第33話:「絶対に、今度は冷たくさせねぇからな……っ!」
第33話:「絶対に、今度は冷たくさせねぇからな……っ!」
ボフッ。
望月夏帆が全力で投げつけたチョコレート味の分厚いプロテインバーが、樹海の腐葉土の上に深々と突き刺さった。
『……?』
倉田涼音と夏帆を取り囲み、飢餓の呪詛を吐き出し続けていた甲州婆・トメたちの動きが、一斉に停止した。
宙を飛び交っていた白髪の首たちが、泥に突き刺さった銀色のパッケージへと群がる。枯れ枝のような手が泥の中から無数に伸び、包装紙を乱暴に引き裂いた。
『……コ、レハ……』
歯の抜け落ちた老婆の口が、プロテインバーの硬い塊に食らいつく。
カチ、ガチィッ、と、咀嚼音というにはあまりにも硬質な音が樹海に響き渡った。
「ばあちゃんたち、それチューイ(粘り気のある)タイプだから! 顎の筋肉しっかり使って噛まないと飲み込めないよ!」
夏帆が、怨霊の食事風景に対して容赦のないフォーム指導を飛ばす。
『カタイ……シカシ……アマイ……』
老婆の怨念の顔に、シワだらけの笑みが浮かんだ。
かつてこの山に捨てられ、飢えに苦しんだ最期の記憶。それを、たんぱく質二十グラム、糖質、ビタミンが極限まで濃縮された現代の高度な栄養食が、物理的な咀嚼回数と強烈な人工甘味料の甘みで強引に上書きしていく。
山に捨てられる前、幼い孫がこっそり握らせてくれた、固くて甘い干し芋の記憶。
『……マゴ……ヤサシイ、子……』
トメの霊体が、プロテインバーを握りしめたまま、足元からボロボロと光の粒子に変わっていく。
飢餓の呪詛が、一本の完全栄養食による圧倒的なカロリー摂取と、夏帆の無計算な優しさ(差し入れ)によって完全に満たされたのだ。
白髪の首たちが次々と桜色の光となって夜空へ立ち昇り、樹海を覆っていた濃霧が、嘘のようにサーッと晴れていく。狂っていた磁場が正常化し、ひび割れた溶岩の道の先に、鳥居のシルエットがはっきりと浮かび上がった。
「っしゃあ! 道が開けた! 涼ねえね、このまま一気に行くぞ——」
夏帆が振り返り、涼音の腕を引こうとした瞬間だった。
ガクンッ。
涼音の膝から、完全に力が抜け落ちた。
「っ……」
呪いの磁場が解け、極限の緊張状態から唐突に解放されたことによる、迷走神経反射。
涼音は自分の身体に何が起きたのかを完璧に演算していた。急激な血圧の低下。脳への血流不足。過労と睡眠不足が引き起こす、典型的な起立性低血圧の症状だ。
胸の奥で、心臓が不規則なリズムで痙攣するように激しく打っている。額から噴き出した冷や汗が、チタンフレームの眼鏡のレンズを完全に曇らせた。
視界が暗転する。重力が、涼音の身体を容赦なく硬い玄武岩の岩肌へと引きずり下ろしていく。
——転倒による、頭部への物理的ダメージ。
涼音は無意識のうちに両手で頭を庇おうとした。だが、指先は氷のように冷え切り、一ミリも動かすことができない。
ドンッ!!!
ショックスのスプリングが爆発する音が、涼音の耳元で鳴った。
岩肌に激突する寸前。
夏帆の太く、熱い右腕が、涼音の細い腰に巻き付き、その身体を宙で強引に抱き留めた。
「ぐっ……!」
ギチィッ、と涼音の肋骨が軋むほどの、異常なまでの拘束力。
夏帆は涼音を抱き抱えたまま、溶岩の道の上にドカッと膝をついた。
「涼ねえね!!」
夏帆の叫び声が、涼音の鼓膜を直接叩く。
涼音は、夏帆の胸板に顔を押し付けられたまま、荒い呼吸を繰り返した。
……倒れずに済んだ。少し休息をとれば、血流はすぐに正常化する。
涼音は震える声帯を制御し、自分は大丈夫だと理屈を紡ごうと口を開きかけた。
ジリリリリリッ!!
夏帆が、自らの着ていた蛍光イエローのジャージのジッパーを、乱暴な手つきで一気に引き下げた。
夏帆はジャージを脱ぎ捨て、黒のスポーツ用タンクトップ一枚の姿になる。氷点下に近い樹海の冷気の中で、夏帆のむき出しの肩や背中から、尋常ではない量の白い湯気(代謝熱)が立ち昇っている。
夏帆は、その脱いだばかりのジャージを、涼音の背中からすっぽりと被せ、首元まで何重にもぐるぐると巻き付けた。
「……え……?」
夏帆の汗の匂いと、強烈なシトラスの香水、そして火傷しそうなほどの体温が染み込んだナイロン生地が、涼音の全身を隙間なく包み込む。
夏帆は、ジャージでぐるぐる巻きにした涼音の身体を、自らの胸の中へと、さらに骨が鳴るほどの力で抱き寄せた。
「あったかいだろ、なあ」
涼音の頭上から降ってきた夏帆の声は、いつもの底抜けに明るい陽キャのトーンではなかった。
低く、ひび割れ、ひどく震えている。
涼音は、夏帆の胸に押し付けられた顔をわずかに上げ、眼鏡越しに夏帆の瞳を見た。
夏帆の瞳孔が開いている。血走った瞳の奥で、過去の強烈なトラウマのフラッシュバックに耐えるような、異様なまでの切迫感が渦巻いていた。
「……望月、さん。現在の私の体調不良は、単なる血圧の低下によるものですわ。このような過剰な保温処置は——」
「絶対に、今度は冷たくさせねぇからな……っ!」
夏帆が、涼音の言葉を物理的な腕力で圧殺するように、さらに強く抱きしめた。
夏帆のタンクトップ越しの心拍が、涼音の冷え切った頬に直接ドクン、ドクンと打ち付けられる。
その鼓動の速度は、尋常ではなかった。極限の恐怖と焦燥。絶対に手放さないという、強迫観念に近い執着。
——なぜ、彼女はここまで私に執着する。
——なぜこれほどの熱を押し付けてくる。
涼音の東大首席の脳髄が、夏帆の異常な行動の理由を演算しようと回転する。
だが、答えは出ない。
出ないが、そんなものはどうでもよかった。
涼音の冷え切った皮膚から、夏帆の莫大な熱量が、血管を伝って全身の隅々まで流れ込んでくる。
心臓の不規則な動悸が、夏帆の熱を吸収することで、少しずつ安定したリズムを取り戻していく錯覚に陥る。
「……前衛による、戦線離脱者の強行回収。および、強制的な熱伝導によるバイタルサインの維持。……その作戦行動を、承認します」
涼音は、かすれる声で完璧な自己欺瞞の言い訳を構築した。
そして、自分を締め付ける夏帆の背中へと、自らの冷え切った両手をそっと回した。
夏帆の汗ばんだ広背筋の隆起に、自身の指先を深く食い込ませる。
どんな理由であれ、この圧倒的な熱量が、今この瞬間、自分一人に向けられている。
涼音は眼鏡の奥の瞳を閉じ、冷や汗に濡れた自らの顔を、夏帆の熱い胸板の奥深くまで、狂おしいほどの執着とともに埋め込んでいった。




