かって跳躍した。
「ちょっ……」
涼音の制止の声は、空気を切り裂くジャージの摩擦音に掻き消された。
ナイキ・ショックスのヒールスプリングが、リノリウムの床に激突し、凄まじい衝撃吸収と反発の音を鳴らす。
夏帆は、伸びてくる男の怨念の腕を、強靭な体幹を活かしたステップで紙一重で躱しながら、一直線にPCモニターの残骸へと突っ込んでいく。
「でもさ、働きすぎはマジでNG! ストレスでコルチゾール分泌されたら、せっかく鍛えた筋肉が分解しちゃうからね!」
男の霊が、血走った眼窩を夏帆に向けた。
怨霊の悲劇的なコンテクストなど、限界まで筋肉を追い込む陽キャの視界には一ミリも入っていない。夏帆の目に映っているのは、「休憩も取らずにオーバーワークを続け、筋肉を分解させている効率の悪いジムの会員」だけである。
『ザンギョウ……シロ……!!』
「今日の営業はもう終わり! アタシと一緒にサウナ行って整お!」
夏帆は、右腕を大きく後方へ振りかぶった。
広背筋から三角筋、そして前腕へと伝達される、淀みのない完璧な運動連鎖。
夏帆の右の手のひらが、血の涙を流す田中の右手に、渾身の力とスピードで叩き込まれた。
パァァァァァァァァァンッ!!!
空気を破裂させるような、乾いた強烈な打撃音が、廃オフィスビル全体に響き渡った。
圧倒的な物理的衝撃。
ハイタッチ。
「今日はお疲れ様ッス!!」
夏帆の、純度百パーセントの労いの言葉が、男の鼓膜を打った。
空間を吹き荒れていた紙の刃の竜巻が、ピタリと静止した。
男の霊は、弾き飛ばされた右手を宙に浮かせたまま、凍りついたように動かなくなった。
何百時間ものサービス残業の末に、彼がたった一言、誰かから最も欲しかった言葉。それを、見ず知らずの蛍光イエローのジャージを着た女が、満面の笑みと、手から伝わる火傷しそうなほどの熱量とともに叩き込んできたのだ。
「……おつかれ、さまでした……」
男のドス黒い眼球から、インクの混じった涙がこぼれ落ちた。
青白かった肌に生気が戻り、ひどく穏やかな顔つきに変わる。男の身体は柔らかな光の粒子となって、天井の蛍光灯へと吸い込まれるように消えていった。
カチリ。
フロアの柱に取り付けられていたタイムカード打刻機の赤い数字が、音を立てた。
『00:00』でループしていた異常な時間が、『08:00』へと切り替わる。
ガァァァァンッ!!
背後の重厚な鉄のシャッターが自動的に巻き上がり、眩しい朝の陽光が、コンクリートのフロアを真っ白に照らし出した。
「ふーっ、いい汗かいた! 最高のアジリティトレだったわ!」
夏帆が大きく伸びをし、首の骨をポキポキと鳴らす。
涼音は、積み上げられたデスクの上から静かに降り、無言で夏帆に歩み寄った。パンプスのヒールが、床に落ちたただのゴミとなったコピー用紙を踏み砕く。
夏帆の右手。
男の霊とハイタッチを交わしたその手のひらには、うっすらと黒いヘドロのような冷たい粘液が付着していた。
涼音は自分のスーツの胸ポケットから、純白の高級なシルクのハンカチを取り出した。
そして、一切の躊躇なく夏帆の右手を両手で包み込むようにガッチリとホールドする。
「おわっ、涼ねえね? どうしたの?」
「……未知の有機体による、経皮感染のリスク排除ですわ。出所の知れない物質との直接的な接触は、衛生管理上、看過できません」
涼音の声は氷のように冷たく、極めて論理的だった。
だが、その行動は言葉と完全に矛盾している。使い捨ての除菌シートではなく、わざわざ自身の私物であるハンカチを用い、夏帆の右手をゴシゴシと力任せに拭き上げている。汚れはすぐに落ちた。しかし、涼音は手を離さない。
それどころか、夏帆の右手を自分の胸元に引き寄せるように、異常な力で強く握り込んでいる。
「いや、もう綺麗になったっしょ? ハンカチめっちゃ汚れちゃってるよ?」
「物理的な摩擦による表面温度の回復が必要です。細胞が冷死する危険性がありますわ」
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、一切の光を宿さない瞳を細めた。
他者の痕跡を、自分の所有物で徹底的に拭き取る。
拭き終えた後、涼音はその黒く汚れたシルクのハンカチを捨てることなく、丁寧に折りたたみ、再び自分の胸ポケット——心臓のすぐ上——へと深く滑り込ませた。
「わたくしは、この未知の病原体のサンプルを保存し、後日成分分析を行う義務があります。感染症対策の基本ですわ」
「おー、さっすがインテリ! リスク管理バッチリだね!」
夏帆は自分の手が胸元に引き寄せられていたことの異常性に全く気づかず、朝日に向かって眩しそうに目を細め、プロテインシェイカーを呷った。
涼音は胸ポケットのシルクのハンカチの上から、自分の心臓をそっと押さえた。
生地が吸い込んだ夏帆の手の熱と汗が、布越しに直接、涼音の肌をじりじりと焦がしている。
——これは、サンプル保存だ。
朝の冷たい空気の中、涼音は完璧な理屈の城壁の内側で、狂ったように跳ね回る自身の脈拍を、誰にも気づかれないように深く、深く飲み込んだ。




