第5話:「この井戸水、極上の水風呂じゃん! 演出(血文字)も最高!」
第5話:「この井戸水、極上の水風呂じゃん! 演出(血文字)も最高!」
べちゃり。
べちゃり、べちゃり。
洋館の中庭の中央に鎮座する、崩れかけた石積みの井戸。その縁から、濡れた黒い髪の毛の束が、蠢く泥のように外側へと這い出し始めている。
髪の束は地面に触れると、まるで意思を持つ静脈のように四方八方へと枝分かれし、中庭の枯れ草を黒く塗り潰しながら広がっていく。
急激に、周囲の大気圧が変容した。
涼音は喉仏を押さえた。肺に空気が入らない。口をいくら開けても、気道を通り抜けるのは酸素ではなく、水底のヘドロのように重く粘り気のある冷気だけだ。
チタンフレームの眼鏡のレンズが、内側からの冷や汗で曇る。
——局所的な低酸素状態、あるいは硫化水素の滞留。水辺の廃墟における気体の比重異常……。
頭の中で演算装置をフル稼働させ、物理現象としての解を弾き出そうとするが、足元まで到達した黒い髪がパンプスのヒールに絡みついた瞬間、すべての論理がへし折られた。
井戸の縁に、手がかけられた。
白く膨張し、水を吸ったスポンジのような手。すべての指の爪が根元から剥がれ落ち、赤黒い肉が露出している。
ずぶり、と嫌な水音を立てて、井戸の中から女の頭部がせり上がってきた。
顔の皮膚は溶け落ち、眼球の片方は頭蓋骨から半分こぼれかけている。歯の抜け落ちた真っ暗な口腔から、泥水が滝のように溢れ出していた。
ゴボ……ボボボボ……ッ。
女の喉の奥から鳴る水泡音に呼応するように、背後の洋館の外壁から、赤黒い液体が噴き出した。
どろりとした液体は壁面を流れ落ちながら、明確な文字を形成していく。
『シネ』『ウラメシイ』『ミチヅレ』。
視界のすべてが、逃げ場のない呪詛で埋め尽くされる。
ジリリリリッ!!
水泡音と静寂を暴力的に引き裂いたのは、ナイロン製のファスナーが一気に引き下げられる音だった。
「あっつー! 肉食った後の筋トレ、マジで代謝上がりすぎ!」
夏帆が、蛍光イエローのジャージを勢いよく脱ぎ捨てた。
下から現れたのは、身体のラインに密着した黒のスポーツ用タンクトップ。先ほどのスクワットで極限まで追い込まれた大腿四頭筋だけでなく、三角筋や上腕二頭筋からも、濛々と白い湯気が立ち昇っている。
「うおっ、何この急激な気温低下! サウナからの水風呂セットアップ、マジで完璧じゃん!」
夏帆が中庭へ踏み出す。
キュッ、ギチッ!
スプリング機構を備えたナイキ・ショックスが、地面を埋め尽くす濡れた黒髪を、容赦ない踏み込みで踏みちぎる。夏帆は、足元で蠢く呪いの髪の毛を「滑り止めのマット」程度にしか認識していない。
「空気めっちゃ冷えてる! 肺胞の隅々までアイシングされるわー!」
夏帆は両手を大きく広げ、胸郭を限界まで膨らませて深呼吸をした。
ズォォォォッ、という肺の膨らむ音が中庭に響く。
致死量の怨念を含んだ瘴気、涼音の呼吸を止めた死の冷気を、夏帆は「極上のマイナスイオン」として細胞の隅々まで吸収していく。
井戸の女の頭部が、ガクリと不自然な角度で夏帆の方を向いた。
洋館の壁面を流れる血文字が、異常な速度で増殖し、巨大な『ユルサナイ』という文字を形成する。
カチッ。
夏帆が、鎖の巻き付いた十字架型の公式ペンライト『ヘラヴィック』を点灯させた。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、洋館の壁面に浮かぶ赤黒い血文字を毒々しく照らし出す。
「うっわ、このプロジェクションマッピング、血の滴るエフェクトめっちゃ金かかってんな! フォントもエッジ効いててサイッコー!」
夏帆は壁の血文字を指さして歓声を上げ、ペンライトを激しく振り回した。ブラッドオレンジの光の軌跡が、空間に充満する瘴気を物理的な質量で殴り飛ばしていく。
井戸の女の口から、ゴボッ、と大量の泥水が吐き出された。
次の瞬間、地面を這っていた黒髪の一束が鞭のように跳ね上がり、夏帆の露出した右腕の上腕二頭筋に巻き付いた。
髪の毛がギリギリと収縮し、肉を腐らせ、骨を砕こうと締め上げる。
「おっ? レジスタンスバンド?」
夏帆の目が輝いた。
彼女は右肘を曲げ、上腕二頭筋にグッと力を込めた。鍛え抜かれた筋肉が隆起し、物理的に膨張する。
ブチブチブチィッ!!
呪いの髪の毛が、筋肉の圧倒的な出力に耐えきれず、あっけなく弾け飛んだ。
「テンションは良いけど、高負荷のセット組むにはちょっと耐久性足りないね!」
夏帆は千切れた髪の毛を無造作に払い落とし、屈伸運動を始めた。
涼音は、夏帆の背後十五センチの特等席で、大きく息を吸い込んだ。夏帆の身体から放たれる莫大な熱量と、ペンライトの光圧によって、息苦しい水底の気圧は完全に破壊されていた。
涼音はチタンフレームの眼鏡を押し上げ、夏帆の右腕を凝視した。
髪の毛が巻き付いた上腕二頭筋に、黒く生臭いヘドロのような粘液が付着している。
涼音はポケットから新しい除菌シートを引き抜いた。
無言のまま半歩踏み出し、夏帆の右腕を左手でガッチリと掴む。
そのまま、右手で握った除菌シートを、粘液の付着した皮膚へ強く押し当て、ゴシゴシと力任せに擦り始めた。
「おわっ、どしたの涼ねえね?」
「……未知の有機物による、経皮吸収のリスク排除です。病原菌の侵入経路は、物理的に断たねばなりませんわ」
涼音の口調は冷徹で、極めて論理的だった。
だが、その指先の動きは常軌を逸していた。粘液はとうに拭き取れているというのに、涼音は除菌シートを擦る手を止めない。
他者の、得体の知れないモノが、この熱源に触れた。巻き付いた。
その事実そのものを削り落とすかのように、夏帆の肌が赤く擦り剥ける寸前まで、異常な力で拭き上げ続ける。
涼音は汚れたシートを泥の中へ捨てると、すかさず二枚目の除菌シートを引き出し、全く同じ箇所を再びゴシゴシと拭き始めた。
「二重の滅菌処理が必要ですわ。念には念を」
「あはは! 涼ねえね、マジで綺麗好きじゃん! ありがとね!」
夏帆は自分の腕が赤くなるほど擦られているにもかかわらず、弾けるような笑顔で涼音に礼を言った。
涼音は夏帆の腕を掴んだまま、自分の胸の奥で、ドクン、とひどく重たくて暗い脈が打つのを感じていた。除菌という名目を借りて、夏帆の熱い皮膚に自身の指を食い込ませている。
井戸の縁で、女の顔がピタリと動かなくなった。
ゴボ……という間の抜けた水音が鳴り、洋館の壁面を流れていた血文字が、呆れたようにピタリと停止した。




