第32話:「ばあちゃん、これみかん代わりにどうぞ! プロテインバーだけど!」
第32話:「ばあちゃん、これみかん代わりにどうぞ! プロテインバーだけど!」
『……ヒモジイ……サミシイ……』
樹海の奥深く。光の届かない玄武岩と苔の迷宮に、地鳴りのような老婆たちの怨嗟が反響していた。
甲州婆・トメ。かつてこの森に捨てられ、飢えと寒さの中で泥を啜りながら死んでいった者たちの残留思念。
無数の白髪の首が木々の間を飛び交い、枯れ枝のような腕が、泥の中から次々と突き出して足首を掴もうとする。周囲の空気は、彼女たちが味わった「飢餓」のコンテクストを帯びており、そこにいるだけで急激に血糖値が低下し、強烈な目眩と悪寒を引き起こす呪いの磁場を形成していた。
倉田涼音は、パンプスで腐葉土を深く踏み抜き、大きく体勢を崩した。
——動悸が、治まらない。
涼音の胸の奥で、心臓が警鐘のように激しく、不規則に打ち据えている。ドクッ、ドクンッ、と、肋骨の内側を直接殴りつけるような重い脈拍。
額から噴き出した冷や汗が、チタンフレームの眼鏡のレンズを曇らせる。
極度の過労による自律神経の崩壊。それに加え、この異常な高湿度と低気温が、血液の循環を致命的に阻害している。手足の先が氷のように冷たく、感覚がひどく鈍かった。
「……急激な血糖値の低下による、一過性の低血糖症状。および、不整脈ですわ」
涼音は小さく震える息を吐き出しながら、自身の体調不良に完璧な医学的診断を下した。
倒れるわけにはいかない。このまま意識を手放せば、前を走る圧倒的な熱源から完全に置き去りにされてしまう。
涼音は泥にまみれた右手を近くのヒノキの幹に押し当て、無理やり膝の震えを固定した。
『……オマエモ……コッチニ……コイ……』
「おばあちゃんたち、朝からホント元気っすね! でも歩きスマホ(呪詛)は危ないよ!」
老婆の呪いを、夏帆の野太い声が物理的に叩き割った。
数メートル先。夏帆は、足元から伸びてくる亡者の枯れ枝のような腕を「不整地の天然のハードル」と誤認し、ナイキ・ショックスで次々と踏み砕きながら、凄まじいスピードで腿上げ(ハイニー)のステップを踏んでいた。
タンクトップから溢れ出る莫大な代謝熱が、周囲の冷気を真っ白な水蒸気へと変えていく。
「よし! このまま一気に心拍数上げて——おっと」
夏帆が、ステップの途中でピタリと足を止めた。
振り返った夏帆の視線が、ヒノキの幹に寄りかかって動けなくなっている涼音を真っ直ぐに捉える。
その瞬間、夏帆の顔から、いつもの限界陽キャの能天気な笑みが完全に消え失せた。
ドンッ!!
ショックスのスプリングが爆発的な音を立てて溶岩を蹴り砕いた。
夏帆が、凄まじいスピードで涼音の元へと引き返してくる。
シトラスの香水と、莫大な体温が、熱風となって涼音の顔面に吹き付けた。
「涼ねえね!!」
夏帆は涼音の正面に滑り込むと、スポーツバッグのサイドポケットから、銀色のパッケージに包まれた分厚いチョコレート味のプロテインバーを引き抜いた。
バリッ! と乱暴に包装を食いちぎる。
「顔色マジでヤバいって! カロリー入れないと死ぬぞ!!」
夏帆が叫んだ。
その声は、かつてなく低く、そして焦燥に満ちていた。
涼音は、夏帆の顔を見上げて、チタンフレームの奥の瞳孔をわずかに収縮させた。
夏帆の目が、血走っている。
心霊スポットでどれだけ恐ろしい怪異に遭遇しても、決して恐怖を見せず、「サウナ」や「ライブ」として消費してきた夏帆が。今、ただ疲労で立ち止まっただけの自分に対して、異常なまでの切迫感と、微かな「怯え」を露わにしているのだ。
夏帆は、剥き出しになったプロテインバーを、涼音の口元スレスレ——唇が触れるか触れないかの距離まで、強引に押し当ててきた。
「いいから口開けな! 噛まなくていい、水で流し込むから!」
夏帆の荒い息遣いが、涼音の鼻先に直接当たる。
火傷しそうなほどの熱量。夏帆の左手が、涼音の後頭部を逃げられないようにガッチリとホールドしている。
押し付けられたプロテインバーから、濃厚なチョコレートと人工甘味料の匂いが鼻腔を突く。
だが、涼音は、固く口を閉ざしたまま、首を横に振った。
——ダメだ。
なぜだかわからない。だが、涼音の脳の最深部にある本能が、激しい拒絶反応を示していた。
何かが決定的に破綻してしまうという、言語化できない強烈なノイズ。
「……極度の疲労状態における、固形物の強制的な嚥下は、胃腸に致命的な負荷を与えますわ」
涼音は、閉ざした歯の隙間から、氷のように冷たく、完璧な理屈を絞り出した。
心臓は狂ったように脈打っているのに、なぜか胃袋だけが、完全な真空状態のように何の感覚もない。
「それに、貴女の汗と泥が付着した手からの直接摂取など、衛生管理の観点から絶対に許可できません。感染症のリスクが——」
「理屈はいいから食えって!!」
夏帆が、涼音の言葉を怒鳴り声で遮った。
涼音の後頭部を支える夏帆の左手に、ギリギリと異常な力がこもる。
夏帆の血走った瞳が、涼音の顔を至近距離で睨みつけている。その瞳の奥には、過去の強烈な喪失のトラウマ——「目の前で大切な者が冷たくなっていくこと」への、本能的な恐怖が渦巻いていた。
『……ヒモジイ……オマエモ……!』
二人の周囲を、老婆たちの首が飛び交い、飢餓の呪詛を増幅させる。
だが、今の二人にとって、そんな怪異など背景のノイズ以下の存在でしかなかった。
「……不要ですわ」
涼音は、プロテインバーを押し付けてくる夏帆の右の手首を、自分の冷え切った両手で包み込むように掴んだ。
夏帆の圧倒的な熱。手首の静脈から伝わってくる、力強い生命の鼓動。
涼音はその手首を押し返すのではなく、逆に自らの頬へと強く引き寄せた。
「現在の私のバイタルサインの低下は、単なる血行不良です。必要なのはカロリーではなく、外部からの物理的な熱伝導による体温の回復……」
涼音は、冷や汗に濡れた自らの頬を、夏帆の火傷しそうなほど熱い手首に、スリ、と直接擦り付けた。
——この熱。私に対して異常なまでに必死になっている、この瞳。
夏帆の焦燥感と執着が、すべて自分一人に向けられているという事実が、涼音の胃の腑を満たしていく。プロテインバーの人工的なカロリーなど比較にならない、純度の高いエネルギー。
「……前衛による後方支援への物理的な介入。戦力の維持という観点において、貴女の行動は極めて合理的ですわ」
涼音は完璧な自己欺瞞の理屈で自身の歪んだ独占欲をコーティングし、チタンフレームの眼鏡越しに、夏帆の血走った瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
夏帆は、手首に押し当てられた涼音の頬の異常な冷たさにハッと息を呑み、プロテインバーを持つ手の力をわずかに緩めた。
「ばあちゃんたち! アタシらはまだ腹減ってないから!」
夏帆は突然、手に持っていたプロテインバーを、周囲を飛び回る老婆の怨念の群れに向かって、全力で投げつけた。
「これ、みかん代わりにどうぞ! たんぱく質20グラム入ってっから、しっかり筋肉育てなよ!」
プロテインバーが、怨念の形成する冷たい霧のど真ん中へ吸い込まれていく。
老婆たちの怨嗟の声が、突然の供物(?)の飛来に一瞬だけピタリと止んだ。
その隙を突いて、夏帆は涼音の後頭部を支えていた左手を脇の下へと回し、涼音の身体を強引に引き起こした。
「立てる!? 早くこの霧抜けるぞ!」
「……ええ。移動に伴う歩行の補助を要請しますわ」
涼音は、夏帆の腕に自らの全体重を預けた。
心臓の動悸は止まらない。冷や汗も引きはしない。だが、夏帆の腕の中にすっぽりと収まり、その莫大な熱量を独占しているという事実だけが、涼音をこの死の森に繋ぎ止める絶対的な楔として機能し始めていた。




