第1話:「アタシのBBQ、参加する? お肉まだあるっしょ!」
第1話:「アタシのBBQ、参加する? お肉まだあるっしょ!」
スマートフォンの液晶画面が放つ無機質な光が、周囲の濃霧に乱反射して白く濁っている。
画面上の現在地を示す青いドットは、三十分前から同じ座標に縫い付けられたまま、ピクリとも動かない。バッテリー残量のインジケーターは、先ほど確認した時の四十二パーセントから、一気に三パーセントへと急降下していた。
倉田涼音は、チタンフレームの眼鏡を中指で押し上げた。
指先がひどく冷たい。歩幅と歩行時間、そして自身の平均歩行速度である時速四キロメートルから算出した移動距離は、既に二キロを超えている。現在地である首塚公園の総敷地面積と照らし合わせれば、とうの昔に公園を抜け、街灯の並ぶ大通りへ出ているはずだった。
しかし、視界を覆うのは、黒く淀んだ木々のシルエットと、内臓を腐らせたような生臭い霧だけだ。
「……空間の歪曲、あるいは認知のバグ。ゲーム理論における不完全情報ゲーム、手番の完全な喪失……」
涼音は、乾燥した唇を動かして小さく呟いた。
意味のない数式や経営理論を口に出すのは、彼女なりの防衛機制だ。生まれつき備わった余計な機能——霊眼。見えなくてもいいモノが見えてしまうこの眼球を、涼音は徹底的な「論理」と「理屈」で塞ぎ込んできた。
幽霊など存在しない。それは脳が引き起こす錯覚であり、単なる環境ノイズである。そう自己定義し続けなければ、とっくに精神が崩壊していた。
かつて数千の兵が斬首されたという古戦場跡。この土地の磁場は、明らかに異常だった。
カチ、カチ、カチカチカチッ。
鼓膜の奥で、無数の歯が噛み合うような音が響き始める。
涼音は泥に沈む黒のパンプスを見つめた。足首に絡みつく冷たい泥が、明確な意思を持って蠕動している。それは、はっきりと人間の指の形と、土に埋められた死体特有の温度を持ち始めていた。
木々の隙間から、首のない黒い影がいくつも這い出し、涼音の前後左右を完全に包囲していく。
——チェックメイト。
生存確率は、限りなくゼロに近い。
逃げ道を探そうと首を振った拍子に、眼鏡が鼻筋を滑り落ちる。直し上げる気力すら湧かない。呼吸が浅く、速くなる。冷たい泥の指が、ふくらはぎから膝裏へと這い上がってきた。
その時だった。
キュッ、キュッ、キュッ。
おぞましい怨嗟の呻き声と、歯の鳴る音を真っ二つに切り裂いて、硬質なゴムが地面を擦る音が響いた。
一定のリズム。体育館のフロアでしか聞かないような、強い摩擦音だ。
それは霧の奥から、明確な足音としてこちらへ近づいてくる。同時に、毒々しいブラッドオレンジの極彩色の光が、ストロボのようにパキ、パキと空間を切り裂いた。
亡者たちの動きがピタリと止まる。
這い上がろうとしていた泥の指が、強い光を浴びた虫のように硬直した。涼音は息を呑み、光の発生源へとよろめきながら歩を進めた。
開けた広場の中央。
血の匂いと腐臭が立ち込める空間のど真ん中に、煌々と輝く大型のLEDランタンが置かれている。
携帯用コンロの上で、分厚い肉塊が焼かれていた。タマネギもピーマンも、野菜が一切排除された、純度百パーセントの赤身肉。
ジュゥゥゥゥゥゥッッ!!
暴力的なまでに食欲をそそる破裂音が鳴る。コンロの火花に肉の脂が落ち、芳ばしい煙が夜霧を強引に押し返していた。
その傍らで、蛍光イエローのジャージを着た女が、鎖の巻き付いた十字架型の巨大なペンライトを激しく振り回しながらスクワットを繰り返している。
踏み込むたび、小さな22.5センチのナイキ・ショックスのヒールスプリングが、ギチ、と重い反発音を鳴らす。
女は首に巻いたスポーツタオルで汗を拭いながら、周囲の冷気を肺いっぱいに吸い込み、限界まで追い込んだ大腿四頭筋から莫大な熱を放っていた。
女の周囲半径一メートルだけが、異常な熱気で陽炎のように歪んでいる。這い寄ろうとした落武者の怨霊たちが、目に見えない強固な壁に弾かれたように蠢き、ジリジリと後退していく。
涼音は呆然と立ち尽くした。
ランチェスターの第一法則。局地戦において、圧倒的な一点突破の物理量は、多勢の包囲網を無効化する。だが、まさかそれを『スクワットによる熱量の放射』で体現する人間が存在するとは、いかなる専門書にも書かれていなかった。
「あ、お疲れ様ッス!」
スクワットを終えた女が、涼音を見て真っ白な歯を見せた。
カシャカシャカシャッ!
女が手元のプロテインシェイカーを激しく振る。金属ボールが内壁を叩く無機質なプラスチック音が、背後で「無念……」と呻き声を上げた落武者の呪詛を完全に掻き消した。容器の中では、毒々しい色のBCAAが渦を巻いている。
「こんな夜中に散歩? サイッコーだね。暗闇って感覚研ぎ澄まされるし」
女——望月夏帆は、ブラッドオレンジの極彩色ネオンで、血塗られた古戦場の土と、網の上の肉を無造作に照らし出した。
「……貴女、ここで何をしているんですか」
「深夜のソロBBQ! この足場の悪さと冷気ってワイルドなソロBBQに最適じゃんって思ってさ」
意味がわからない。ここは古戦場跡だ。
涼音が反論を口にするより早く、夏帆がトングで網の上の肉をひっくり返した。
その瞬間、夏帆の真横の空間がぐにゃりと歪み、錆びた甲冑を着た巨大な怨霊が、黒光りする刀を振り下ろそうと顕現した。
涼音の喉が強張る。声が出ない。
キュッ。
スニーカーのソールが鳴った。
夏帆は、肉の焼け具合を確認する絶妙なペースで、半歩横へスライドした。虚空を裂いた刀は夏帆の残像だけを切り裂き、勢い余った怨霊は体勢を崩して泥の中に突っ伏した。
「やっぱこのスニーカー、踏み込みのレスポンス神だわ」
夏帆は自分の足元で呻く怨霊には一瞥もくれず、シェイカーのBCAAを一気に飲み干した。
涼音は無言で歩み寄り、夏帆の右斜め後ろ、十五センチの距離にピタリと滑り込んだ。
そこが現在、最も生存確率の高い『絶対安全圏(特等席)』だからだ。弱者の局地戦における基本中の基本。決して、夏帆の身体から放たれる圧倒的な熱源と、ハイエンドなシトラス系の香水が混じった匂いに引き寄せられたわけではない。あくまで戦力集中の最適解を導き出した結果に過ぎない。
「あれ、お姉さんも食べる?」
夏帆が笑う。至近距離で浴びるその声は、鼓膜を突き破りそうなほど大きい。涼音はポケットからアルコール純度高めの除菌シートを取り出し、自分の指先を異常な力でゴシゴシと拭いた。手のひらに残る泥の冷たさを、痛みで上書きするように。
「……ええ。折角なので、頂きますわ」
「おっけ! アタシのBBQ、参加する? お肉まだあるっしょ!」
ブラッドオレンジの極彩色が明滅する中、ジュゥゥゥという赤身肉の焼ける音だけが、絶望的な静寂を支配し続けていた。




