第6話:「肌めっちゃ綺麗っすね! どこの化粧水使ってんの!?」
第6話:「肌めっちゃ綺麗っすね! どこの化粧水使ってんの!?」
井戸の縁で静止した女の顔面から、ボロリ、と腐肉の塊が剥がれ落ちた。
洋館の中庭を支配していた重たい水音が、不気味なほど完全に途絶える。無音。ただ、急激な冷気によって夏帆の筋肉から立ち昇る白い湯気だけが、暗闇の中で揺らめいている。
——来る。
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、無意識のうちに息を止めた。
物理的な接触による呪詛(髪の毛による絞殺)が破られた以上、次に怪異が選択するのは、精神への直接的な干渉だ。認知心理学における自己像の破壊。
涼音は夏帆の右腕から手を離し、即座に彼女の黒いタンクトップの背中の生地を強く握りしめた。いざという時、彼女の重心を強引に後ろへ引き倒すためのアンカーだ。
ずるり。
井戸から這い出した女の身体が、重力を無視したような動きで宙に浮き上がった。
白い死装束が、赤黒い泥水をしたたらせながら中庭の空気を汚染していく。女は、夏帆の顔面からわずか三十センチの距離まで音もなく滑り寄った。
半ば溶け落ちた顔。露出した歯茎と、泥に塗れた眼球。
女の喉の奥から、空気が漏れるような、ひどく掠れた声が響いた。
「…………わたし、きれい…………?」
古今東西、あらゆる水辺の怪異が用いる絶対的な呪いのトリガー。
否定すれば、その瞬間に肉体を八つ裂きにされる。肯定すれば、永遠に水底へと引きずり込まれる。どちらの解を選んでも、生存確率はゼロに収束する。完全なる二パターンの論理的死。
涼音の背筋を、氷を直接押し当てられたような悪寒が駆け抜けた。タンクトップを握る指先から、血の気が完全に失せる。
だが。
キュッ。
ナイキのショックスのソールが、濡れた枯れ草を踏みしめる音が鳴った。
逃げるのではない。夏帆は、強靭な体幹を一切ブレさせることなく、半歩、女の顔面に向かって前傾姿勢をとったのだ。距離はわずか十五センチ。互いの鼻先が触れ合うほどの至近距離。
カチッ!!
夏帆の右手に握られた『HELL/AVEN』の公式ペンライトが、最大出力で点灯した。
ブラッドオレンジの暴虐的な極彩色ネオンが、女の溶け落ちた顔面、剥き出しの歯茎、そしてドス黒い眼球を、至近距離から一切の容赦なくライトアップする。
「うわ、マジで……」
夏帆の目が、驚愕に見開かれた。
呪詛が発動する。涼音がタンクトップの布地を千切れるほど強く引き込もうとした、その瞬間だった。
「めっちゃ肌綺麗っすね!? 毛穴ゼロじゃん!!」
「……え?」
女の掠れた声が、素っ頓狂な摩擦音に変わった。
洋館の壁面で『ユルサナイ』と形作っていた血文字が、ボタボタと重力を取り戻して地面に崩れ落ちる。
「いや、マジでビビった! その透き通るような白さ! 泥パックの効果!? 井戸水ってミネラル豊富だから美肌効果エグいってネットで見たけど、マジだったんだ!」
「……は……?」
「しかも何その極限まで削ぎ落とされたフェイスライン! どこの化粧水使ってんの!? やっぱ保湿メイン!? それとも日焼け止め徹底してる系!?」
夏帆はブラッドオレンジの光で女の顔を隈なく照らしながら、食い気味に捲し立てた。
怨霊の過去の悲劇。容姿に対する深い絶望。数百年もの間、井戸の底で煮詰めてきた女の呪詛など、限界まで筋肉を追い込む陽キャの視界には一切入っていなかった。
夏帆の目に映っているのは、「極寒の水風呂(井戸)で徹底的にアイシングされ、泥パックで究極のスキンケアを施された、美肌の先輩」だけである。
「アタシもプロテインで内側からケアしてるけど、やっぱ外からの冷却も大事だわー! 姉さん、マジでリスペクトっす!」
夏帆は空いた左手で自分の上腕二頭筋を叩き、満面の笑みで女に向かって親指を立てた。
一切の打算も、恐怖もない。ただ百パーセント純粋な、相手の努力(?)に対する賞賛と肯定だけが、高密度の熱量となって女の顔面に叩きつけられる。
女の片方だけ残った眼球が、大きく見開かれた。
数百年。誰にも肯定されず、忌み嫌われ、化け物として恐れられ続けてきた。その容姿を、光り輝くような生命力を持った少女が、至近距離で「綺麗だ」「リスペクトする」と絶賛しているのだ。
ポロリ、と。
女の眼窩から、泥ではない、透明な涙の雫がこぼれ落ちた。
雫が地面に触れた瞬間、中庭を覆っていた息苦しい水底の気圧が、嘘のように霧散した。女の半ば溶け落ちていた顔が、淡い光に包まれながら、本来の整った目鼻立ちへと再構築されていく。
「……ありがとう……」
涼やかな声が、夜風に溶けた。
女は夏帆に向かって深く一礼すると、白い死装束ごと細かい光の粒子となって、夜空へ向かって吸い込まれるように消えていった。
——静寂。
中庭には、夏帆の荒い呼吸の音と、首塚公園の時と同じく、ただの夜の冷たさだけが残された。
涼音は、夏帆のタンクトップを握りしめたまま、微動だにしなかった。
確率計算も、認知バイアスの理論も、すべてがエラーを吐き出して停止している。
またしても。この女はまたしても、ただの力技と見当違いの熱量だけで、最恐の呪いを完全に粉砕してしまった。
「あーあ、行っちゃった。結局どこのメーカーの化粧水か聞きそびれたわ」
夏帆がペンライトの電源を切り、残念そうに肩を回す。
その言葉を聞いた瞬間、涼音の奥歯が、ギリッ、と微かな音を立てた。
涼音は無言で半歩前に出た。
泥のぬかるみの中に残っていた、女の霊が先ほどまで浮かんでいた空間。その真下にある濡れた枯れ草を、涼音は黒のパンプスのヒールで、一切の感情を排した動作で踏み躙った。
グチャリ、と泥が潰れる音が鳴る。
「……涼ねえね?」
「上を向いてください」
涼音はポケットから新しい除菌シートを引き抜くと、夏帆の顎を左手でガッチリと掴んだ。逃げ場をなくすような、強いホールド。
そのまま、右手で握ったアルコール純度高めのシートを、夏帆の頬へ力強く押し当てた。
「痛っ! ちょ、涼ねえね!?」
「局地的な硫化水素ガスの滞留による、皮膚へのダメージが懸念されます。得体の知れない現象との至近距離での接触は、極めて非合理的ですわ」
涼音の口調は冷徹で、抑揚がなかった。
だが、夏帆の頬を擦る手の動きは、異常なほどの執拗さを持っていた。女の顔面が近づいたというだけの空間。物理的な接触など一切なかったにもかかわらず、涼音は夏帆の頬が赤く擦り剥ける寸前まで、ゴシゴシと拭き上げ続ける。
——見られていた。
この熱源が、自分以外の得体の知れないモノに、至近距離で見つめられていた。
その事実に対する、論理的説明のつかないどす黒い不快感が、涼音の指先に暴力的なまでの圧力を生み出している。
「それに」
涼音はチタンフレームの眼鏡の奥で、一切の光を宿さない瞳を細めた。
「単なるオカルティックなノイズ現象に対して、『美醜』などという評価軸を持ち込む貴女の視覚認知は、完全に破綻していますわ」
「ええー? マジで綺麗だったじゃん! 涼ねえね、ひょっとして視力悪い?」
「……ええ。おかげさまで、貴女の異常性だけが極めて鮮明に見えております」
涼音は汚れた除菌シートを、先ほどヒールで踏み躙った泥の上へ無造作に投げ捨てた。そして、これ見よがしにそのシートごと、再びパンプスの踵で地面を抉るように強く擦り付ける。
完璧な滅菌処理。他者の痕跡の、完全なる排除。
「ふふっ、涼ねえね、マジで綺麗好きすぎるって!」
夏帆は自分の頬が赤くなっていることにも気づかず、ケラケラと笑ってジャージを拾い上げた。
涼音は中指で眼鏡のブリッジを押し上げ、乱れた呼吸を無理やり整える。
——生存戦略だ。これは自分を霊的脅威から守るための、絶対的な盾のメンテナンスに過ぎない。
いくら頭の中で言い訳を構築しても、夏帆の顎を掴んだ左手のひらには、火傷しそうなほどの熱が、鮮明に焼き付いたままだった。




