第4話:「涼音、レトロでエモい隠れ家カフェ見つけたから行くよ!」
第4話:「涼音、レトロでエモい隠れ家カフェ見つけたから行くよ!」
首塚公園の出口を抜けた瞬間、スマートフォンの液晶画面に無数の通知が滝のように流れ込んだ。
フリーズしていたGPSが正常な座標を拾い直し、時刻は午前三時四十二分を表示している。山梨県の郊外。外界との通信という名の、正常な文明社会との接続が完全に回復した証左だった。
ガチャリ、と重い金属音が鳴る。
望月夏帆が、焦げ付いた携帯用コンロを大型SUVのトランクに無造作に放り込んだ。
古戦場の怨霊たちはとうに消え去り、むせ返るような血と泥の臭いは、夏帆が首筋に吹きかけたハイエンドなシトラス系の香水の匂いによって上書きされている。
「あー食った食った! 深夜のタンパク質補給、マジで細胞に染み渡るわ」
夏帆は蛍光イエローのジャージの袖をまくり上げながら、運転席のドアハンドルに手をかけた。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
正常な判断力を有する人間であれば、ここで礼を言い、タクシーを呼んで帰路につくべきだ。ランチェスターの法則を持ち出すまでもない。すでに霊的脅威(第一目標)は排除された。これ以上、この異常な熱量を持つ女と行動を共にする合理的な理由は、どこにも存在しない。
「……甲府駅までの道程において、貴女の車両を一時的な移動手段として活用させていただきますわ」
「おっけー! 助手席乗りなよ!」
涼音の口は、脳の指令を完全に裏切る理屈をすらすらと並べ立てていた。
冷たい風の吹く深夜の路上に取り残されるリスクの回避。それ以上の意味はない。涼音は無表情のまま助手席のドアを開け、身体を滑り込ませた。
ドゥン、ドゥン、ドゥンッ!!
エンジンをかけた瞬間、車内のスピーカーから内臓を揺らすような重低音が爆発した。
夏帆が推しているK-POPアイドルグループ『HELL/AVEN』の最新EDMトラックだ。地獄の底から這い上がるようなディストーションギターの唸りが、ルームミラーを小刻みに震わせている。
「ねえ涼ねえね、この近くにめっちゃレトロでエモい隠れ家カフェあるらしいんだよね。行かない?」
「……この時間帯に営業しているカフェなど、存在しませんわ」
「オーナーの気まぐれゲリラ営業らしいよ! ネットの掲示板で見たもん。ほら、ここから車で二十分くらい!」
夏帆がスマートフォンの画面を突き出してくる。
そこには、ツタに覆われた巨大な洋館の画像と、『絶対に出口が見つからない』『中庭の井戸から女の声がする』という、典型的な心霊スポットのレビューが並んでいた。
リスク係数、最大。完全な自殺行為だ。
「……不法侵入のリスクと、得られるリターンの釣り合いが全く取れていません。撤退一択です」
「大丈夫だって! 営業してなかったら、外観のアンティークな雰囲気だけで写真撮って帰ろ!」
夏帆は涼音の反論を完全に無視し、アクセルペダルを力強く踏み込んだ。
重厚なSUVが深夜の国道を滑り出す。涼音は小さく息を吐き、ポケットからアルコール純度高めの除菌シートを引き抜いた。
そして、ダッシュボード、ドアノブ、シートベルトの金具と、自身が触れる可能性のあるあらゆる箇所を、異常な力でゴシゴシと拭き上げ始めた。霊的汚染の除去と、衛生環境の確保。これも完璧な合理性に基づく行動だ。
だが、除菌シートを持った涼音の右手が、センターコンソールのドリンクホルダーの前でピタリと止まる。
そこには、夏帆が先ほどまで口をつけていた、毒々しい色のBCAAが入ったプラスチックボトルが置かれていた。
涼音は、ドリンクホルダーの周囲のプラスチック部品を執拗に拭き清めながら、ボトルの飲み口にだけは、決してシートを触れさせなかった。
——他者の唾液が付着したDNAサンプルは、万が一、この女が身元不明の事態に陥った際の個体識別に有用だからだ。
脳内で冷徹な言い訳を構築しながら、涼音の視線は、ボトルの飲み口に残るわずかな水滴の反射から、一秒たりとも剥がれなかった。鼓膜を打つEDMのビートより早く、自身の心拍数が跳ね上がっている。
車は国道を外れ、街灯の存在しない未舗装の山道へと突入していた。
ヘッドライトの光が、両脇から迫り来る黒い木々を切り裂く。
数分前まで正常に動いていたカーナビの現在地が、突如として砂嵐のようなノイズにまみれ、グルグルと円を描き始めた。
「お、電波悪くなってきた! 隠れ家感増してきてめっちゃテンション上がるね!」
夏帆がハンドルの上で指を鳴らし、リズムに乗る。
急激に車内の温度が下がり始めた。エアコンの設定温度は変わっていないのに、吐く息が白く濁る。フロントガラスの表面に、内側からべっとりと水滴が結露していく。
生臭い水と、古いカビの匂い。
涼音はチタンフレームの眼鏡を押し上げた。視界の先、木々の切れ間に、異様に黒く沈んだ建造物の輪郭が浮かび上がった。
キィィィン、とブレーキディスクが鳴り、SUVが停車する。
そこは、周囲の木々に完全に飲み込まれかけた、巨大な洋館の廃墟だった。
外壁の塗装は死人の皮膚のように剥がれ落ち、壁面には無数のツタが、まるで血管のように蠢きながら張り付いている。
だが、それ以上に涼音の視線を釘付けにしたのは、洋館の重厚な木製ドアに、赤黒い液体でびっしりと書き殴られた文字だった。
『アケルナ』
『ハイレバコロス』
『イキがデキナイ』
生乾きの血の臭いが、開いた車の窓から暴力的に流れ込んでくる。
気温は体感で五度を下回っていた。これ以上近づけば、細胞が内側から凍りつく。
「うおー、外観めっちゃアンティーク!」
バタン、と景気の良い音を立てて、夏帆が車を降りた。
彼女は血文字で埋め尽くされたドアの真ん前に陣取ると、ポケットから『HELL/AVEN』のメンバーのアクリルスタンドを取り出した。
「このスプレーアート、バンクシー的なやつっしょ! ストリート感あってマジ映えるわー!」
カシャッ、カシャッ!
夏帆のスマートフォンのフラッシュが、赤黒い血文字と、アイドルが微笑むプラスチックの板を無慈悲に照らし出す。フラッシュの強い光に当てられた血文字が、ジュッ、と音を立ててわずかに蒸発した。
涼音は、助手席に座ったまま、その光景をじっと見つめていた。
ドアノブに手をかける。外気は異常なほど冷たく、死の気配に満ちている。車内に留まるのが、生存確率の最も高い選択だ。
だが、外でアクリルスタンドを掲げる夏帆の背中が、圧倒的な熱源として涼音の視覚を焼く。
涼音はゆっくりとドアを開け、外へ出た。
泥のぬかるみを避け、夏帆の右斜め後ろ、十五センチの距離にピタリと立つ。ここが特等席だ。
「涼ねえねも一緒に撮る?」
「……お断りしますわ。それより、建物の裏手から、水音がします」
涼音の指摘に、夏帆が「おっ」と声を上げた。
洋館の横を抜けた先、雑草が生い茂る中庭。
その中央に、古びた石積みの井戸があった。
べちゃり。
べちゃり。
井戸の縁から、濡れた黒い髪の毛の束が、ゆっくりと、明確な意思を持って外側へと這い出し始めている。
周囲の空気が一気に重くなり、水底に沈められたような息苦しさが涼音の喉を塞いだ。




