第2話:「ちょ、足元めっちゃモッシュじゃん! 夏フェス開幕!?」
第2話:「ちょ、足元めっちゃモッシュじゃん! 夏フェス開幕!?」
ジュゥゥゥゥゥッ!
携帯用コンロの火花に肉の脂が落ち、芳ばしい煙が夜霧を強引に押し返す。
涼音はプラスチックの皿を受け取り、真っ白な肉塊をフォークで突き刺した。唇に運ぶと、塩気と肉汁の熱さが舌の上で暴れる。生きている、という強烈な感覚が味蕾から直接脳髄へ突き抜けた。
「うまっ……」
「でしょ? 秘伝のスパイス、これ持っててマジで正解だったわ」
夏帆はプロテインシェイカーの容器を傍らに置き、十字架型の巨大なペンライトをカチリと鳴らした。ブラッドオレンジの極彩色の光が、足元のぬかるみを鮮烈に切り取る。
ぐにゃり。
地面が波打った。
肉汁を飲み込んだばかりの胃の腑が、急速に冷え込む。
足首に絡みついていた泥の指が、今度はズボンの裾を掴み、引きずり込もうと何倍もの力で締め上げてきた。指先には泥の詰まった黒い爪が生え、腐った布切れが巻き付いている。
木々の間から、数え切れないほどの黒い影が這い出している。
首のない胴体、ちぎれた腕、皮膚が剥がれ落ちた顔。
古戦場の土中深くで眠っていた無数の亡者たちが、夏帆の放つ過剰な熱量に耐えかねて、一斉に排除しようと泥の中から這い上がってきたのだ。
ブチブチと草の根がちぎれる音が、四方八方から鼓膜を叩く。
地を這う無数の手が、涼音の黒いパンプスのつま先を掴む。冷たい泥がストッキングを透過して肌に直接触れる。
肺から空気が逃げた。声が出ない。
涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。レンズの曇りを拭う余裕すらない。確率計算を司る脳内リソースが、次々とエラーを吐き出す。
包囲網の厚さは推定数百。対するこちらは二人。ランチェスターの第二法則に当てはめるまでもない。圧倒的物量差による、完全なる圧殺。
逃げ場はない。スマートフォンのライトを向ける手すら、凍りついたように動かなかった。
ガシャアアアアアンッ!!
轟音とともに、夏帆の足元から泥が弾け飛んだ。
スプリング機構を備えた22.5センチのナイキ・ショックスが、泥の地面を爆発的な踏み込みで蹴り抜く。
「うおおおっ、まじかよ! ちょ、足元めっちゃモッシュじゃん! 夏フェス開幕!?」
夏帆の目がギラギラと歓喜に染まる。
怨霊たちが放った無数の手が夏帆の足首を捉えようとした瞬間、彼女はその腐肉の群れを「ライブフロアの熱狂的な観客」と完全に誤認した。
「ダイブする奴いねえよな!? アタシのステップ、ちゃんと付いてこいよ!」
ギチ、ギチチッ!
ショックスのバネが凄まじい反発力で圧縮され、解放される。
夏帆の身体がふわりと宙に浮き、亡者の群れのど真ん中へ、華麗なステップで飛び込んだ。
泥を跳ね飛ばすキレのある重心移動。蛍光イエローのジャージが激しく擦れる音が響く。怨霊たちが掴もうとした腕はすべて夏帆の残像を空振りし、逆に彼女のスニーカーのソールで顔面が踏み抜かれていく。
ベキリ、ベキリ、と硬いものが折れる音が響く。
だが、夏帆の顔にあるのは、巨大な野外フェスの最前線ではしゃぐ無敵の笑みだけだ。
「ひゃっほー! セトリ最高すぎんだろ!」
夏帆が、推しのK-POPアイドルグループHELL/AVENの公式ペンライト『ヘラヴィック』を縦横無尽に振り回す。
鎖が巻き付いた十字架型の無駄に重く設計された鈍器が、這い寄る怨霊の頭部を物理的な質量で吹き飛ばしていく。
ブラッドオレンジの極彩色の光が、飛び散る泥と怨念の瘴気をポップな色合いに染め上げた。
超人的なフィジカルによる『モッシュ(暴力的な群舞)』の制圧。
首塚公園の湿気と腐臭が、夏帆が振り回すペンライトの風圧と、彼女の身体から立ち昇る汗の匂いによって、次々と上書きされていく。
涼音は、夏帆の背中からわずか十五センチ離れた場所に立ち尽くしていた。
飛ばされてきた泥の飛沫が頬を打つ。
逃げなければならない。この異常な空間から離脱し、正常な文明社会へ戻るべきだ。脳内の理性が警告シグナルを鳴らし続けている。
だが、涼音の足は一歩も動かなかった。
足の先で、夏帆の蛍光イエローのジャケットの裾が風に揺れている。
その裾を、涼音の指先が無意識のうちにぐっと握りしめていた。爪が布地に食い込み、関節が白く変色するほどの力で。
背中から漂うハイエンドなシトラスの香りと、血と汗が混じった熱。
この光の壁の外に出れば、あの無数の手に引きずり込まれる。だから、ここにいるしかない。この女の背中という、世界で一番狂った安全圏に。
これは生存のための合理的判断だ。ジャケットの裾を握りしめているのは、突発的な移動に備えて物理的なアンカーを打っているに過ぎない。
「お姉さん、危ないから後ろ下がっててねー!」
亡者の群れのど真ん中で、夏帆が振り返り、弾けるような笑顔を向けた。
その直後、夏帆の足元からひときわ巨大な泥の腕が突き出した。夏帆の足首ではなく、涼音のパンプスを狙って伸びてくる。
「っと、お姉さんも前行こうぜ!」
夏帆が左手を伸ばし、涼音の手首を力強く掴んだ。
強引に引き寄せられる。スニーカーが鳴る。夏帆の体温が、手首の皮膚越しに直接叩き込まれた。
涼音の眼鏡が大きくズレる。視界の端がぼやけ、暗闇の中で夏帆の蛍光イエローのジャケットと、ブラッドオレンジの光だけが異常に鮮明に映る。
夏帆は涼音の手首を掴んだまま、右手でヘラヴィックを振り下ろし、迫る巨大な泥の腕を粉砕した。
光が瞬き、飛び散った泥が涼音の白い頬を汚す。
「……っ」
涼音の喉が鳴った。
夏帆に掴まれた手首が、異常なほど熱い。まるで血管を通じて、彼女の体温が自分の身体に流れ込んでくるような錯覚に陥る。脈拍が跳ね上がり、呼吸が乱れる。
これは、交感神経の反射だ。そしてランチェスター戦略における陣形維持のための物理的接続だ。決して、この熱を自分だけのものにしたいなどという計算外の欲求ではない。
涼音はズレた眼鏡を直すこともせず、手首を掴む夏帆の手を振り払う代わりに、その手のひらへ自らの指を滑り込ませた。
夏帆の熱い指の間に、自分の冷たい指を深く絡ませる。
「おっ、はぐれないように手繋いどく? いいね、テンション上がるわ!」
「……ええ。霊的結界を共有するための、合理的な接触ですわ」
涼音は早鐘のように打つ心臓の音を無視し、冷徹な声で言い放った。
絡め合った指先だけが、じっとりと汗をかいていた。
血塗られた古戦場の泥の中で、ペンライトの光が激しく明滅し、次のカオスを告げていた。




