第3話:「プロテインで受け止めるッ! お兄さん、ナイスマッスル!」
第3話:「プロテインで受け止めるッ! お兄さん、ナイスマッスル!」
ぞわり、と背筋の産毛が逆立った。
夏帆と手を取り合った瞬間、周囲の温度がさらに数度、急激に低下した。それは生きている人間の体温を根こそぎ奪い去るような、死者の底冷えだった。
血塗られた古戦場の泥の海が、まるで呼吸をするように大きくうねる。
ギャアアアアアアッ……!!
群れをなして這い回っていた数千の怨霊たちが、見えない力に怯えるように一斉に地中へと沈み込み、道を空けた。
その空間の中央に、ひときわ巨大な影が立ち上がる。
錆びついた甲冑をまとい、頭部にはひび割れた兜。眼窩から零れ落ちるのは血ではなく、ドス黒い泥の涙だ。黒光りする大太刀を地面に引きずりながら、落武者の頭目——源十郎が顕現した。
空間全体が、濃密な怨嗟の瘴気で軋む。
チタンフレームの眼鏡のレンズが、急激な冷気で真っ白に曇った。涼音は中指でブリッジを押し上げようとしたが、指先が凍りついたように動かない。
ダメだ。
頭のなかで、生存確率を弾き出す演算装置が完全にショートした。先ほどの数百の群れとは質が違う。この個体から発せられる物理的圧だけで、人間の肺は機能を停止する。
ゲーム理論の枠外。完全な理不尽の暴力。
カチ、カチ、カチカチカチッ。
鼓膜の奥で、無数の歯が猛烈な勢いで噛み合う音が響く。
源十郎の大太刀がゆっくりと持ち上げられた。刀身から放たれる殺気が、雨粒のように涼音の皮膚を突き刺す。逃げようにも、夏帆と繋いだままの手首が固定され、一歩も足が動かない。
「——我が首級、返すべし……!」
野太い地獄の底からの声が、古戦場の空気を揺らした。
圧倒的な死の影が、夏帆と涼音の頭上から容赦なく振り下ろされる。
ざしゅっ!!
空間を両断するほどの神速の斬撃。
涼音は反射的に目を閉じ、夏帆の手を握る指にありったけの力を込めた。自分の骨がミシミシと鳴る音を聞きながら、冷たい闇の訪れを待った。
だが、衝撃は来なかった。
代わりに耳を打ったのは、甲高い金属音と、プラスチックの硬質な反発音だった。
カシャカシャカシャッ!!
「おっ、いい負荷じゃん!」
目を開けると、そこに広がっていたのは、地獄絵図とはかけ離れた光景だった。
夏帆は源十郎の大太刀の刃を、片手で持ち上げたプロテインシェイカーの樹脂製の蓋の面で真っ向から受け止めていた。
数千人の怨霊の執念を纏い、山をも切り裂きそうな一撃が、シェイカーのわずか数ミリの厚みのプラスチックの上で完全に停止している。シェイカーの内部では、金属ボールと毒々しい色のBCAAが激しくぶつかり合い、カチャカチャと日常的な生活音をまき散らしていた。
「シェイカーで受け止めるッ! お兄さん、ナイスマッスル!!」
「……は?」
源十郎の動きが、完璧にフリーズした。
数百年もの間、人間どもから恐れられ、忌み嫌われ、その悲鳴を糧に力を増してきた古戦場の頭目である。まさか、目の前の生娘から「お兄さん、ナイスマッスル」などという野太い称賛の言葉を面と向かって叩きつけられるとは、微塵も想定していなかったらしい。
どす黒い瘴気を纏った大太刀が、わずかにわなわなと震える。
「いや、マジでその肩甲骨の厚みと背中の広がり、超カッコいいよ! ちゃんとバルクアップしてる証拠じゃん! 毎日どんだけワークアウトしてるわけ?」
「……我は、千年の怨念を宿す……た、多勢の……」
「謙遜すんなって! その古びた甲冑、いい感じにハードなウエイトベストの代わりになってるでしょ。体幹強い証拠だって!」
夏帆はシェイカーを降ろし、もう片方の手で、ポケットから取り出したプロテインバーの包みを手際よく剥きながら、眩しすぎるほどの笑顔を叩きつけた。
怨霊の過去の悲劇や、血塗られた歴史の文脈など一切考慮せず、ただ「同じジムで汗を流すトレーニング仲間」としての純粋なリスペクトだけが、真っ直ぐに源十郎の胸元へ突き刺さる。
源十郎の虚ろな眼窩の奥で、泥の涙がピタリと止まった。
戦場に散った武士としての誇り。誰かにその肉体と鍛錬の軌跡を認めてもらいたかったという、千年間心の奥底に押し殺し続けていた微かな記憶が、夏帆の無遠慮な熱量によって強制的に掘り起こされていく。
「……武人として、見られておったか……」
「当たり前っしょ! さ、これやるよ。アタシからのプロテインバー、特製チョコ味!」
夏帆が放り投げたプロテインバーを、源十郎は霊体であるにもかかわらず、なぜか両手でしっかりと受け止めた。
その瞬間、巨体を包んでいたドス黒い瘴気が、パッと真っ白な湯気へと変わった。
「かたじけない……良い、汗をかいたわ……」
野太い声が、穏やかな感嘆の響きに溶けていく。
数千の兵の怨念が渦巻いていた古戦場跡の上空から、澱んだ雲が割れ、一筋の清らかな風が吹き抜けた。落武者の姿は、朝露のように霧の中へ綺麗に溶けて消えていった。
静寂。
ただ、携帯用コンロの上で赤身肉がジュゥゥゥと焼ける音だけが、広場に残された。
涼音は、膝から崩れ落ちそうになる身体を必死に踏み留めた。
ランチェスター戦略も、ゲーム理論も、確率計算も、この圧倒的な不条理の前では一切意味をなさなかった。ただ一人の限界陽キャの筋肉と、脳天気な勘違いが、数千の怪異を更地にしてしまったのだ。
この女は、世界を根本からバグらせる怪物だ。
脳内の危機管理システムが警報を鳴らし続けているのに、涼音の右手は、まだ夏帆の左手としっかりと指を絡め合わせたまま、一ミリも離れようとしなかった。
「ふー、いい運動だった!」
夏帆が振り返り、すぐ隣に張り付くように立っている涼音の顔を覗き込んだ。
「ねえ、お姉さん。さっきからずっと手ガッチリ繋いだままだけど、そんなに怖かった? もう大丈夫だからね、お肉ももうすぐ焼けるから!」
「っ……!」
涼音は、自分の指が夏帆の手のひらに深く食い込んでいることにようやく気づき、慌ててパッと手を離した。
だが、繋いでいた皮膚の温度が、夜の冷気の中で妙に熱く主張している。
涼音はポケットからアルコール純度高めの除菌シートを乱暴に引きずり出し、自分の手のひらを、痛いほど強く、何度も何度も擦り上げた。
「わたくしは、ただ……その、霊的な残留物による汚染と、接触感染のリスクを排除していただけですわ!」
「あ、それ大事! 衛生管理って基本だしね!」
夏帆は全く疑う様子もなく、満面の笑みでコンロの肉をひっくり返した。
その横顔を見つめながら、涼音は心臓の鼓動が先ほどよりも速くなっていることに気づいた。
それは恐怖によるものではない。
この女の隣から離れたくないという計算外の熱が、自分の内側を静かに浸食していることに対する、決定的な恐怖だった。
その時、夏帆が足元に転がっていた黒い物体に気づき、ひょいと拾い上げた。
「ん? これ何だろ」
それは、夏帆がジャージのポケットから落としたらしい、K-POPアイドルグループ『HELL/AVEN』のメンバーの小さなアクリルスタンドだった。血塗られた古戦場の泥の中で、推しのアイドルのポップな顔面が不気味に微笑んでいる。
「あ、推しのアクスタ落としてたわ。マジ奇跡、無傷じゃん」
「……そんなモノを、こんなところまで持ち歩いているのですか」
「当然っしょ! 推しと一緒なら、どこだって最高のライブ会場だもん!」
涼音はチタンフレームの眼鏡を中指で押し上げ、小さく息を吐いた。
論理が通じない。しかし、その歪んだ空間のど真ん中で、夏帆の背中から漂うシトラスの香りが、なぜかひどく心地よく鼻腔をくすぐる。
「さてとお肉も焼けたし、食べるか! お姉さん、名前なんていうの?」
「……倉田、涼音ですわ」
「そっか、涼ねえね! アタシは望月夏帆! これからよろしくね、涼ねえね!」
夏帆の無遠慮な笑顔と、ブラッドオレンジのペンライトの光。
首塚公園の闇は完全に晴れ、そこにはただ、泥まみれの陽キャとインテリ女子大生が二人、並んで肉を頬張る異様な日常だけが残されていた。




