第7話:「ここ24時間営業の貸切ジム!? デスクの配置神じゃん!」
第7話:「ここ24時間営業の貸切ジム!? デスクの配置神じゃん!」
大型SUVのダッシュボードで発光するデジタル時計は、午前五時十二分を示していた。
だが、車窓の外を流れる景色は、真夜中と見紛うほどの漆黒に沈み込んでいる。日の出時刻はとうに過ぎているはずだが、太陽の光はおろか、星の瞬きすら見えない。分厚く澱んだ暗雲が、空という空間そのものを押し潰しているようだった。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
気象庁のデータサーバーへの接続エラー。GPSの座標取得失敗。局地的な異常気象、あるいは磁場異常による計器類のバグ。理論上の仮説をいくつも並べ立ててみるが、車内の空調が全く効かず、吐く息が白く濁り始めている事実を前にしては、どれも無力だった。
ドゥン、ドゥン、ドゥンッ!!
氷点下に迫ろうかという冷気の中、車内のスピーカーからはK-POPアイドル『HELL/AVEN』の重厚なEDMが爆音で鳴り響いていた。
運転席の望月夏帆は、黒のタンクトップ一枚という薄着のまま、ハンドルをドラム代わりに叩いてリズムに乗っている。彼女の筋肉からは、先ほどの洋館での運動による代謝の熱が、未だに白い湯気となって立ち昇っていた。
「あー、肉食ってプロテイン飲んだらマジでエネルギー有り余ってきた! 涼ねえね、次は朝トレ行くよ!」
「……朝、ですか。現在の外部環境の照度は、深夜二時と同等レベルですが」
「細かいことは気にしない! ネットで見つけた、超穴場の24時間営業ジム! ほら、着いた!」
キィィィン、とブレーキディスクが鳴り、SUVが停車した。
ヘッドライトが照らし出したのは、ジムなどという健康的な代物ではない。
バブル崩壊とともに放棄されたであろう、十階建てのコンクリートの残骸。廃オフィスビルだった。
窓ガラスはことごとく割れ、外壁のクラックからは赤錆を含んだ黒い水が涙のように流れ落ちている。エントランスの自動扉はひしゃげ、建物の奥からは、古いインクと酸化した缶コーヒー、そして行き場を失った怨念が発酵したような、強烈な腐臭が漂っていた。
「うおー、コンクリ打ちっぱなしのインダストリアルな外観! 最近こういう無骨なジム流行ってんだよね!」
「……法人の登記すら抹消されているはずの廃墟です。建造物侵入の罪に問われるリスクが——」
涼音の理屈が終わる前に、夏帆はスポーツバッグを肩に担ぎ、弾むようなステップでエントランスの暗闇へと吸い込まれていった。
涼音は小さく息を吐き、足元の泥をパンプスの踵で落とすと、慌てて夏帆の背中を追った。彼女の右斜め後ろ十五センチという、戦力集中における絶対安全圏を維持するためだ。
エントランスを抜け、広大なワンフロアのオフィス跡に足を踏み入れた瞬間だった。
ガァンッ!!
背後で、重厚な鉄のシャッターが叩きつけられる音がした。
涼音が振り返ると、そこにあったはずのひしゃげた自動扉は消え失せ、シミだらけのコンクリートの壁が立ちはだかっていた。
退路の完全なる遮断。閉鎖空間の形成。
ジジ……ジジジジッ。
フロアの天井で、電力が通っていないはずの蛍光灯が、青白い光を点滅させ始めた。
フロアの中央を貫く太い柱。そこに掛けられたアナログ時計の針は剥がれ落ちているが、その下に取り付けられた赤いデジタルのタイムカード打刻機だけが、異常なほどの輝きを放っている。
『00:00』
深夜零時。
赤い数字は明滅を繰り返すが、一向に『00:01』に変わる気配がない。
時間のループ。あるいは、永遠に終わらない深夜残業の疑似空間への強制アクセス。
涼音の呼吸が浅くなる。喉の奥に、鉛を流し込まれたような重苦しさがへばりつく。閉鎖空間における認知バイアスの罠だと頭で理解していても、身体にまとわりつく冷気は確実に体温を奪っていく。
バサッ。
夏帆が、スポーツバッグを床に放り投げた。
「ここ24時間営業の貸切ジム!? デスクの配置神じゃん!」
夏帆の目が、蛍光灯の青白い光を反射してギラギラと輝いていた。
彼女が指さした先には、錆びついたスチール製のオフィスデスクが、等間隔に何十列も並んでいる。床には書類やフロッピーディスクの残骸が散乱し、異様な光景を作り出していた。
「この等間隔の障害物、アジリティ(敏捷性)のトレーニングに最適すぎる! サイドステップからのボックスジャンプ、無限にコース組めるわ!」
「……貴女の目には、これがアスレチックの機材に見えているのですか」
「工夫次第でどこでもジムになるっしょ! よっしゃ、アップ始めるよ!」
キュッ、キュッ、キュッ!
22.5センチのナイキ・ショックスのヒールスプリングが、リノリウムの床を擦る強烈な摩擦音を鳴らした。
夏帆は一切の躊躇なく、スチールデスクの間を縫うように、高速のサイドステップ(反復横跳び)を開始した。鍛え抜かれた筋肉が収縮し、バネのように弾ける。
その時、フロアの奥の暗がりから、異音が響き始めた。
タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタッ!!
ッターーーーンッ!!!
狂ったような、キーボードのタイピング音。
デスクの奥、PCモニターの残骸の前に、ひどく痩せ細ったスーツ姿の男が座っていた。
肌は蛍光灯のように青白く、眼球の裏側まで黒く染まっている。男の鼻からはドス黒い血が滴り落ちているが、彼はそれを拭おうともせず、虚空に向かって指を打ち付け続けている。
『ノウキ……マニアワナイ……シュウセイ……モウヤダ……シンデモ……オワラナイ……』
社畜霊の呪詛が、空間を伝播する。
タイピングの音が鼓膜を打つたび、涼音の視界がぐにゃりと歪んだ。精神を直接削り取る、労働という名の拷問の記憶の強制共有。
——危険だ。このままこの音を聞き続ければ、脳神経が不可逆のダメージを受ける。
カシャカシャカシャカシャカシャッ!!!
耳を劈くタイピング音を、無機質で乾いたプラスチックの衝突音が暴力的に粉砕した。
夏帆が、サイドステップを踏みながら、両手で持ったプロテインシェイカーを激しく振り回していたのだ。
金属のブレンドボールが内壁を叩きつける甲高い音が、男の怨嗟のタイピング音のテンポを完全に狂わせる。
「BGMちょっと暗いけど、ビートは結構イケてるね! その調子でBPM上げてって!」
夏帆は社畜霊の呪詛を「トレーニング用の伴奏」と誤認し、さらにステップの速度を上げた。
キュッ! ギチッ!
ショックスのソールが鳴り、夏帆がスチールデスクの上に跳躍した。そのまま隣のデスクへ、さらにはその隣へ。無重力のような身のこなしで、フロア中のデスクを飛び石のように駆け抜けていく。
『……ァ……ァァァ……』
自分の呪詛を完全に無視された男の霊が、ギリギリと首を百八十度回転させた。
男の背中から、どろりとした黒い影がヘビのように伸びる。それは床を這い、デスクから着地しようとする夏帆の足首へと、明確な殺意を持って迫った。
——過労死の道連れ。触れられれば、その瞬間に心臓が停止する。
トン、と。
涼音の黒いパンプスが一歩前に出た。
夏帆が着地するコンマ一秒前。夏帆の足首を捉えようと鎌首をもたげた黒い影の手の甲を、涼音のパンプスの鋭利なヒールが、上から全体重を乗せて容赦なく踏み抜いた。
グチャリ。
霊体であるはずの腕が、物理的な質量を持ってひしゃげる感触がヒールから伝わる。
「……前衛の機動力を削ぐ床面の障害物は、後方支援を担うわたくしが排除する。兵站維持の基本原則ですわ」
涼音は無表情のまま、ヒールの下で蠢く黒い影をさらに強く、グリグリと床に擦り付けた。
男の霊が声にならない悲鳴を上げる。
夏帆が軽やかに着地し、「おっ、涼ねえねナイスカバー!」と笑顔を向けた。
涼音はヒールから足を離すことなく、ポケットから除菌シートを引き抜いた。
そして、一切の躊躇なく夏帆へ歩み寄り、彼女の首筋——激しい運動によって汗ばみ、強い脈を打っている頸動脈の真上——に、冷たいシートを力強く押し当てた。
「わっ、冷た! どしたの涼ねえね?」
「……閉鎖空間における、浮遊粉塵の付着です。毛穴からの有害物質の侵入を防ぐため、物理的な拭き取りを行いますわ」
涼音の口から出るのは、完璧なまでに冷徹な衛生管理の理屈だ。
だが、その指先は除菌シート越しに、夏帆の力強い脈拍を、自身の指の腹でじっくりと、執拗に確かめ続けていた。
他者の呪いなど、一ミリも触れさせない。
この圧倒的な生命力も、熱も、脈打つ血の音も。今この空間で管理し、触れることができるのは自分だけだ。
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、自身の内側にどす黒く渦巻く感情に完璧な蓋をしながら、夏帆の汗ばんだ肌を赤くなるまで擦り続けた。




