第8話:「ラップ音、BGMとして最高! 障害物パルクールいくよ!」
第8話:「ラップ音、BGMとして最高! 障害物パルクールいくよ!」
首筋に押し当てられた除菌シートのアルコールの揮発が、周囲の異常な冷気をさらに鋭利にしていた。
倉田涼音は、自分の指先から伝わる夏帆の頸動脈の激しい拍動を、チタンフレームの眼鏡の奥で冷徹に処理し続けていた。物理的な接触による脈拍数のモニタリング。これは前衛の疲労度を測るための、後方支援としての必須業務だ。
決して、この暴力的なまでの生命力に触れ続けていたいという、非合理的な欲求ではない。
その時だった。
ドンッ!!
バァァァンッ!! ギィィィッ……!!
廃オフィスビルのコンクリートの壁の奥から、建物の構造そのものをへし折るような爆音が立て続けに響いた。
壁が鳴り、天井が鳴り、足元のリノリウムの床が波打つように震える。
ラップ音。心霊現象における典型的なポルターガイストの前兆。空間に蓄積された怨念が限界値を超え、物理的な破壊音として顕現する現象だ。
デスクの奥で蠢く社畜霊・田中の眼球が、どす黒い血の涙を流しながら完全に裏返っていた。自分の呪詛であるタイピング音を、ただのトレーニングの伴奏扱いされた屈辱と怒り。何百時間ものサービス残業を強いられた末に死んだ男の執念が、フロア全体の重力を狂わせ始める。
ガシャァァァンッ!
天井の蛍光灯が次々と破裂し、ガラス片が雪のように舞い散る。空中に浮かび上がった何十台もの古いCRTモニターや、錆びついたスチールキャビネットが、明確な殺意を持って二人を取り囲んだ。
完全な四面楚歌。質量を持った暴力の嵐。
涼音は、無意識のうちに夏帆の首筋から手を離し、自分のスーツの裾を白くなるまで強く握りしめた。計算尺が追いつかない。飛来する質量の総和が、回避可能なリミットを遥かに超えている。
「うおーっ! マジか!」
夏帆の鼓膜を破るような声が、絶望の静寂を打ち砕いた。
「このラップ音、腹に響く重低音効いててBGMとして最高じゃん! しかも障害物が動くとか、難易度設定エグすぎ!」
夏帆の瞳には、死の恐怖など一ミリも映っていなかった。
彼女は、空間を埋め尽くすポルターガイスト現象の爆音を「アンダーグラウンドなクラブの極上ビート」として完璧に誤認していた。そして、宙に浮く巨大なオフィス家具の群れは、彼女にとって「最高にエキサイティングなパルクールのコース」に他ならなかった。
「っしゃ、障害物パルクールいくよ! アタシのステップ、見逃さないでね涼ねえね!」
キュッ、キュキュッ!
22.5センチのナイキ・ショックスのヒールスプリングが、凄まじい摩擦音を立てて床を蹴った。
夏帆の身体が、弓矢のように前方へ射出される。
迫り来る巨大なスチールキャビネット。激突すれば全身の骨が砕け散る質量の塊に対し、夏帆は一切の減速を見せなかった。
タンッ、と。
空中に浮遊するキャビネットの側面を、スニーカーのソールで垂直に蹴り上げる。強靭な体幹と腹斜筋の収縮を利用した、重力を無視するような壁走り(ウォールラン)。
そのまま空中で身体を捻り、背後から襲いかかってきた三台のCRTモニターの隙間を、体操選手のような錐揉み回転で潜り抜ける。
カシャカシャカシャカシャッ!!
夏帆の両手には、毒々しい色のBCAAが入ったプロテインシェイカーが握られていた。
彼女はそれを、爆音のラップ音のBPMに合わせるように、激しく、リズミカルに振り鳴らす。
プラスチックの容器の中で金属のブレンドボールが暴れ回る乾いた音が、怨霊が発する重苦しい呪詛の波長を、物理的なノイズとして片っ端から粉砕していく。
「ほらほら! ビートが遅いよ! もっとテンポ上げてこーぜ!」
夏帆の煽りに呼応するように、田中の霊が絶叫を上げた。
バババババッ!
空中に浮かんでいた無数の穴あけパンチや重厚なバインダーが、散弾銃のように夏帆へ向かって発射される。
カチッ。
夏帆の右手で、鎖の巻き付いた十字架型の公式ペンライト『ヘラヴィック』が発光した。
ブラッドオレンジの極彩色ネオンが、暗闇のフロアに鮮烈な軌跡を描く。夏帆は飛来する文房具の散弾を、無駄に重く頑丈なペンライトの質量で、まるでライブのコール&レスポンスを楽しむかのように、次々と弾き落としていく。
ガンッ! ギンッ! パキィィィン!
金属とプラスチックが激しく衝突する音が、狂ったラップ音と混ざり合い、異様なグルーヴを生み出していた。
涼音は、飛び交う瓦礫と怨念の嵐の中を、無表情のまま歩いていた。
夏帆の右斜め後ろ、十五センチ。
飛来する障害物の軌道を瞬時に演算し、夏帆が破壊した、あるいは躱した直後の「真空地帯」だけを正確に踏みしめて進む。
スリップストリーム現象の応用。前衛が切り裂いた空気の抵抗ゼロの空間に入り込むことで、自身の安全を完全に担保する。完璧な生存戦略だ。
だが、涼音の視線は、周囲の脅威ではなく、目の前で躍動する夏帆の背中——黒いタンクトップから露出した、肩甲骨のしなやかな動きにのみ釘付けになっていた。
飛び散る汗の粒が、ブラッドオレンジの光を反射して宝石のように輝いている。
周囲で何台ものデスクがひしゃげ、怨霊が血の涙を流しているというのに、この女の放つ圧倒的な熱量とシトラスの香りだけが、世界で唯一の絶対的な真理として涼音の脳を支配していた。
『ユルサナイ……オマエラモ……ザンギョウ……シロ……!!』
田中の霊が、最後の力を振り絞った。
フロア中のすべてのコピー用紙が空中に巻き上がり、巨大な刃の竜巻となって、涼音の背後から迫り来る。
涼音が振り返るより早く、彼女の演算能力が「回避不能」の四文字を弾き出した。背中の皮膚が、切り裂かれる直前の錯覚で粟立つ。
「おっと、そっちはコースアウト!」
ドンッ、と強い衝撃が涼音の腰を捉えた。
夏帆の左腕だった。
夏帆は凄まじい脚力で床を蹴ると同時に、涼音の腰をガッチリと抱え込み、そのままの勢いで空中へと跳躍した。
フワリ、と内臓が浮き上がる感覚。
涼音の顔が、夏帆の熱い胸板に押し付けられる。
鼓膜越しに、夏帆の力強い心音と、限界まで酸素を取り込む肺の駆動音が直接叩き込まれた。
眼下を、無数の紙の刃の竜巻が通り過ぎ、コンクリートの壁を深くえぐり取っていく。
「よっと!」
夏帆は空中で見事に体勢を立て直し、積み上げられたスチールデスクの山の上に、涼音を抱えたまま音もなく着地した。
スニーカーのクッションが衝撃を完全に吸収し、涼音にはわずかな振動すら伝わらなかった。
「大丈夫、涼ねえね? 今のトラップ、結構エグかったね」
夏帆が笑いかけ、涼音の腰から腕を離そうとする。
だが。
「……動かないでください」
涼音は、夏帆の胸に顔を埋めたまま、彼女の背中に回した自分の両腕に、さらに強い力を込めた。
スーツの生地越しに伝わる、夏帆の異常なまでの体温。シトラスの香水と汗の匂いが、涼音の理性を片っ端から焼き切っていく。
涼音のチタンフレームの眼鏡は完全にズレていたが、直そうともしなかった。
「お? どした? 足挫いた?」
「……急激な三次元移動による、三半規管の一時的な機能不全です。平衡感覚が完全に回復するまで、この物理的な固定状態を維持する必要があります」
涼音の口から、冷徹な響きの理屈がすらすらとこぼれ落ちる。
完璧な自己欺瞞。
腰を抱き寄せられた瞬間、得体の知れない安堵感が全身を貫いた事実を、涼音は決して認めない。
「そっか! じゃあ治るまでしっかり捕まってなよ! アタシの体幹、ブレないからさ!」
夏帆は涼音を抱きしめ返すと、空いた右手でプロテインシェイカーを高く掲げた。
カシャカシャカシャッ!!
プラスチックの衝突音が、廃オフィスビルに高らかに響き渡る。
涼音は、夏帆の熱い胸の中で、自分の心臓が、先ほどのポルターガイスト現象よりも遥かに大きく、狂ったようなラップ音を打ち鳴らしているのを、ただ静かに聞いていた。




